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イエス・キリストの言葉について

新約聖書の「マタイによる福音書 24 15~16」と、「マルコによる福音書 13 14」に、イエス・キリストの言葉として次のように書いてありますが、  「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら(読者は悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 この文で、「読者は悟れ」と言う文言も、イエス・キリストが言ったことなのですか?  それとも、「読者は悟れ」というのは、マタイやマルコが書いた文言なのですか?

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  • ANASTASIAK
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回答No.1

>それとも、「読者は悟れ」というのは、マタイやマルコが書いた文言なのですか? マタイやマルコが書いたといっても、その写本はいくつもあります。 信頼される写本にはのっていないけれども、他の写本にはあるという ことばもあります。そういうものは括弧でくくって表示されています。 信頼される写本といっても、所詮は人間が転記したもので、つづりの 誤り、見落とし、自分の意見の挿入、いろいろあるわけです。 なので、いちおうこう書かれている資料もあります、ということです。 少なくとも、イエスがそう言ったことばではありません。

norifin
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  • kigurumi
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回答No.3

そのダニエル書の原型は、死海文書の「ナボニドスの祈り」で、そのナボニドスの祈りは、バビロン神話を元にしてユダヤ版に脚色されたようなんですね。 さて、ユダヤ教では、自分の思想を物語にして語り、その際 自分の名前ではなく、以前の偉人とされた人を登場させて、思想を表すという慣習があったそうです。 そして何回も書き直されて完成を試みていたようです。 だから、同じような内容なのに、詳しく見るとところどころ内容が違い、似ているのに外典扱いされる書物が複数あるわけです。 従って福音書にしても、その慣習通りだと思います。 思想家が過去の偉人とされた人を名前にして思想を書いた。 福音書の作者はどの偉人を選んだか というと、ヨシア王だと思うんですね。 ヨシア王は残虐な行為をやったと聖書には書かれていますが、後の人が加筆したためそうなったらしいです。 メキドで戦死しましたが、そのメキドが後の最終戦争がひきおこる場所 つまりアルマゲドンってなったわけです。 ヨシア王の時代の激戦地でヨシア王が死んだ場所だったわけです。 ややこしいのですが、ヨシアとイエスは同じ名前。 なのに何故か日本語聖書では別名にしてある。  福音書はギリシャ語を聖典としているので、ギリシャ語読みであるイエススからとって日本語でイエスと表記しているみたいです。 ただし福音書は最初からギリシャ語だったわけではなく、元はヘブライ語やアラム語だった可能性があり、そうなるとやはりヨシアの方が近い。 ((イエシュアがヘブライ語に近い発音ですけど)) で、それはいいとして、この<読者は悟れ>ですが、この括弧が何を意味するのか? 死海文書の解説本を見てもやはり [  ]でくくってある。 その括弧の意味が本に表示されていない。 うむむむむ。。。。 クムランの書物の中に解釈が載っているものがあります。 クムランは義の教師を得たことで、難解なヘブライ語やアラム語の書物の本来の意味をわかることができたと喜んでいた。 例えばハバクク書注解。 ハバクク書2・1-2の説明はこうなっている。 【私たちを見張るために立ち、わたしたちのとりでの上に身を置き、神がわたしに何と言われるか、またいかに[神が]わたしの訴えに[答えられるかを]みるために見張る。主はわたしに答えて[言われた]。「幻を書き記せ。読むものが]瞬時にそれを読めるようにいたの上に[あっきりと記せ] ・・・・そして神はハバククに最終の世代に起こることを書き記すように言われたが、いつ時が終わるか明らかにされなかった。そして神が言われた事柄、「読む者が瞬時にそれを読めるように」ついてであるが、解釈すれば、これは神がご自身の僕たちである預言者たちの奥義全てを明かされた義の教師に関わる。】 恐らく欠落しているというより、ヘブライ語をギリシャ語に直すと、ギリシャ語には無い語彙があるので、意味をなすために補って文章を完成させるため[ ]を使って語彙を補ったんじゃないかと思えるんですね。 この上に記述したハバクク書に「読者は悟れ」と同義と思えるものが存在していると思えます。 「読む者が瞬時にそれを読めるように」の読む者とは誰か。 祭祀。 ダニエルは預言者であり、ハバククも預言者。 神からの啓示を幻視で読み取り、それだけでは何を言っているのかわからないので、義の教師が注釈を入れて、祭祀でもわかるように解説したことになっている。 だから、預言者がさずかった言葉について、クムランではその文書の注解が存在しているわけです。 ぺシェルには数段階の解釈があり、独自の解釈になるたび[  ]がつけられているようなんですね。 原文に書かれていない部分で注釈者の解釈のため補う語彙の部分が[  ]だと思えます。 