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芸術の重さ

私自身が、ハッキリとした結論を持てていないことなのです。 最近、ある作家の作品(小説)を巡り、作者と、そのモデルにされたという女性の間で起きた裁判のことを思い出す機会があり、改めて少し考え込んでしまいました。 「人一人の命は地球より重い」とかいうコトバがあります。 これをまねた言いかたをしてみると 「人一人の心は芸術より軽い」 と言えるんだろうか??と。(ヘンな言いかたなのでしょうけど) 私自身、もとが、書く側に身を置いている(いた)者でもあるので、けっこう長年、おりにふれて考えていたことなのですが(多分、筆が進まない原因の一つになってると思います) 芸術作品の重さって?その価値って??芸術は天下無敵??? そのあたりについての御考えや示唆を与えてくださいますでしょうか。 恥ずかしながら読解力ないので、なるべく平易なコトバがありがたいです。よろしくお願い申し上げます。

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noname#78143
noname#78143
回答No.2

なんでもそうですが、作品を発表するということはそれに付随する 一切の責任を負うという覚悟をすることだと思います。 訴えられたとしても、賠償金や謝罪や条件を相手の納得いく着地点へ もっていくべきです。それが責任を負うということでは ないでしょうか? 責任は取りたくない、しかし作品は発表したいというのでは インターネットの匿名掲示板と変わりません。 例に出された作品も、モデルにされた人物の了解を得ずに発表した 時点で、責任から逃げています。芸術だから何でも許されるのでは なく、発表したことによる一切の厄介ごとを引き受けるだけで そこのところを間違えて認識している困った人が多く見られます。 芸術だから自由にふるまっていいわけではなく、不自由な社会の一員 だからこそ心は自由でありたいと求めるだけで、ルールはルール として守るべきであると思います。 第一芸術が一番大事にしなければいけないのは人の心ですよ。

noname002
質問者

お礼

改めて、御回答にお礼申し上げます。 明快で共感を感じる御意見とは思います。 >インターネットの匿名掲示板 と、いわゆる文学作品の孕む問題には共通したものがあるように考えております。 >モデルにされた人物の了解を得ずに発表した時点で、責任から逃げています。 私も、それは思いました。しかし作家に言わせれば、作品というものは全てがフィクションなのだ、ということです。 >発表したことによる一切の厄介ごとを引き受ける つまりは自分の発言に責任を持つということと同じことかと思うのですが、発言をどう受け取るかは全く受け手側が決めることなので、そこまで責任持てないという考えかたもあるようです。それなら尚更、発言時点の姿勢に用心しなきゃならないとも思うんですが、ここに「自由な表現」という価値観の一つが入り込んできますのでコトバを用いる文学作品の場合は特に難しいものだと思います。 >ルールはルールとして守るべき 訴えられた作家の社会性が、しょせん未熟なのである、という意見もあるようです。子どもは当然、社会性が未熟ではありますが、にもかかわらず子どもの表現した作品が他者を傷つけるということは、まずないでしょうから、どのあたりで差が出てくるのでしょうね。 >芸術が一番大事にしなければいけないのは人の心 発表する側の心、受け手側の心…難しいです。。。

noname002
質問者

補足

早速のアドバイス有難うございます。 質問本文中で挙げておいたらよかったかなと思う参考URLなのですが この御質問に対する投稿No.6を御覧いただけば、私の今回疑問点が 後続の御回答者にとっても、より理解しやすくなるかと考え、補足させていただきました。 なにしろ知識も乏しく、問われている本旨に沿うこともできず、他の御回答者様がたへ述べられた補足や御礼文のほうを重く見ながら書きなぐっておりますので、御質問者のかたに相当ご迷惑かけているありさま、恥の上塗りのようで、とても迷いました。しかも、かなり長文ですので、もし御気が向かれたらということで結構です。 『物語の登場人物と、倫理』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3691099.html

