われらがあたらしい哲学へ

このQ&Aのポイント
  • 近代人と中世人との対比ではなく、古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。
  • 哲学は科学をどのように取り扱うかを問い求め続ける。
  • 西欧の哲学は「S-A連関」の全体を扱わない傾向がある。
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われらがあたらしい哲学へ

 たたき台としては論点をひとつに絞ります。  近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。  《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。  もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。  科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。  言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。  かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。  もう少し別様の説明としてのべます。:  ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。  そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。  すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。  これを名づけるとすれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語)  となると思います。  ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は:   《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合  が ふさわしい。こうなると考えられます。  このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。  西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。  普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。  忌憚なきご見解をどうぞ。

質問者が選んだベストアンサー

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  • a_hona
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回答No.3

以前、TVで、トラックの運ちゃんが、道について哲学的な事を話しているVTRがありました。内容は忘れましたが、生きた言葉としてとてもユーモアがあったように記憶しています。そんな風に、一生活シーンからこぼれ出てくる一種普遍性をともなった人生の金言は、聴いた人を笑顔にすると思います。 ともすれば人々を悩ませがちな学術としての哲学とは違った表情があり、私は好ましく感じました。 私は、生活言語と、学術言語は、対立するものでは無く、凡そ適性によって生じる偏りなのではないかと思います。生活言語に向いた人、学術言語に向いた人、バランスのとれた人、などがいるのであって、どの言語を使うべきかというべき論では規定できない性分というものの範疇に入るのではないでしょうか。 学術言語は形式を重んじ、生活言語は自由を重んじる。それぞれは違いだけがあって優劣の存する間柄ではないのでは無いか、私はそのように考えました。 自由な生活言語による哲学は、新しいのでは無く、ずっと続いて来たものなのだと私は思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ★ 自由な生活言語による哲学は、新しいのでは無く、ずっと続いて来たものなのだと私は思いました。  ☆ という見方が出来るなら その見方もあたらしいのだと思われますが その哲学の内容は すばらしいものであるはずです。  そんなものは無いではないかと疑うのではなく さりとて すでにこれこれこういうもの(思想でしょうか)があって それは 歴史的にあれそれの流れの中にある。安心出来ますよ じゅうぶんですよ。とまでは まだ言えないのではないか?  思想は 生活態度だと捉えていますし この思想について いろんな場合の可能性を加味しその上で広く理論化すれば りっぱな哲学である。とも考えます。考えますが まだない。かまたは すでにあっても 見つかってはいない。――のではないでしょうか。  ということは あたらしい哲学を模索してかたちづくって行くときにも せいぜいこれまでの歴史の中から そういった生活哲学――《自由な生活言語による哲学》――を拾い上げて行きたいというふうに感じます。  ★ 私は、生活言語と、学術言語は、対立するものでは無く、凡そ適性によって生じる偏りなのではないかと思います。生活言語に向いた人、学術言語に向いた人、バランスのとれた人、などがいるのであって、どの言語を使うべきかというべき論では規定できない性分というものの範疇に入るのではないでしょうか。  ☆ 微妙な違いを それでも述べることをおゆるしください。  学術言語は これは 学問としてなら そのままで十分ですが 哲学としては・つまりあたらしい哲学としては それだけでは やはり普遍性のある要素のみで構成した理論にとどまっていますから 不十分だと見ています。  生活言語は いま上で捉えて来たようにすでに一般性のある思想となっていてそこに幅広い可能性の問題を加味して理論化すれば それだけで さほど困ることもない。とは考えます。  でも一般には 普遍化は ほとんどしていない。そういう状態にある言語だと見られます。  ですから――次のように総合して哲学を形成するのは おかしいのかをおしえて欲しいのですが―― やはり両方をまとめて基礎としつつその成果ともしつつ 打ち出していくかたち。これに成るのではないかとは思っています。  《生活言語 - 学術言語》の総合的な基礎に立つ理論  といったところでしょうか。  ツッコミをよろしくどうぞ。

その他の回答 (11)

回答No.12
bragelonne
質問者

お礼

 ▲ EDMUND HUSSERL: Ideen zu einer reinen Phänomenologie und  phänomenologischen Philosophie   Erstes Buch: Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie  ☆ あぁ。これだ。たぶん これだ。読みづらくて 途中でほかったのは。しかも翻訳。  でも 解説がすごくうまく書いていた。ほとんど内容としては覚えていないが。    こんな内容 どこをどう読めば解釈できるのか? と思ったことも覚えている。  ドイツ語だけでお手上げなのに 読みづらい文字が入っているぢゃん。せっかくだが またの機会にします。せめて ふつうの文字のものを。そして 参考に挙げるそのチチェローネなら 案内を二言三言 書いておくもんだ。    あんた 自分の歳をどうしても伝えたいっていう意味? 勝手にしてちょ。  まさか ななにす婆ぢゃないだろうな。

