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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ここまで条件が揃っていながら植民地化されなかった史実をどう考えたらよいのか。)

ここまで条件が揃っていながら植民地化されなかった史実を考える

teccrtの回答

  • teccrt
  • ベストアンサー率35% (91/257)
回答No.13

No.12です。 コメントありがとうございました。 疑問点についてですが、まず最初の疑問点について言えば、確かに質問者様の仰るとおり、あくまで結果として「懲らしめ程度の戦闘」で済んだことは事実だと思います。 そもそも、軍隊を動かして軍事行動を起こすことは、(1)補給(2)武器弾薬燃料などの消耗(3)武器や艦船のメンテナンスなど、実際にはかなりの経費がかかる上に、他国を刺激することにより政治的な負担も増すので、そんなに簡単にはできません。結果としては「懲らしめ程度」で済みましたが、軍隊を動かすという重大な意思決定をした時点でイギリスが「本格的な占領」も検討していたことはある意味当然だったと思います。 ところが、結果的に「懲らしめ程度の戦闘」で済んでしまったことは、僕にとっては必然だと思っています。一つには、Wikipediaにもあるとおり、フランスの介入があったこと。やはり極東の小さな島国とは言え、ここをイギリスが独占的に植民地支配することは、フランス初め他の欧米列強にとっては歓迎せざることでしたので、実際に占領作戦に発展していれば他国からイギリスへの妨害はあったかもしれませんし、幕府や後の新政府となる雄藩が史実では後に買い揃えた軍艦をこのタイミングで他国から買い漁ったかも知れません。(もちろん、十分な資金がなくて領土割譲を条件に軍艦の引渡しなどが取引されれば、それこそ植民地化への第一歩だったかもしれませんが。) 実際にイギリスは陸軍を動員しての占領作戦は難しいと判断しているようですが、戦争を仕掛けるにはあらゆるケースを想定しないといけませんから、極東までの兵士・物資の補給にかかる経費(特に長期戦になった場合)、他国の干渉の可能性まで考えれば判断は妥当だったと思います。 次の疑問については、尊皇攘夷の時代だけというよりは、開国から明治維新、日清戦争までの比較的長い期間を想定してコメントをしておりました。 開国当時の世論は攘夷だったように、日本全体が常に正しい状況判断をしてミスを犯さずにやってこれたとは思いません。ただ、Wikipediaのとおり薩英戦争も薩摩藩と幕府の出方次第では本格的な戦争になりかねないところ、フランスの介入を受け入れて賠償に応じたりと、要所要所での致命的な判断ミスはしていません。 そもそも、欧米とつながりの薄かったインド以東のアジア諸国(清・朝鮮・アチェーなどの東南アジアしかり)は、欧米に接触された時にまず攘夷(排斥)の反応を示したので、長らく鎖国をしていた日本が最初に攘夷に沸き立ったのも自然な反応だったろうと思います。むしろ、事情を知らない大多数が感情的に外人を排斥したがるなか、そこから融和策に転じることが幕府・薩長ともできたあたりにリーダー層の資質の高さを感じますし、一部のリーダー層の決断でしかなかった開国策を結局は日本全体が受け入れた柔軟性に底力を感じます。(結局、清は政府のみ開国できたが、民衆は太平天国や後の義和団のようにそれを受け入れられず、朝鮮は政府から民衆に至るまで受け入れられませんでしたよね。) もちろん、日本の優秀さをことさら主張するつもりもないので、(1)地理的に列強にとって優先順位が低かった、(2)日本が単体で列強に抵抗できるほどの力はなかったものの、列強間のパワーバランスを踏まえた国際政治のなかで、かろうじて独立を維持できるだけの力はもっていた。さらに、(幕府から薩長に至る)支配者層は内紛の最中にあってさえ独立の維持に心を砕いたことが大きかったのではないかと思います。 ここからは蛇足ですが、国力とくに経済力としては、会社と同じくヒト、モノ、カネ、情報の4要素の流通自由度によると考えています。幕末から明治維新の日本について言えば、産業革命を果たした欧米とは比較になりませんが、産業革命前後の社会としては相当高いレベルにあったと思います。 ヒト:幕末時は、身分制がありながらもお金があれば武士と同格になれたり、他藩との商売も比較的自由に行えた。おそらく当時の中国やインドなどよりははるかに身分と移動の自由があったと思われます。また、明治維新では完全に身分と行き来の自由が保障されました。 モノ:鎖国によって対外貿易が限定されていたため、当時世界最大の都市、江戸(しかも大半は武士・町人で自給自足ではない)の100万人を食わすための生産と流通が国内だけで行われていた。産業革命前の生産能力・流通能力としてはかなり高い水準にあったと思います。 カネ:質問者様も仰るとおり、日本は金銀の産出量が多く、しかもその海外流出を防ぐために鎖国をしていたので、国内には大量の金銀が溜め込まれていました。また、流通の面からも江戸100万人の毎日の食事や生活は自給自足ではなく、売買取引によって支えられていたり、米に至っては世界で初めて先物取引までされていたくらいなので、貨幣経済の浸透具合という点でも高水準であったと思います。 情報:当時の識字率の高さは恐らく世界でも1,2を争う水準だったことは良く知られています。情報の流通力は、識字率に比例して高かったと思います。 結論として、僕は幕末から明治維新の日本が、技術と政治制度において前近代的ではあっても、社会基盤としてはむしろ欧米と遜色ない(もしくは一部欧米を上回る)近代性を既に有していたため、あれだけ致命的な技術と生産力の差がありながら(しかも関税自主権や治外法権などの不平等な立場に置かれてなお)、国力としては植民地化されない程度に高かったのだと考えています。