その他の回答 (21)

noname#91067
noname#91067
回答No.22

>「てにをは」つまり助詞は「接着剤のようなもの」という喩えがありま  す。  繋ぎ合わせて構造をつくり上げていくもので、  これがシッカリしていないと建物全体の構造が狂ってくる。 ありがとうございます!最も初歩的な基本的な質問でしたね。 「助詞」だったんですね。文の前後にある側面と側面を繋ぐ?接着剤ですね。 ちゃんと理解できているのか自分でもよくわかりませんが ひとつ賢くなれました感謝します。   >(意識しなくても文脈を誤らないこと)は音楽方面で言われる    「絶対音感」のようなものかなと思います。   >感性と論理性とを自在に使い分けること    ができれば理想的なのでしょうね。 なるほど!流石に理解しやすい説明です。 逆質問して教われたことは私の果報にします。 しかるに感性は生の欲求(リビドー)で、 理論性は死の欲求(タナトス)だとすると、 安定しているのはタナトスですから、 リビドーのリズムバランスがとれなくなると タナトスに向かう欲求が出てもきましょうね?  タナトスには曖昧なものがありませんから安定するのです。 しかし、死んで安定するという生き方は 肉体を離れて霊魂になる以外にはないもので、 幽霊が生きているなら、不安定な肉体を持って生まれる意味 があったのかどうか? 多少生活が不規則でも環境が変わっても 人体には恒常性と柔軟性があり、 無秩序にも異変にも自らの秩序を変えてでも抵抗します。 人生にも人間が作った倫理、法がありますが、 だからといって世界に向けて犯罪を出来なくさせたりることは出来ない。 そこで臨機応変に目的を変えることを選択すれば、 守備範囲を広げる好転機ともなりえます。 官僚を目指して頑張ってた人が公務員試験が不合格となっても 死ぬ必要はなく、ましてや合格したライバルを刺し殺す必要もない。 公務員試験とは全く無関係でも幸せになる方法は いくらでもあることに気がつくだけで挫折もいいものなのに。 それで、「不愉快な芸術」とされるものが原因で命を落とす人というのは、「損な気質」だとも思います。 価値観の相違が原因で不快となる事柄は芸術作品でなくても、 相思相愛の男女に至っても価値観の相違が原因で どんどん人生が無価値になる、腐るということはあります。

noname002
質問者

補足

>最も初歩的な基本的な質問でしたね 質疑応答の規約上からも今後は、どうか御自身で調べる等なさることをお勧めします。 今回御投稿内容についても全体的に本質問との関連具合が残念ながら私には不明でした。特に公務員試験の事例などは全く別種の問題のように思います。 ただ芸術作品はリビドーかタナトスなのか或いはリビドーの後タナトスに至ったものとでも言えるだろうか、というふうに思いました。 小説の書き手は、その作品世界の中では神です。 書き手の実生活と人生に深刻な影響を齎したわけでもない一市民である他人を、ある種の横着さを以って現実世界から剽窃し自らの王国内へと連れ込み、命じた役回りを演じさせるための衣装を強制的にまとわせたうえで裁判するというようなことが、その始終を世間に公表することを以って、もしも芸術という名において称えられることがあるならば、世のあらゆる巧妙な策略、讒言、デマゴギーの類にも、その栄誉は与えられるべきでしょう。 No.1、2の補足欄にて紹介しました文学カテゴリーの質疑応答内でも触れられているリテラシー問題等について御投稿者様は全く考察外とすべき判断をしておられるものと拝察しました。 一般受け手(読み手)側の多様性或いは多様性の逆であるとしても、仰るところの「損な気質」の人がいることと同様それ自体が自然の有様には違いありません。そして「損な気質」と御投稿者様が名づけられたところの存在者も、まさに自然の芸術作品として「赦された」存在ではないでしょうか。同時に、この人は人為による芸術の重さを最も認める人でもあると言えるわけです。 いわく「損な気質」の現実存在であることをやめるやめさせることと、書き手側において選択を行うこと、どちらの方が、より困難なのか疑問に思いました。書き手側が選択不能であるなら、その書き手は「損な気質」「得な気質」どちらになるのでしょう。 ところで御投稿者様御自身は芸術という人為を重んじ優先する人ですか、それとも軽視する人ですか? どんどん本筋から逸れ、、、と思っていたら、結局ずい分安直な結論に落ち着いてしまったような…やはり自分が当事者であったならという意識や想像力が希薄でいらしゃるということなんでしょう。私としては、ちょっと倦怠感すら。。。もう、ここで質問するのやめようと思うくらい(笑)ああ、またもや「削除依頼」されちゃったら大変(苦笑 ここで、御投稿者様御自身「損な気質」「得な気質」さて、どちらでいらっしゃるのか一度自問なさってみてください(笑 たびたび御投稿有難うございました。 「芸術と見なしうる殺人の終局の目的はアリストテレスによる悲劇の目的と同じく「憐れみと恐怖の手段によって心を浄化する」ことにあるのである。」ド・クインシー『殺人の芸術的考察』 「世界の組織のなかでは他者は無きに等しい。だが他者は私に闘いを挑むことができる、つまり他者を打つ力に対して、抵抗力によってではなく、その反応の予見不可能性そのものによって対抗しうる。他者が私に対抗するのは、より大きな力によってではない。即ち、算定不可能であり、したがって全体の一部分をなすかのようなエネルギーによってではなく、この全体に対する他者の存在の超越そのものによってなのである。この超越は何らかの権力の最上級ではなく、まさしく他者が超越することの無限性である。この無限が、殺人よりも強く、他者の顔においてすでに我々に抵抗している。この無限こそが他者の顔であり根源的な表出であり《なんじ殺すなかれ》という最初のことばなのである。」レヴィナス『全体性と無限』 この質問へ御投稿くださった皆様へ 残念ながら今回は私自身の疑問を明快に解決できるまでに至りませんでした。ですが幾つかの御回答やアドバイスからは何らかの指針を受け取ることができました、今後の参考にさせて戴きます。改めて厚くお礼申し上げます。 何か欠けてるものの方が完璧なものより美しい~田村由美 ハイネは神域にまで達した悪意というものを持っていた。この手の悪意を抜きにしては私は完璧ということを考えることが出来ない~ニーチェ 芸術を現して芸術家を隠すのが芸術の目的である~ワイルド 完全に自己を告白することは何びとにも出来ることではない。同時にまた自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない~芥川龍之介 私は文学を告白と解する。その解釈が偏狭であろうと、そうとしか解せない~ヘッセ 倫理的にしてはじめて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり~夏目漱石 文学は、人間が堕落する度合いだけ堕落する~ゲーテ 芸術こそ至上である!それは生きる事を可能にする偉大なもの。生への偉大な誘惑者、生の大きな刺激である~ニーチェ 人生は生きるに値するということが、あらゆる芸術の究極の内容であり慰めである~ヘッセ

