カント哲学において道徳的に価値あることは何か?

このQ&Aのポイント
  • カント哲学において道徳的に価値あることは、余命いくばくもない苦痛に苦しむ末期癌の患者に安楽死を与えることや、痛みを和らげるためにモルヒネを投与すること、父が癌であると知った息子が父に対して嘘をつくことではないのか?
  • カントの思想には、道徳的な行動は人間が生まれながらに持っている普遍的な理性に従うものであるというニュアンスがあります。しかし、特殊な思想を植えつけられた場合、人間の心には「殺人=悪」というモラルが形成されない可能性があります。その場合、人間の行動は傾向性のあるものとなるのでしょうか?
  • カント哲学について勉強したことはないが、昨日のNHKの番組でオックスフォード大学の講義を聴いて疑問が湧いた。なるべく優しい言葉で教えてほしい。
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カント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでし

カント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでしょうか。 1、余命いくばくもない苦痛に苦しむ末期癌の患者に安楽死を与えること。または、痛みを和らげるために死期が早まることを知りながらモルヒネを投与すること。 2、父が癌であると知った息子が父に対して、癌ではないと嘘をつくこと。  また、カントの思想の中には「道徳的な行動はすべてに人間が生まれながらに持っている普遍的な理性に従うものであり、それはただ1つしかない」というニュアンスのことがあると思うのですが、これについても質問があります。  9.11が起こったとき、パレスチナの子どもたちはその映像を見て小躍りして喜んでいました。例えばこのように、小さなときからある特殊な思想を植えつけられた場合、その人間の心の中には「殺人=悪」というモラルが形成されない場合もあるのではないでしょうか。つまり、自分では全く悪いことをしたという自覚なく、通常は「悪」とされる行為をした場合、その人間の行動はやはり、傾向性のある行動ということになるのでしょうか。  私は哲学を勉強したことがないのですが、昨日のNHKの番組でオックスフォード大学の講義を聴き、 疑問を感じた次第です。ですから、なるべく優しい言葉を使って教えていただけるとありがたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

カント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでしょうか。 ○どちらもみなされると思いますよ。純粋理性は個人個人によってその発現の仕方が違うというだけですね。カントやヘーゲルはもっと高尚なことを言っていると思いますが、それは彼らが高尚であるからですね。普通の人なら十分に純粋理性の範疇ですね。例えば「道徳的に価値あること」といっても、階層、例えば、学生、助手、講師、教授、学部長、学長、総長によって少しづつ価値観が違うようなものですね。 道徳的価値観の違いがあるということが認識できれば、9.11の見方もキリスト教圏とイスラム教圏で異なることも理解できますね。 歴史的には、イスラム教圏が強大であった時代もあるのですね。また、つい65年ほど前は、日本も同じでしたね。日本の神風特攻隊と何が違うというのでしょうかね。彼らは今でも軍神でしょ。前の質問にも関係しますが価値観や見方は決して相対的ではないのですね。変わらない価値観もあるということを知って欲しいですね。

junchann
質問者

お礼

ありがとうございます。 価値観や見方は決して相対的ではない・・・・ 良く考えてみます。

その他の回答 (3)

回答No.4

 両方とも、一律機械的に決めてしまう事はできないと存じます。  状況、関係者、そして患者の方。そういう具体的な中での、千差万別の対応の仕方があります。  一定の前提と演繹、考え方から全てに当てはめる事は妥当性を確保に無理をきたします。  自分の思考や生き方からの原理論的に決めていく事は事物に対して不遜にも為りかねない。  カントの西南学派、ラートブルッフは法哲学者で、司法大臣でしたね。  法律の原理的正しさ、と、実際の運用と適用では、事物の本性に思いを致し、具体的妥当性を求めなければいけない、といいます。  親の不正を国王に通告する息子、孔子はわが国の正義は親のためにその不正を通告しない息子だといいます。  古今東西、物事の本性での適用が要求されます。  偉い宗教者や哲人でも、事によって、癌の告知をしたり、しなかったり。  モルヒネの投薬をしたりしなかったり。ではないだろうか。人情は無視してはいけない。  私たちインドの思想の学徒は、人間の超克を最大の目標にしていますが、人情は大事です。  人間的弱さは自分に許したままにはしないが、人への人情は無視してはいけない。

junchann
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 良く考えてみたいと思います。

回答No.3

人の生きる目的が、「生きること×精神的充足の追及」である時、 死んでしまっては充足はない以上、ガン患者は治る見込みが ある限り頑張るべきであり、その戦いを喜びと感じるだけの 強い意志を持つべきですが、ガンの場合は治癒の見込みが 少ない&苦痛が大きいので、モルヒネなどの緩和措置が認め られています。 さらにその先の安楽死となれば、よほど当人の意志が弱って いる場合でしょう‥‥が、自殺が任意であるように、当人が 絶対的に望めば可です。 人が生きるのは、法律やモラルのためではなく、自身の内奥の 生きる衝動によってのみなのですから。 2についても同様で、父の生きる意志の強弱(ガンと戦う) から判断されるべき内容です。 また、殺人が悪であるなどというのは方便であり、絶対的な 価値観ではありません。 戦争において敵を殺すほど英雄だし、何十万人を殺した信長を 「悪い」という人は誰もいません。 社会性(分業=助け合い)が発達した中において、その条件 に従う者のみに課せられる取引き=「殺す事と社会的処罰を 受ける事の任意の選択」に過ぎません。

junchann
質問者

お礼

「人が生きるのは、法律やモラルのためではなく、自身の内奥の 生きる衝動によってのみ」 なるほど。 ありがとうございました。

  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.1

あなたのご質問は、カントの哲学よりも、むしろ私が研究テーマとしている医療倫理に関するもので、特に安楽死については賛否両論があり、難しい問題です。 http://www1.tcn-catv.ne.jp/seikaisha/anrakushi_contents.html 癌の告知は、以前は患者本人には行わないのが一般的でしたが、患者の知る権利が叫ばれるようになってから、告知すると共に、精神面のケアもするようになって来ています。

junchann
質問者

お礼

ありがとうございます。 しかし、私は先ほど実例に悩んでいるわけではなく、カントの考え方と知りたいのです。 申し訳ございません。

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