回答No.11

<>おわりのうつけ <>おれはいいせんいってる はああ あなたはそのままストレートに、「す」で、ばかなんでしょ(笑)。 おわり と いう県はないですし、うつけというのは本来的意味で当てはまったているだけですね。 イメージづくりに躍起になり、必死なようですが。あなたは、じんせいがおわっていて、あたらしくないです。 イタいという言葉はほかの人の文章からも出ていますが、 ではどこが新しいのですか? 古事記? 聖書? あんたは、友達のいない精神のコジキ。ぼこぼこに殴られてて、敗残兵の死骸よりたちの悪い負け負け。 手も足も出ないはりつけ爺というのは、共通点かな。反論してみてください。論点は一つなんでしょ。 フッサールよんで出直してくれば? (これでもまだ古さはぬぐいきれませんが) ここから出てけっていわれてんでしょ。すなおにでてけ! 一週間に何回風呂に入っているか自白してもっと清潔にしろ! 家の壁1cm削って除染しても匂いの残る不潔年金泥棒さんへ(笑・くせえんだよ)。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ここから出てけっていわれてんでしょ。すなおにでてけ!  ☆ ここだけ違う。それとも わたしが知らないだけ?  バカだといまごろ知ったの? おくれているぞ。  ★ イメージづくりに躍起になり  ☆ これは 《尾張のうつけ者》と名乗ったから そう言われても仕方がない。  ★ うつけというのは本来的意味で  ☆ も 内来的・外来的意味でも 末来的意味でも当てはまっています。  ★ ぼこぼこに殴られてて  ☆ フルボッコで批判して欲しいという質問を挙げたけれど すべて返り討ちになってしまった。  フッサール 読んだことあんの?   ご回答をありがとうございます。

回答No.10

ふるいと あたらしいの区別さえつかない あなた。 そういうあなたは、哲学に向いていません。才能がないんですよ。 <>単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みる・・・・・ ありゃりゃ  中卒OKwaveのにほんご こく語のお勉強が必要ですね。 文章は最低限推敲してから提出するように

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  さて どうこたえればよいでしょう。  というより どう理解すればよいのか。  《才能がないんですよ》と言われる割りには いい線行っているでしょう?  アラシでも 文章を読んでくれたのだから よしとせねばいけないという人がいます。  でも それでは アラシを消極的に擁護しているかに映ります。まいか?  それとも 知能の状態が ただちにはどうにもならないのだから 放っておくしかない。のか?  《推敲》という言葉を知っているんですね。  根拠を――つまりは ご自分の考えの過程を――示すようにしましょう。ね。  遅すぎることはありません。  (少しはこたえたかなぁ)。  (おぼえているかぎりでは 二度目のご投稿ですね)。  (文章が バラバラにならないようにね)。へっへっ。  相手と同じようになりました。

  • asisai888
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回答No.9

>ちょっぴり省みられてもよいはずだ。といったことになりますが どうでしょう? すいません分かりませんでした 理性の崇拝を問題視してるようですが、なぜそれが問題なのかの記述が抜けてると思います 質問の仕方を変えます、省みることでどんな哲学的成果が期待できるのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  たとえば 近代人としては 《われ考える ゆえにわれあり》です。    ところが これは 古代人であるアウグスティヌスが 《われあやまつならば われあり( Si fallor, sum. )》と言って打ち出した命題です。その二番煎じです。  アウグスティヌスの場合には 人間の存在が《あやまつ(または あざむかれる)》といった人格の全体の行為にかかわって捉えられています。あやまちに気づいたとき われに還る。ゆえに われあり。と言っています。  けれども デカルトとかいうおっさんは あやまちに気づいたそのとき われはなぜ・どこで誤まったのか? 何を考えていたのか? と問うことになるそのときの《コギト(われ考える)》という部分的な要素にのみ注目して その部分的な要因――理性ないし思考――こそが わが存在の存在たる所以である。と言ってしまった。  なぜか この《あやまち》が 人びとの採用するところとなった。  理性は大事ですが 感性も知性もとうとく 人は大いに用いなければなりませんが だからと言って 理性が万能であったり全知全能であるわけはない。このことは もうつとに指摘されて来ていますが その反省の際に ひとつの見方として じつは中世人はどうであれその以前の古代人は 決してそのような要素分析的な視点を〔だけ〕持っていたのではない。そのような部分観に片寄ったわけではない。  といった歴史事実が われわれの前に示されえますし それは 歴史をつうじてわれわれの持ち前の能力であろうと考えられます。全体観から逸れないことも 大事でしょう。  おそらくこのように古代人の人間観を省みることで 哲学にとってもよい成果が期待できると考えています。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.8