noname#91067
noname#91067
回答No.21

お礼に加え多分にも有意義な返信ありがとうございます。 私も著書を読んでませんし、その問題のこと自体を全く知らないので勝手な推測で、中立の立場をとってみたつもりですが、気を悪くされる人がいるかもしれません。いい加減なことを書いてしまいました。この場をお借りして申し訳ありませんでした。 話を質問に戻します。 非難すればするほど盗まれ、自分さえ失うことがあります。 なりたい自分というものがあってそれを失うかも。なぜなら想いを馳せることなく自分は得られず、他者がいてこそ想われる自分を自分が生かせるから。 どうせなら信頼して相手を正直にならせる、或いは信じきることで相手は嘘の突きようをなくさせる(失望したり飽きるまでですが)。 それが>「距離保って」はごもっともな賢明さですね。 一歩踏み出して信じようとするなら「何を信じているか」の証明を見つけることだってありえて、それは何らか確信していることがあるなら素直に従って充分です。出来ることがしたかったことだとしたら。 目的が和解か決別かでも違いますが、「疑いながら信じる」という摩訶不思議な?哲学の手段を用いるなら、芸術の要不要の区別はなくなり距離感があるだけになります。反動は自分に返るのも道理だから、非難や復讐が正しい道理というのも打ち消されたり。自分が傷つかない程度の距離って大事ですよね。 恐らく作者も構想段階でモデルになった人の取材?をしていると思うのですが、他人に生活苦のことや心情を打ち明けたりの時には信じてたからしたんだと思います。期待ハズレを想うぐらい信じたから「失う」に抱かれる。 期待するのも公理主義も幻想なんじゃないか。現実を示しているだろうか? 「ルールが守られないことが赦されるはずがない」と語気荒げても、現実はそうないことばかり。 思索が自由に論じられる意義を感じるところが哲学にもあって、ある情動はその情動に関心があって、重要にマークする。 哲学は結論を導く手段でもあるけれど、ある現象が表れるにはどんな根拠がなければならないかも逆に辿るので、結論に至れなくても現実の次善策の用意は出来てくるはずで。 モデルになった人が訴える情動(理性からなのだろうか?)の強さと、反響が及んだことで「芸術の重さ」を作者自身が産み出してから実感となり今後の有意義になるかもですね。順調な記憶を留めるには偶像が必要だけれど、罪は無形でも残ります。より有意義がついて来ます!?めでたし、めでたし。 芸術家でもないのに、文章は苦手なのに、この議論に参加してしまった私は「論理を理解したい」と、全く質疑の内容と無関係な夢を描いています…。私は内容(質)の説明ができない、幻想の言葉にうっとりする。私は社会人として生きてるつもりですが、言葉が孤立するとは!私だけが見ている現実(それは妄想)だったようです。 すみません、個人的に文法の質問ですが、いいでしょうか? >基本的な「てにをは」等々の問題が、スムーズな理解を妨げているかに思えます。 の中で、「て」は「~して、そして…した」とかいう表現のことですか? 接続詞的な用法ですよね?、接続詞は話の方向とか関係を示すのに大切なこですよね。接続詞難しいです。 私は方向性とか関係性を示すのが不器用という証明ですね。 自分に酔ってるだけで、現実の他人のことはどうでもいいという人でありました。無知は詐欺より悪いかもしれません。哀れ…(以下省略) 表現の下手を気にしないでいたこと懺悔します。お許しを(といいのこし自分の殻に逃げる)