蛇足ですが、、、 イエスが言った言葉か、福音書の作者が書いた言葉か? 注解者の補足の言葉だと思うし、それ以外の文書もイエスが言った言葉だとは思いません。 というのも、、、、 イエスが言ったとされた言葉。 恐らく全部、既に過去に言われているものだと思います。 既に他の人が言っていたものをモチーフに書かれている。 なにも新しいものはないんですね。 有名な山上の説教がありますが、あれも過去に既に書かれているので、イエスの言葉ではないです。 (預言者が過去に語ったものの元は神の言葉なので、イエスは神なのでその過去の預言者たちの言葉は結局神であるイエスの言葉だ となれば そういうことになりますが。) いわゆる解釈は微妙に時代により違ってきますが、何度も書き換えて思想家が時代時代によって、前の人の思想を変更ではなく完成しようとしたんじゃないかと。 だから福音書の作者も、同じことをした。 イエス という名前を登場させて、義の思想を完成させようとした。 ヨハネの黙示録も作者も、ダニエル書を読んで完成しようとしたと思えます。 イエスって人が実在の人物を元にして書かれたのか? わかりません。 そもそもいつの時代の人か聖書から作者の生きた時代すらよくわからないんです。 イエスが生きたとされた時代はいつか。 ヘロデ大王の治世時代がイエスの生まれた頃の時代と物語に書かれているので、筆者は恐らくそれ以降の人。 ですが、イエスが実在の人物かというと、わからないんです。 ヘロデ大王の悪事についてこれでもかと書かれた書物には、肝心のイエスが災いを免れたとされる幼児虐殺のことが一切書かれていない。 これでもかとヘロデ大王の悪事が書かれているのに、この事件だけが記録されていないなんておかしいですよね。 つまり、聖書でイエスの両親がヘロデ大王の幼児虐殺から逃れるため、と書かれたものは事実そういうものが無かった可能性が高く、創作の疑いが強い。 従ってイエスのモデルとなった人がいたとしても、その時代がわからないんです。 ましてや創作の物語づくしだと、ハリー・ポッターと同じレベルになってしまう。 逆にピラトは実在の人物ですが、実像とは逆に聖書では描かれている。 イエスに罪が無いと思ったとなっているがとんでもない。 彼は悪代官みたいなもので、疑いのあるものは裁判なしの即処刑をしていた無情な人物だった。 ユダヤの神殿にユピテル(デウス)を立ててユダヤ人に拝ませようと挑発したり。 後にユダヤの民から悪事をローマ帝国に告発され解任されています。 何故か聖書では 心優しい人物と書かれている。 これも創作。 つまり聖書作者はその時代に生きてはいなかった もしくは ギリシャ生まれのギリシャ育ちで一度もパレスチナには行ったこともない人物だった、もしくは又聞きの又聞きして興味を覚えて思想を本に表した義の探求者だった可能性がある。 何故ならギリシャの義の哲学(権威や地位を全て剥奪され、つまり紫の衣を奪われ、鞭打たれ、槍で突かれても、死ぬまで義を捻じ曲げないで貫くことができきた人が真の義と考えられていた)に沿った内容であり、ユダヤの義の思想とは全く違うから。 根本的に義の思想がユダヤとギリシャでは違う。 「義のため迫害されたものは幸いなり」はギリシャ哲学の正義に添った翻訳。 ヘブライ語に戻すとその言葉は「救いを追い求めるものは幸いだ」です。 意味が全然違う。 誤訳のため、殉教すると天国にいけるかのように思われて今日に至っています。 こんな感じで、沢山の誤訳が新約聖書には載っています。 新約というより誤訳聖書。。。。になっていますが。。。。 せっかくの過去の思想家の言いたいことが、誤訳により2千年間も間違って伝えられてしまった。 どうしてこのようなことが起こったかというと、シラの子イエスもヘブライ語文書をギリシャ語に翻訳する際に、「どうしてもヘブライ語の語彙をギリシャ語に直すと、直接意味する語彙がギリシャ後(コイネー)にはないので、正確には翻訳はできません」と言っています。 つまり、ヘブライ語を他の言語に変換しようと無理したため 本来を意味が伝わらなくなってしまったらしいんです。 一字一句変えてはならないって書いてあるのに、、、ねぇ・・・・ 翻訳した段階で、その掟を破ってしまったわけで、ギリシャ語生まれのギリシャ育ちのユダヤ人は、、、、ヘブライ語を学べばよかったのではないか、、、と思います。 ヘブライ語を話せるユダヤ人が一人もいなかった? 確かに。 パレスチナに住んでいるユダヤ人の何倍ものユダヤ人がギリシャ方面に住んでいましたから。 ギリシャではヘブライ語・アラム語は必要なかったので、誰もしゃべれる人がおらず、ギリシャ語でユダヤ教を理解しようとしたんでしょうね。 日本人だって、結局 ヘブライ語を学ばない限り、誤訳づくしの聖書を懸命に理解しようと無駄な努力を強いられるだけです。 確かに聖書は難解ですが、難解な理由の一つは誤訳により意味が通ってない文書が聖典となっているのが原因の一つなんです。 2千年も間違えた教義を教え続けたって、かなりすごいです。 どれくらいの人がそれにより被害をこうむったか・・・・ といってもイエスが実在の人物で、そのようなことを言ったという確証は無いので。。。 ただ、ヘブライ語に戻した後の文書を読むと、熱血ヘブライ人の思想がどんなものだったか見えてきます。 平和ボケしている日本人とは全然違う熱血さです。

noname#247846
noname#247846
回答No.2

「読者」なので、それはおそらく福音書を書いたマタイやマルコが後で書き足した言葉だと思われます。

norifin
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