>ご指摘の問題は ちょうどNo.1でねむねこさんとのやり取りで扱っています 古代人の持った人間観を省みることがなぜ必要なのかNo6のお礼欄を見てもNo1でのやり取りを 見ても書いてないように見えるのですが・・ bragelonneさん自身は古代人の人間観を省みる必要性があると考えているのですよね? 考えているのでしたらその必要だと考える理由は何ですか? それとも必要だと考える理由はひとまず置いて、必要であると前提しての質問なんでしょうか? 私の理解力が足りないばかりに論旨がつかめずすいません

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。情況証拠よりはチカラがあるとは思う議論ではないか。とは思うんですが。  ルネサンスは 中世人がアマテラス倫理規範なる人格語を――神への信仰を言いながら そのようなオシエとしての・つまりは信じるではなく考えることにもとづく普遍人格語を―― 人びとの守るべきものとしたとすれば 〔ルネサンスは〕 その中世をさかのぼり突き抜けて 古典古代へと目を向けた。  古代ギリシャです。このギリシャの栄光は 必ずしも《ふつうの人》の生活哲学ではなかったかも知れませんが 中世人のように《アマテラス人格語》による模範的な人間像をつくるのとは やや違っていた。ハダカの人間をあつかった。  ですから この一点として 《スサノヲ人間語 - アマテラス人格語》のどちらかの一辺倒には成らず 全体観を重んじた。と言えるのではないか? すなわちそれには 古代人の人間観が少なからず寄与した。  あるいは 同じくルネサンスは 初めは 世界ないし宇宙を探究するとき それは――中世からの延長でしょうか――神の摂理のもとにあるのだという前提で研究をした。やがて 必ずしも神の秩序がマチガイなくこの世界を支配していたかと言えば そうでもなかった。モノゴトは それぞれが自己運動をしている。  そのような経過からでしょうか やがて人びとは 世界について認識するとき人間の理性によることでよいというように考えるようになった。しまいには その理性によって世界を支配し操作することも出来る。自分たちの思うように出来ると考えるようになった。  すなわち 《 S 語 - A 語 》の連関構造から 《アマテラス普遍科学語》が単独分立するようになった。それでよいのだと考えるようになった。理性の崇拝です。科学主義としてのアマテラス語普遍教なるシュウキョウの誕生。  古代ギリシャ人が 万物の根源としてのアルケーを探究したとしても その《科学語ないし理性》を・それのみを 単独で重んじることも少なかったのではないか? まして アマテラス理性を崇拝することまでには到らなかった。  その一点において やはり古代人の人間観が いちいち持ち出さなくてもよいかも知れませんが ちょっぴり省みられてもよいはずだ。といったことになりますが どうでしょう?  全体として 《古代人の人間観を省みて欲しい》というのは 話の導入としてつけ添えています。そして 何がしかの内容もあるかと思っています。  そんな事情です。

  • a_hona
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回答No.7

もののあはれ、ですか。いいですね。確かにそのような集約の仕方なら、その事象にともなう心の動きを損ねていないと思います。 あはれ、のような言葉が日本語には他にも多くありそうですね。 類例や論点は、浅学の私にはあまり示せそうもありませんが、面白いとおもいました。おそれ、などもそうかもしれません。現代で言うと、イタいとかいう言葉も、哲学とまではいかないかもしれないが、微妙なニュアンスを含んでいそうです。 言葉に歴史を見て、そこから抽象を導き出すという観点は良い試みだと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答を・ご賛同をありがとうございます。  《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 (Wesensschau)》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも そちらから出してもらった《おそれ》をひとは覚えるでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。