noname002
質問者

補足

或る「芸術作品」が原因で自殺者が出てしまったとしたら、その人を「そんなことのために自殺するなんて愚かだ」と批判するでしょうか。では、そう言う人が「芸術は人の心よりも重い(人一人の心は芸術より軽い)」と価値づけることはできなくなります。「たかが芸術作品」のために人を不愉快にする権利でもあると言うのだろうか?不愉快になることも一種の「感動した」ことには違いない。 >幻想の言葉にうっとりする 哲学は、それでは通りません。ましてQ&Aです。 さて補足要求を出されていらっしゃいますが本質問から外れた事項ですので手短にまとめさせていただきます。 「接続詞」或いは接続助詞、助詞・助動詞の用法というものは紛らわしくて難しいですね。 「彼が彼女に伝えた」 「彼は彼女に伝えた」 「彼に彼女は伝えた」 ニュアンス、そして意味さえも変わってくるのが、お分かりになりますよね? 「てにをは」つまり助詞は「接着剤のようなもの」という喩えがあります。繋ぎ合わせて構造をつくり上げていくもので、これがシッカリしていないと建物全体の構造が狂ってくる。 言語的分類としては日本語は「膠着語」・「粘着語」とされるそうですが「孤立語」「屈折語」「抱合語」に分類される言語体系もあるそうです。なんだか同じ日本語のなかでも、こういう分類ができそうな感じがします(笑) とは言え私自身、本来は文法はめんどくさくて苦手です。ふだんは文法のことなど全く考えずに文をつくっています。ですから偉そうなことを言えた立場ではないのですが、それでも、こんにちまで、こうした面での問題を、とくには指摘されたことはありません。 喩えてみれば音楽方面で言われる「絶対音感」のようなものかなと思います。「音程の狂った歌を聴かされるほど苦痛なものはない」とは、私の母が、よく申していたことでした。 >表現の下手 と言うよりも説明が下手と言うほうが正確でしょうか。会社のなかでのやり取りなんかだと叱られるかもしれません。ゴメンなさいねズケズケと。でも鍛えれば、それなりの効果はあると思います。 感性と論理性とを自在に使い分けることができれば理想的なのでしょうね。たいがいの人は、どちらかに偏りがちですし、どちらに偏り過ぎても問題があると思います。私が、みてきた限りでは感性寄りの人が圧倒的なように思いますが、おもしろいことに、こうした人ほど論理的な述べかたに対して猛烈に反発することが多いみたいです(笑)「リクツ言いやがって」「正論ばっか吐くな」「優しくない」「分かってくれよ」日本人の特徴なのかしら。関係ないのかな。。。 (字数制限のため補足欄を利用致しました)

