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哲学的な「価値」とは。

辞書で「価値」と引くと、そこには哲学的な「価値」の意味も載っていますよね。そこで疑問に思ったのですが、ここで言う「普遍的絶対的価値」というのは、その価値が「絶対的普遍的」なのであって、人間自体に必ずその価値が備わっている、という意味では無いですよね?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

例えば、キリスト教的神の真理性は絶対的かつ普遍的な価値として考えられていたのでしょうが、ニーチェが神の死を謳いを予言したことを「最高価値の無価値化」と言いますが、現代思想までのスタンスであると思います。 価値が備わっているということは、 生前的に持っているということでしょうか。 人間にその価値があると考える人もいれば、 そうでないと考える人もいるでしょうね。 哲学において、人間自体に人間的な素養を持つ価値があるという意味で捉える哲学者もいますが、そうでないということを語る人もいます。経験論のロックからすれば"はじめから備わっていない"と言うでしょうし、ライプニッツからすれば"はじめから備わっている"と言うかも。

その他の回答 (3)

回答No.3

「普遍的絶対的価値」という文言だけでは、 人間自体に必ずその価値が備わっている、 ことを意味しません。 その辞書にどのように記載されていたか全文を記載しないと 何とも言えませんが、直接そういうことを 意味してはいないと思います。 なぜなら、 人間自体に普遍的絶対的価値が必ず備わっている かどうかは、価値という意味を確定するのに 不可欠の要素では無く、その外側の事柄だからです。

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.2

>人間自体に必ずその価値が備わっている、という意味では無いですよね? そういう意味です。その価値は人間がなくなれば何の価値もなく なるものです。その価値は月の地上にはありません。他に地球と 似た惑星があって我々と同じような生物がいたとしても、彼らの 価値はおそらく我々の持っている価値と同じではないはずです。

回答No.1

>人間自体に必ずその価値が備わっている、という意味では無いですよね? これが正しいとしたら、生きている価値が無くなりませんか。 人間にも「普遍的絶対的価値」あると言うより、動植物にしかないのかも。

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