  • asisai888
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回答No.6

>古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか なぜですか? >もう少し別様の説明としてのべます その別様の説明は古代人の持った人間観を省みることの必要性と どう関連してるのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ご指摘の問題は ちょうどNo.1でねむねこさんとのやり取りで扱っています。  たとえば  ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  1. 〔* 古代ギリシャにおける〕《英雄》の物語(それが 必ずしもアマテラス普遍人格語でもないようなのですが)や哲学としてはすでに初めから――アルケーを探究したとするなら―― アマテラス普遍語で語ろうとしていたかも分かりません。  2. ただしコジツケとしてでも反論すれば 《英雄》や《普遍科学》を究めようとするなら おそらくその裏で そうではないところの《ふつうの人》についても浮き彫りにすることが出来た。とも見られます。  3. いえ。それは詭弁すぎるとしても けっきょく――むろん何らかのシュウキョウはあったのでしょうが―― 割り合い英雄の描写にしても 倫理規範や模範の像を追い求めるというのでもない。のではないか。ただ単にひとりや二人の美女をめぐって 人殺しをともなう戦争を起こすのですから。  4. つまりは 〔* ギリシャの古典古代に還ろうという〕ルネサンスの運動がみづから証明しているように ハダカの人間を見ようとしていたし その意味では《 S 語 - A 語 》の連関し複合した人間の像を捉えようとしていた。と見てもよい一面があるのではないか?      ・・・・  ただし ソクラテスにしても ダイモーン(神の霊?)を語って 神学にも首を突っ込んでいるようです。プラトンのイデアは まさしく神学です。(あまりにも観念論すぎると思いますが)。    つまりは 〔* 近代人の〕普遍科学の単一の論理で突き進むのではなく その色合い一色に塗りつぶすのでもない。と言えるのではないでしょうか。  そういう意味では 中世の宗教人と近代の理性人とを 後ろ向きに総合したような人間像に近い生き方をしていたのではないか? ちょっと弱いですかね。      ・・・・   じっさい ルネサンスが その初めにはまだ《神の摂理》のようなものを前提として 人間語および科学語を究めようとしたのが どこかから誰かから すでに科学語の一辺倒に落ち入って行くという《 A 語単独分立》へと軌道を逸れて行きました。そしてそれが 極端に走ったときには――《 アマテラス普遍語の帝国主義》なる様相をも呈したときには―― 単純に言ってその反動が現われました。  《主体》論から 《無主体》論――構造主義など――という対極へと振り子は 振り切りました。  つまり この《主体》は 素朴にでも 古代人は持っていた。理性やその論理だけではなく人間の全体を捉えたかたちで ふつうに社会生活を生きる主体であろうとした。(身分制などの制約がありましたが。つまり 制約があったにもかかわらずとも言い得ます)。決して 古代人の人間観ないし生活観をバカにしたものではありません。(我が国では 《イリ歴史知性》!!)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょうか。

回答No.5

そのまえに、古臭いのをどうかしなさい。まずは、老害処理から始めましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ そのまえに、古臭いのをどうかしなさい。  ☆ たとえば どこが《古臭い》でしょうか?  ★ まずは、老害処理から始めましょう。  ☆ 尾張のうつけ者として あなたよりは若いはずですよ。  なに? ぜんぶふるくさいですか? それは 失礼しました。あなたはスルーしてください。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.4

