• 締切済み

新約聖書にある預言者とは

新約聖書 福音書について質問します。 新約聖書を読むと、随所に預言者の言葉が成就したとの記述があります。 たとえば、マタイによる福音書によると、 主が預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためにおこったのである。 “見よ、乙女が身重になって男の子を産み、人はその子をインマヌエルと呼ぶであろう。” ・・・・・・・・・・・・・ 預言者エレミヤをもって言われた言葉が成就したのである。 “声がきこえた、-ラケルのはげしいわめきとなげきの声である。・・・・・” ・・・・・・・・・・・・・・ “彼はナザレ人と言われる。”と預言者たちをもって言われた言葉が成就するためであった。 ・・・・・・・・・・・・ “悔い改めよ、天の国は近づいた。”この人は、預言者イザヤによってこう言われた人である。 “荒野に叫ぶ者の声はひびく、主の道を用意し、その道をまっすぐにせよ。” ・・・・・・・・・・・・ このように、預言者の言葉が成就したと書かれていますが、その預言者の言葉はどのような本に載っているのですか。教えてください。

みんなの回答

  • wwm2002
  • ベストアンサー率37% (20/53)
回答No.1

 主に旧約聖書ですね。  イザヤの言葉ならば「イザヤ書」、  エレミヤの言葉ならば「エレミヤ書」に記述があります。  旧約聖書の中でも「イザヤ書」~「マラキ書」までは預言文学と呼ばれ、そういった記述が多く記されています。

trubuzon
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 以前から疑問に思っていたことが分かりました。 お礼申しあげます。

関連するQ&A

  • 旧約聖書の預言が新約聖書で成就している件について

    私は、キリスト教に、中立の立場で、勉強している者です。 旧約聖書の、様々な預言が、新約聖書で、幾つも成就しています。 例えば、メシアが、ベツレヘムで産まれる、など。 キリスト教&聖書に、批判的な立場の人は、この件を、 どう説明するのでしょうか、よろしければ、教えてください。

  • 新約聖書について。

    新約聖書について。 マタイの福音書1章1~17節にあるイエスキリストの系図があります。 アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロン移住まで14代、バビロン移住からキリストまで14代とあります。 何の気なしに見ていたのですが、ところどころ人が抜けていたり、数えても14にならなかったりします。 これは間違いなのでしょうか?

  • (新約聖書)配列順の意味は?

    1 手元の新約聖書は「マタイによる福音書」に始まって「ヨハネの黙示録」で終わっています。多分、世界共通なのだと推測しますが、この配列順は何を意味していますか。 2 最初に成立したのは何で、何時頃のことですか。 3 「福音書」と「手紙」はどう違いますか。 よろしくお願いします。

  • イザヤ書7:14は成就しなかった?

    イザヤ書7:14においてインマヌエルの生誕が予言されていた。マタイ1:23でインマヌエルのイザヤ書7:14が成就したような言われ方をすることが多いようです。 でも、生まれた子の名前はイエスですから、インマヌエルではありません。だから予言は成就しなかったことにはなりませんか?

  • バビロンが滅びる聖書の預言

    聖書には、ビロンが滅びることが預言されており、 バビロンは滅びて永久に人が住まない場所になるという預言が、 その通りに成就しているそうです。 やはり聖書は真実なのでしょうか。

  • 聖書について。

    旧約聖書の創世記では、複数の作者の話が一まとめになっています。でも、新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書が別々に書かれています。どうして、話のまとめ方が創世記と福音書では違うのか教えて下さい。

  • イエス・キリストの言葉について

    新約聖書の「マタイによる福音書 24 15~16」と、「マルコによる福音書 13 14」に、イエス・キリストの言葉として次のように書いてありますが、  「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら(読者は悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 この文で、「読者は悟れ」と言う文言も、イエス・キリストが言ったことなのですか?  それとも、「読者は悟れ」というのは、マタイやマルコが書いた文言なのですか?

  • 預言者エリヤ再来

    聖書の強力な預言者であるエリヤは、死を見ずして天に上げられましたが(列王II2章11)その後、預言者マラキにより預言され(マラキ4章5)再度地に遣わされました。 それが、新約聖書では、洗礼者ヨハネがその人と言われています。(マタイ17章11-13) よく言われる輪廻転生とは少々異なる点、死んで生まれ変わるとは違いますが、エリヤ再来の際には、女性の体から生まれています。 なぜ神は新たな強力な預言者を創り遣わせず、エリヤにこだわったのでしょうか? 生まれ変わりがある事を伝えたかったのでしょうか?

  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • どうしてイエスは「インマヌエル」と名づけられなかったの?

    イザヤ書の預言が成就されたのならイエスではなく「インマヌエル」(「神はわれわれと共におられる」)と名づけるべきではなかったでしょうか?