noname#91067
noname#91067
回答No.20

>>それなので意識され残されようとする芸術は 「生きて滅びる人間よりも自由から逃避している(執着)」 「そして夢」 >「芸術は長く人生は短し」というコトバがありましたね。 滅びることの自由からさえも、ですか。逃避する自由、執着する自由、を追い求めずにいられぬ不自由。結局は夢。夢見る自由だけが。 芸術が表象する執着は変化や破壊からの逃避です。 「抱きしめるのと絞め殺すことは同じ動作であることのように、食事を堪能したいがため欲するのは自分と食事を愛しているからなのだが、破壊する以上憎んでもいる」アラン 訴えた人にとってはその文学は呪いであって、「赦し」の対象とはならず、卑怯な屈辱の対象に見えているのでしょう。その呪いをかけられているような感じを受け、酷い苦しい辛い、という訴えから素人の素朴心理学の解説ですが「私にあなたが必要です。私をもっと、最も理解すべき人であるという必要を見出したのだから」なのでこれは嫌悪ではなく接近の手段にしている情動がさせています。 赦しは、正邪の裁きより、償いを求めることもない。 愛していながら破壊しない、運命に素直に従う。 そして「信頼しうると確信」してから赦しが湧くようなもので、正しさ以上の価値を与えます。 信頼を受けるには感情と行為と言葉が分裂していないことの条件。 単に卑屈な言葉を発し萎縮するだけでは高慢な態度と同じなんです。 印象を虐殺する覚悟があり自らで裁けるぐらいの勇気を示す事で赦されます。 一例で、高慢、欺瞞で溢れた社会より理性的であったソクラテスは、死刑宣告を受け周囲が逃げるよう説得したにも関わらず「私が罪を犯して裁かれるなら良かったというのか」といい信頼される為に毒杯を煽った。 必ずしも理性や善意が救われるものではない、何の罪がなくても罰を受けることは理性的であればあるほど受け入れる覚悟を強いられてしまうのも人生じゃなかろうか? 信頼する、破壊せずに、自分を、罪さえも慈しみから赦した証明はなされたのだと思います。 >或る芸術作品がないからといって即困ることはないけれど、現実の生活が心身両面において脅かされることを防ぐのは切実なことです。 有限な資質である生きた人間にどのくらいの責任能力があるのか? 時間を戻したり、あるものを無いものに変化させたり、全体の気配や解釈を一瞬で別なものにはできない。 芸術にも保険や保障が有効でしょうか? 安全弁として芸術家でも人を感動させないことでしょうか。 社会通念とか人間以上のものに?信頼に値させようとするならどういう方法があるのか私は知り得ませんが、例にしたソクラテスは理性から美意識からそう決断したんですね。 只今日本語と向き合うことも始めました。 遅いよって?(笑)叱咤激励、忠言など応援よろしく?

noname002
質問者

お礼

>芸術が表象する執着は変化や破壊からの逃避です。 その芸術作品が「変化」「破壊」を周囲にもたらすことがあるかもしれません。 >「私にあなたが必要です。私をもっと、最も理解すべき人であるという必要を見出したのだから」なのでこれは嫌悪ではなく接近の手段にしている情動がさせています。 訴えられた作家の、くだんの作品を読んでいませんし、モデルとされた人物の心情の本当のところは断定できませんが、もし、この人物が私自身であったなら「必要だ」とか「接近の手段」とか言うよりも…逆ですね。「そもそもアンタとアタシって、そこまで深い関係か?」とか「距離保ってほしい」とか。 ソクラテスの服毒事件について私個人は別段良いことをしたとも思わないのです。 >必ずしも理性や善意が救われるものではない、何の罪がなくても罰を受けることは理性的であればあるほど受け入れる覚悟を強いられてしまうのも人生じゃなかろうか? 「罰」というのは、くだんの作家の作品のようなことを指すのでしょうか? >有限な資質である生きた人間にどのくらいの責任能力があるのか? 時間を戻したり、あるものを無いものに変化させたり、全体の気配や解釈を一瞬で別なものにはできない。 芸術にも保険や保障が有効でしょうか? 安全弁として芸術家でも人を感動させないことでしょうか。 芸術活動、芸術作品というものは人為ですよね。 「感動」というコトバも、いかにも幅が広い。 数度にわたる御回答、有難うございました。

noname002
質問者

補足

>只今日本語と向き合うことも始めました。 結構なことと思います。ついては、この機会に一つ苦言申し上げますが失礼の段、御容赦ください。 私は感性重視の文章を自分で自発的に選び取って読むぶんには、それなりに楽しみますが、こうしたQ&Aの場では、できるだけ正確なところを理解しなければなりませんから(文学じゃないので)何度も何度も読み返すことになり、時間を浪費したような気分になってしまうことがあります。 思うに、どうも御投稿者様の文章は、文脈の通り具合、単語の繋がり具合、基本的な「てにをは」等々の問題が、スムーズな理解を妨げているかに思えます。私の洞察力の至らなさは、お詫び申し上げるとして、せっかく、いっしょうけんめい作成してくださったのに、もったいないことと思います。 尤もらしい固い単語を用いることに安易に頼ることなく、今回御投稿いただいた全文を、一行ずつ解体してみて、一語ごとの繋がり具合を確かめてみてください。 人間はコトバを用いてなお孤独です。そのコトバによって、ますます孤独を招くことのないよう心したいと思います。 芸術を語るとき、よく用いられる「普遍」という概念、これは論理とも切って切り離せないものですね。 (字数制限のため補足欄を利用しました)