もし、自由な生活言語による哲学を理論化して普遍化すると、何か大事なものが、息吹と言ったようなものが、失われる気がします。 例えば、日本では毎年桜が咲きます。昨年の桜と今年の桜は同じ桜ですが、年年の趣としては、異なる桜であるはずです。それをわずかの期間堪能して、桜はまた散ってゆくのですが、この桜の花を押し花にして年月を超えるべく保存しても、桜の魅力は保存できないでしょう。 同じように、自由な生活言語による哲学は生きているのであり、それを理論化し普遍化してしまうと、死んでしまう恐れは無いだろうか、というのが一つの懸念です。 しかしながら、歴史という人類の長大な営みを季節に例えるならば、この時代にはこういう生活言語による哲学が花開いた、あの時代には、こんな哲学が花開いたと、類例を集めることは可能なように思います。 民族や時代性によって規定されてきた哲学も存在すると考えられ、それを集めて提起することは、歴史哲学や、民族哲学と呼ぶことができるかもしれません。 ただ、トラックの運ちゃんの話に戻りますが、私の見たトラックの運ちゃんの哲学は個性的なものであり、それはロシア民族(その運ちゃんはロシアの人でした)特有の哲学でも、現代という特有の時代の哲学でもありませんでした。この生活言語の持つ特性として、個性というものがあげられるなら、それを普遍化することはその本質と矛盾する恐れが出てきます。 このようなことを考えました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 昨年の桜と今年の桜は同じ桜ですが、年年の趣としては、異なる桜であるはずです。それをわずかの期間堪能して、桜はまた散ってゆくのですが、この桜の花を押し花にして年月を超えるべく保存しても、桜の魅力は保存できないでしょう。  ☆ 便利なことばがあります。《もののあはれを知る》です。  《あは! Ah ! Oh! 》という感嘆の言葉に抽象させたわけです。  《〔ものの〕あはれ: the Ah-ness (of things )》  これなら いくら年月が経っても 色褪せないでしょう。そういった抽象化=一般化による理論化もありうると思うのです。  ★ 民族や時代性によって規定されてきた哲学も存在すると考えられ、それを集めて提起することは、歴史哲学や、民族哲学と呼ぶことができるかもしれません。  ☆ ぜひここへ舞い戻って ひとつの出発点としていただきたいものです。  たとえば――またまた親鸞ですが―― 《悪人正機》の説はよく考えると 善人と悪人とを問わず《正機》だと言ったほうがよいように思うのですが 《義無きをもって義とす》は なかなか味わい深い思想であると考えます。じつは 《日本的霊性》と呼べるのではないかとさえ考えています。    ★ ただ、トラックの運ちゃんの話に戻りますが、私の見たトラックの運ちゃんの哲学は個性的なものであり、それはロシア民族(その運ちゃんはロシアの人でした)特有の哲学でも、現代という特有の時代の哲学でもありませんでした。  ☆ なるほど。具体的なお話をお聞きしたい気持ちになりましたが そういう意味での思想はありそうに思えます。その応用は まったく職業が違った場合にも 同じようにではなく何かの拍子に自分のやり方といったことを出せるようになる そういうかたちで出来るのかも知れません。  この際 この質問は主題のおさめる幅が広いので 哲学・思想のおもしろい問題やこれこれの論点はどうかなどといった話題でもありましたら どうぞみなさんのためにもご披露いただくということもよいかと思いますが。・・・

回答No.2

NO1の補足。 《哲学で語られる人》→《哲学で語られる人の姿》 の方がいいのでしょうかね。 哲学において語られる《人の姿》は、頭でっかち(理性的?)で歪な、萎縮した人間の姿でありましょうから。

bragelonne
質問者

お礼

 うけたまわりました。  家康は 織田家に人質になっていたあと 今川義元のもとで人質生活をおくることになり 成人して義元の縁戚から嫁をもらっている。  桶狭間で義元の首が挙げられたあと 家康は 駿府に行ってその領土をうばう選択肢もあった。けれども 岡崎の城主にあらためて就きそこにとどまる道をえらんだ。(嫁を見棄てた。また 家臣の者たちの妻子たちも人質となっていたのを 見棄てた)。  むつかしいのでしょうが トヨタは 豊田の町に土着して事業をつづける限りで 伸び代があり また安定成長をのぞめるのではないでしょうか。  スサノヲイズムまたインタスサノヲイズムをとなえる所以です。

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     1. ひとがしゃべる言葉には ふつうに市民として社会の中に生活しているときの《人間語》があります。  2. そのひとつの特徴としては――互いに主観をぶつけ合うようにして 自由に交通するゆえ―― 《あやまちうる》という性格を持ちます。  3. この・スサノヲ市民のあやまちうる人間語のほかには そうだとすると あやまち得ない科学的な普遍語があり得ます。  4. つまり スサノヲ人間語としての主観をなるべく控えるかたちでアマテラス公民の用いる普遍科学語。  5. そして 科学語のように中立――価値自由-――ではなく そこに主観的な価値判断をまじえたときにも なお普遍性を問い求める倫理のことばがあります。  6. これは アマテラス公民の普遍人格語とよべます。  7. 整理すれば:   あやまちうるスサノヲ( S )人間語   あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(科学語および人格語)  8. ところが ひとは誰も 公民としてのみ生活しているわけではなく 市民であっても 選挙をつうじてなりとも公民としても生きている。    9. したがって おそらくわれわれのふつうにしゃべる言葉の範囲は広く けっきょく S 語と A 語とのすべてだと言えます。  《 S 人間語 - A 普遍語(人格語&科学語)》の構造的な複合語  10. このようにひとがしゃべる言葉として捉えた内容は 人間観にもつうじており 哲学・思想の現実的なあり方にもかかわって行くものと思われます。  11. 端的に言って 西欧の人びとは・そしてその哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を必ずしも扱わないクセがある。  12. 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。    13. あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロとしてもいる生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまい ときにはそれだけに終わろうとするクセ。  14. ちなみに その思潮に対する反動が起きて 《あやまち》でもよい・または あやまち得る S 語のほうがよいという風が吹くときがあるようだ。スサノヲ市民の中の《その場主義》に片向いた一般ピープル主義とも言えるポピュリズムでしょうか。  15. と かんたんに捉えたとき 構造的な連関のあり方がまことに按配がよいといった《 S - A 連関》語は われわれは しゃべられないものだろうか?   16. つまり S か A かのどちらか一方に片寄ることなく その全体にわたる言葉をしかるべき配合にして しゃべるようになれないか?  ☆ これが問いです。忌憚なきご見解をどうぞ。

