遣唐使の大伴古麻呂の報告とは?

このQ&Aのポイント
  • 752年から754年にかけて遣唐使として活動した大伴古麻呂が天宝十二載の玄宗の前での使節団の並び順に異議を唱え、新羅との順序を入れ替えることに成功したという報告がある。
  • この報告はどの書物に記載されているのか、また実話なのか作り話の可能性があるのかについては明確な情報は不明である。
  • ただし、史料によれば大伴古麻呂が新羅との順位を入れ替えたというエピソードはよく知られており、その後の遣唐使の並び順にも影響を与えたとされている。
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遣唐使の大伴古麻呂の報告

ある本を読んでいて、次のような記述をみつけました。 752年に遣唐使としてわたり、754年に帰国したメンバーの1人、大伴古麻呂が次のような報告をしている。 「天宝十二載、各国の使節団は玄宗の前で、東西二列に並ばされた(並んだ)。 東の第一席は新羅、二席目は大食(アッパース朝)。 西は第一席は吐蕃(チベット)、二席目が日本であった。これに対して、大伴古麻呂が異議を申し立て、なぜ新羅よりも下位なのか。納得できない。として、新羅と順序を入れ替えることに成功した。」 これは、どの書物にでているのでしょうか。 また、この話は、実話なのか作り話の可能性があるかなどは、どうでしょうか。 (これよりはるか前に、百済の将軍位鎮東より、倭の安東将軍がひくかったのはわかっています)

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回答No.1

『続日本紀』にあります。 この「事件」は、いろんな本によく取り上げられていますが、実話として扱われているように思います。 上田雄著『遣唐使全航海』には、唐や新羅その他列席した使節の目に、日本の使節の行動がどう映ったのか、この件に関する資料が出てくることを期待していると書いてあります。 実話かどうか、とてもじゃないですが私には判断できませんが、 専門家の解説が出た後では回答できませんから、思いついたまま気楽な立場で回答します。 この話の重要な点は、「並ぶ順序を入れ替えてもらった」というよりは、「唐は、日本の地位をその程度に見ていた」ということだと思います。 「正史」には、自国のあるいは現政権の都合の悪いことは書かないのが原則ですね。 編者は、後世まさかこのような見方をされるとは、思っていなかったのではないでしょうか。 堀敏一著『中国と古代東アジア世界』によると 8世紀前半に玄宗の側近にあった張九齢が起草した、諸外国の君主宛ての国書が残っていて、その比較ができるとして、 日本のランク付けは、吐蕃― 突厥・突騎施― 新羅― 契丹― 渤海・南詔― そして、護密や勃律に並んで日本となっています。 当時の唐をめぐる諸国の力関係を表していると思います。 しかし、同著には、「諸蕃間の唐廷における席次争いがいくつも起こっている」との記述がありますから、やはり「実話」なんでしょうね。

参考URL:
http://www.minpaku.ac.jp/staff/nagano/thema01.html
jayoosan
質問者

お礼

『続日本紀』だったのですが。ぜんぜん見当違いの検索をしていました。 私も、当時の中国王朝が日本を低く見ていたことが、その書籍から読み取れます。 と同時に、長い期間をかけて(ほんの最近の幕末の頃までかけて)、日本の皇位を中国に認めさせようとし、懐柔して天皇から皇帝に下げてみたり、など、さまざまな戦略で中国をしのごうとしていたことがわかります。 過去の記録は都合よく各部分があったとしても、日本人のネバーギブアップ精神は、すごいものだと感心します。 この引用は東方書店の 「日中交渉史」 山口修 でみつけました。

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