回答No.19

質問の小説を読んでいるわけではなく また裁判の内容さえ知らないのですが >そうであれば理想的です >これを無視して世間に出した場合、不特定多数の読者にとって有意義な作品となっているからモデル人物さえガマンすればよい、とするなら結局は数の問題になってしまいます これは芸術家自身の問題ですよね。 発表する前にモデルになった人に読んでもらうことも可能なわけです。 最低限の礼儀といえるかもしれないです 理想と現実において 現実的に実行不可能なことと実行可能なんだけれどもしないということと違いますよね 名の知れた陶芸家は自分の気に入らない不出来の作品を世に出すのを恥とし割ってしまう。 不特定多数にとって有意義な作品となっているから 云々 というのは公表されてからの結果論なのではないでしょうか。 >私小説は他の分野と比べ一段低いものとして侮蔑を隠さない向きもあるようですが、理解の外ではないなぁとも思います。けれど実在の人間の事情を、ほぼそのままで使いたいのは、それだけ、素材としてバツグンに優れているからで、やはり生半可な個人の芸術的想像力などよりも、自然の造形物として実在する人の姿のほうが強烈な力があるのですね。。。 これが貴方自身の書きたいが書けない揺れ動く思いというところなのでしょうか?

noname002
質問者

お礼

>発表する前にモデルになった人に読んでもらうことも可能なわけです。 最低限の礼儀といえるかもしれないです こうした御意見は他のかたからも挙がっておりました。 「礼儀」というものは自他の存在、その尊厳を認めていることの表れですよね。 私個人の場合はモデル人物に読んでもらうということが不可能になっておりますが、訴訟を起こされた作家の場合は、モデル人物が否と意思表示したところで、やっぱり発表したのではないかな、とも思います。 >現実的に実行不可能なことと実行可能なんだけれどもしないということと違いますよね そうですね。「芸術活動」というものが激しく抑え難い衝動に裏打ちされたものなら、そして、それを他者に伝えるということまでを含めるべきものなら「しない」ということ自体が選択不可能なのかもしれません。 >自分の気に入らない不出来の作品を世に出すのを恥とし~ これも作家自身の個性の問題が関わっています。 >不特定多数にとって有意義な作品となっているから 云々というのは公表されてからの結果論なのではないでしょうか。 そうですね、ここでは結果論としての有意義さ如何を問うのではなく、公表されてしまった、もっと言えば、そういう表現で描かれてしまったことへのモデル人物の不本意や不快を考えています。 >これが貴方自身の書きたいが書けない揺れ動く思いというところなのでしょうか? 一部の思いであることは確かですね。 数度にわたる御回答、有難うございました。

noname#50219
noname#50219
回答No.18

NO.12と、NO.13の私の発言は、お取り消しください。 私の悩みを、私のかってで、打ち明けたものとなってしまいました。 煩わしてしまったかもしれません。申し訳御座いません。 (また、もし、至らない私にも、言えることがあったならば、その時には、どうぞよろしくお願いいたします。精進いたします。)

noname002
質問者

お礼

ただ今、先の御投稿にお礼申し上げたところです。 謝罪いただく必要は全くございませんでしたのに。 文は人となりが出ると言いますがコトバのありかたとは本当に難しいものです。 また、何の利害思惑もない単純過ぎる表現ゆえに、かえって裏を勘ぐられたり、殊更もってまわった表現をして伝わりにくくしたつもりでも、何かしらが、あからさまに出てしまっていたりということもあります。 コトバというものは、明確にすること、伝えることの役割を大きく持たされていますが、実際には逆のほうに効果を発揮してしまうこともありますから、まさに「諸刃の剣」です。 どうぞ、また御意見をお聞かせください。 お互いに精進してまいりましょうね。