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     (1) まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。  《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ あやまち得る内容  《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容   ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた  (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。   すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。     誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。  (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。    (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。  (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。     《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。     《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと     思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。  (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。   スサノヲ感性語宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ》   というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。  (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      身のやましさ(恥づかしさ)反応と共なる心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。   ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?      人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《オシエや規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。  (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。   ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと    受け取られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの部下の所為にしなさい。     ・・・》  (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がっているのではないか?  これを問います。もしそうなら どうすればよいでしょう?

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     1. まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。   《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る自然本性そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ 人間のつねとして あやまち得る思考を容れた広い度量の言葉   《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる自然本性を 心ないし精神において捉え相手に向けて    心に或る種の構えを成して自己表現しようとする言葉     (自己表出を ととのえ練り上げ磨き上げさらには飾り上げる)   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野    を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ その思考は あたかもあやまち得ないと見なされた《格》を持つ   ・ かつてはオシヘとして神格化され 神聖にして侵すべからざるも    のと見なされた  2. アマテラス人格語は 普遍科学語を開発している。  すなわち思考の緑野として 言わずと知れたアマテラス科学語の世界を打ち建てた。    誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。この共同主観が 普遍なる神のごとくであると 時には 見なされた。  3. アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。いわゆる理念の信仰も始まる。    4. かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  5. このアマテラス語の隆盛が つまづきの石である。  6. なぜなら 自然本性にして普遍たるスサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  7. スサノヲ人間語は 殊にその感性の原野たる領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。      こころをとうとぶ。      《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。      《わが自由意志がその自由度において横道に逸れ そこに      おける思考が人間をにくみこれを傷つけようと・あるいは殺      そうと思ったりすることはあるが なぜか そうはしないもの      だ》。  8. ところが アマテラス人格語は うったえます。  スサノヲ自然感性語の宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ / むさぼるなかれ》  というふうに規範化しようと。おそらく このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。あたまで逆立ちして町を歩こうと言い出した。  9. あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      時に身に勝手に起こるやましさ(恥づかしさ)反応を受け留め      恥ぢを知るわが心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般にガミガミ規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。    ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     恥づかしさは 隠しなさい。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  10. すでにアマテラス普遍志向にもとづく《アマアガリ》主義は 行き詰まったのではないだろうか?     思考の緑野と言えども 理性のみによってその普遍語の世界に閉じこもらざるを得ないような規範性を帯びているかぎり このあたまデッカチは つまづきの基となる。  《オシヘや規範あるいは理念》をあたまに抱きながらしか おのれの思考や互いの対話を成し得なくなっている。感性の原野が なおざりにされてしまっている。  11. それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。    ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取     られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書や部下の所為に     しなさい。     ・・・》  12. アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  ただのアマアガリのための・それを飾るための・そしてそれを保守するためのアマテラス方言にしか過ぎないほどである。   何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がってしまったではないか?  どちらかと言うとスサノヲ語の側である野党党首が アマテラス語の舌を二枚三枚すでにあつらえて用意していた。それがとおった。  ☆ これを問います。  いまは 転機か? もしそうなら あなたはどうすればよいと考えるか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  • 持続可能な社会を築くために…

    環境学に関する授業で、 「持続可能な社会を築くために、ポイントとなるのは、 『社会システム』と『科学技術』と『担い手』と『倫理・哲学・規範』の4つ。」 ということを習いました。 『社会システム』は、何となくの予測はつくのですが、他の3つがいまいちピンときません。 『科学技術』と『担い手』と『倫理・哲学・規範』の3つのポイントの具体的な例とかがあれば、教えてください! よろしくお願いします!