se_tutoie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。ロジックがとてもしっかりいるご説明のお蔭で、ようやく疑問はほぼ解明されました。改めてお礼を申し上げます。些少ですが、感謝の意を込めてポイントを差し上げますので、ご査収下さいませ。 また、前回の私の2つ目の疑問点に関しては、時系列としては10~15年位のズレがあり、明治維新直後の時点のことを質問しておきながら、幕末の史実を持ち出してしまい、正確性に欠ける記述になっていましたが、それもきちんとフォローして頂き、改めて感謝致します。あそこは本当は頭の中では明治維新直後のことを想定していたのですが、その資料がなく、むしろ幕末の方が詳細な資料がありましたので、それを持ち出し、その後で、明治維新直後に幕末の世論というか国論というか、そういうものがそんなにドラスティックに変化した筈はない、という説明を書き加えるべきでしたが、いつの間にか書いているうちに失念してしまいました。 ドラスティックに変化した筈はない、と考える理由ですが、それは明治維新直後の日本と太平洋戦争での敗北直後の日本とを比較してみれば容易にお分かり頂けるものと思われます。後者では完膚なきまでに旧勢力・体制が叩きのめされてしまったのに対し、戊辰戦争では、もちろん局地的には北越戦争や東北戦争など激しい戦いはあっても、日本全土が焦土となるようなことはありませんでした。回答者様の言葉を拝借すれば、まさに「戊辰戦争における幕府と新政府における消耗が少なくすんだ」ということになりましょう。ですから、明治維新直後においては旧勢力・体制がまだまだ息づいていたのではないか、と考えられるわけです。 それが現実のものとなったのが西南戦争であると考えています。これは一般には不平士族の反乱と解釈されていますが、例えば薩摩にいじめられた元会津藩士が新政府側につき、会津抜刀隊として田原坂の戦いで壮絶な戦いを行った一方、西郷から寛大な処分を受けた元庄内藩士の多くが西郷に付き従ったのが一例です。これはまだまだ旧来の武士階級が残存し、クーデターを引き起こしたことを物語るものと言えなくはないでしょうか。しかし、太平洋戦争後、確かに一部の陸軍将校がクーデターを引き起こそうとした動きはあっても結局未遂に終りました。 (この欄に書ききれませんでしたので、続きは補足欄に書いておきました。)

se_tutoie
質問者

補足

さて、冒頭に、疑問はほぼ解明された、と記しましたが、実はまだ解けないことがあります。回答者様の記述に、「幕府・薩長ともできたあたりにリーダー層の資質の高さを感じます」とありますが、それは具体的に誰であったか、ということです。 大政奉還した徳川慶喜か、江戸城無血開城の会談を行った勝海舟か、西郷隆盛か、それとも大久保利通か。あるいは明治の元勲と言われる伊藤博文、木戸孝允、山県有朋か。もしそうだとすれば、彼らを松下村塾で指導した吉田松陰か。 司馬遼太郎の『龍馬がゆく』に出てくるところで、勝海舟を切りに行こうとした坂本龍馬が勝海舟の教えを受け、逆に弟子にして下さいと頼み込む有名な箇所がありますが、坂本龍馬のことなのでしょうか。 少なくともその人物は、日本国内だけでなく海外の事情にも通じていたことは間違いありません。長期の内乱・消耗戦を避け、さらに列強の餌食(植民地化)となることを避けることが常に念頭にあり、しかもその信念に基づいてそのような政治的判断を下せた人物とは一体誰なのでしょうか。 ただ、これは別の質問となってしまいますので、一旦、本質問は締め切らせて頂きます。別の質問を立てますので、もし宜しければ、またコメントして頂けますと幸甚です。

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