回答No.17

道元禅師に典座教訓・赴粥飯法というのがあって 鑑賞者も審美眼がものを言うのでしょうね 売れるということと芸術的であるということとは別の次元だと思います。 芸術家として評価を気にして創作はしない。 料理は相手の状態を思いやり相手が美味しく食べることを念頭に置く。 この二つは相反するようにも思えますが それを統合する在り方を考察すれば 芸術はより普遍的な精神と表現の技術を持ちそれを基盤として 産まれると言えるのではないかと思います。 真善美 心技体 といったものに集約されていくような

noname002
質問者

お礼

御回答、有難うございます。 宗教関係のことには私は疎いですが、道元禅師というかたは殆んど独りよがりなまでに美意識が強いかただったとかいう話を聞いたことがあります。 >芸術家として評価を気にして創作はしない。 そうですね、売れる、つまり世間の評判がいいかどうか注目を集めるかどうか、誰それが、どう思うだろうかということも含めてかもしれません。 >料理は相手の状態を思いやり相手が美味しく食べることを念頭に置く。 「まごころ」ということでしょうか。 確かに「料理」ということなら、まずくて食べられないようなものは、お話になりませんが、それでも個々の味覚の違いによる好みの差はありますね。 ニーチェなどは「悪意」が含まれてこそ完璧な芸術となる、などと言ったそうですが、他人の不幸は蜜の味、ではありませんが自分自身が料理されてしまう対象でなければ、他人が醜悪愚劣に描かれていること自体は一つの快楽となり得るのかもしれません。

回答No.16

>「現代における解釈はつきつめてみると、たいていは芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性であることが分かる。本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力を秘めている。だから、それを解釈することによって、人は芸術を飼い慣らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。」 >「芸術作品は分類できる内容からできているという極めて疑わしい理論から解釈は成立しているが、これが芸術を冒涜するものだ。それは芸術を一個の実用品に貶め、頭の中に出来あがっている範疇に押し込めようとするものだ。」 >「批評の機能は作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味するかを示すことではない。」 長いお返事ありがとうございます。音楽、絵画のように「そのまんま」鑑賞できるというと、詩、短歌やあるいは「平家物語」「雨月物語」のような古典が多くなります(古典の場合、教養がないので言語のリズムと美に恍惚となれるのでしょう 笑) 小説の場合はどうしても解釈してしまいます、もちろん、解釈の必要なく堪能できる小説もありますけど。 どなたかも書いてらしたけど、その小説を芸術かどうか判断するのはあくまで読み手だと思うのです。小説の評価は個人差ありますよね。つきつめれば好き、嫌いになるのかもしれないけど、どうして好きかは説明するの難しいです。好きな人のことは知りたいように、解釈、分析したくなる小説って言うのはやはりそれだけ非常に魅力のある小説です。

noname002
質問者

お礼

長い返事を差し上げまして恐縮です。 音楽、絵画に比べ、文学の孕む問題の深く多いことよ、と思います。。。 ただ、詩については、これは文字でつくられた音楽、或いは絵画である、と捉えています。まぁ詩にも、いろんなジャンルがありますが。 『雨月物語』とくに私は好きなんですけど、なかに美しい男の子を食べてしまう住職の話がありましたが、これなんか、もし今現在の話だったら、「佐川クン」事件みたいな大騒ぎになったかもしれないと。。。^^; 古典が楽しく味わえるのは、これは大昔の話だからという安心感もあるからかもしれません。多少、理不尽に感じても、何せ時代が違うんだから、で納得しますし。 現代のものでもSFものなどは、モデルが誰だのという斟酌はいらない希少な分野のように思います。 >その小説を芸術かどうか判断するのはあくまで読み手だと思うのです。 結局そうですよね、読み手を期待している以上。だからこそ書き手の姿勢が厳しく問われるべきだとも思います。書き手よりも読み手のほうが圧倒的に多数且つ多様ですから。 芸術作品に対する評価に個人差の問題はつきものですが、厳しいことを言えば、個人の「好き嫌い」を言わせているうちは、まだまだ、ということなのかもしれません。 >好きな人のことは知りたいように、解釈、分析したくなる小説って言うのはやはりそれだけ非常に魅力のある小説 なるほど~。日常の人間関係でもそうですものね(笑)あっさり手におえる相手なら、解釈・分析するまでもなくミエミエですし。または、解釈・分析する意欲も起こらないとか(笑) 小説の場合、これでは失敗作です。少なくとも駄作。映画とかにも言えることのようです。「お涙ちょうだいもの」とか、何らかの意図が見えてしまうと、安っぽい、俗悪、という批判を浴びます。(但し、そういうのを喜ぶ世界もあります)とは言え、分かりにくくすること自体が目的みたいになってしまうのもナンセンスで興醒めです。 解釈も分析も許さず、ただただ圧倒されて、ぐうの音も出ないような域に到達してる小説って…あるのかな、ごく少ないだろうとは思います。 再度のアドバイスをいただき有難うございました。

回答No.15

広辞苑で調べると 芸術     技芸と学術と         特種の材料、技巧、様式などによる美の創作、表現 造形芸術(彫刻、絵画、建築など) 表情芸術(舞踏、演劇など) 音響芸術(音楽) 言語芸術(詩、小説、戯曲)に分ける場合がある。 芸術学(美学) 芸術を対象とし、これを科学的方法で記述、説明する学問 芸術心理学  芸術を研究する心理学の領域。創作の心理学と鑑賞の心理学とがある           創作者の心理も問題にされる。 芸術とはその中にある真善美とかいったものは何かということに行き着き それが創造者または表現者により表出するものということになると思います。

noname002
質問者

お礼

再度の御回答、有難うございます。 空間芸術、時間芸術、総合芸術といった分類もありますね。 >芸術心理学  芸術を研究する心理学の領域。創作の心理学と鑑賞の心理学とがある  創作者の心理も問題にされる。 これ、おもしろいと思います。 作者や、その個人的背景というものを、芸術作品を鑑賞するうえで一切視野に入れるべきでないという考えかたもありますし、鑑賞者側のリテラシー問題として考察されたりもするようです。 こうした姿勢は、いわゆる知識階級的と言いますか「リテラシーが高い」側から提示されるものですが、実際のところ作者の個人的背景を憶測或いは考慮しながら読み込むという態度は、一般の「素朴な」読み手について心配するよりも、むしろ「研究者」と名のつくような立場の人のほうが、より以上に、やっていることではないかと思います。 また「創作者の心理」これは制作動機が絡むことですし、「芸術」であるかどうかの判定には、作者側の動機面も重要事項として考慮されるべきという考えもありますから、心理的動機など作者の個人的背景を一切排除して鑑賞されるべきという考えかたと、どう対立していくか等、興味深いところだと思います。

回答No.14

料理に喩えれば料理を創る人というのは創作者で 食べる人というのは鑑賞者みたいなもので 創る人自身は好きだけれども、他の誰も食べたがらないのは 売れない小説ということになると思います。 料理にもいろいろあって駄作から芸術の域にまで達しているものもあるでしょう。 また料理には食べる人によって好き嫌いもあると思います。 純文学の類はこれに当てはまるのではないでしょうか。 料理人の創る料理は結局相手のことに思いを馳せ また美味しく食べてくれること念頭に創る物であって 私小説の場合不特定多数の読者が対象ですが、その中にモデルとなる人も入っていて その人にいい小説だなと思われて始めて万人を対象とした小説足りえるのではないでしょうか。 私小説の芸術としての本質はそこにあるのではないかと思います。

noname002
質問者

お礼

御回答、有難うございます。 実際の料理人とくに日本料理のそれは、素材の良さを生かすということを非常に厳しく重視するようですね。包丁さばきにしても、焼き加減、蒸し加減、味付けにしても、全て、素材本来の良さを、いっそう引き立てるためであると。 これを、たとえば、モデルとされた女性に訴訟を起こされた作家の場合、その作品のなかで、どのように、くだんの女性という素材を良く生かしきれているのか存じませんが、より問題になるのは、自然存在たる人の実人生に「芸術」という名の人為が有形無形に介入してしまうことの影響です。 >私小説の場合不特定多数の読者が対象ですが、その中にモデルとなる人も入っていて その人にいい小説だなと思われて始めて万人を対象とした小説足りえるのではないでしょうか。 そうであれば理想的です。しかし私の身近の者などは、とにかく少しでもマイナスイメージを伴うような個人的事情を描写されること自体が、作品の出来不出来とは全く別個に我慢ならない、という感情もあります。 これを無視して世間に出した場合、不特定多数の読者にとって有意義な作品となっているからモデル人物さえガマンすればよい、とするなら結局は数の問題になってしまいます。 私小説は他の分野と比べ一段低いものとして侮蔑を隠さない向きもあるようですが、理解の外ではないなぁとも思います。けれど実在の人間の事情を、ほぼそのままで使いたいのは、それだけ、素材としてバツグンに優れているからで、やはり生半可な個人の芸術的想像力などよりも、自然の造形物として実在する人の姿のほうが強烈な力があるのですね。。。

noname#50219
noname#50219
回答No.13

私の言葉は未熟です。

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