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外面的行動と内面の良心の峻別に関して。

外面的行動と内面の良心は峻別することはできない。 キリスト教はユダヤ教の律法を廃止し、神に対する愛と隣人愛に簡素化したのではない。 旧約聖書はキリスト教においても聖典ある。 律法に反した行動をしても、法律に違反した行動でなければ共同体のメンバー以外の神や世間から裁かれないとしただけのことである。 個人の内面においては律法は厳然と存在するのである。 利潤追求のための目的合理的行動なども所詮幻想である。 この見解についてどう思われますか? コメントよろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

おそらく、質問者さんがお書きになった文章ではないので、率直にコメントします。 分り易くする為に、句点「。」毎に(1)~(6)とします。(1)が「外面的行動~できない。」まで、(6)は「利潤~幻想である。」までです。 (1)「外面的行動」と「内面の良心」を並列に論ずる理由が不明です。 「外面的行動」と「内面の良心」は密接な関係にある、と言いたかったのだが、難しそうな言葉を使って失敗したっぽい臭いがします。 それとも、筆者は内面の良心は100%外面的行動に発現すると考えているのかな?人は、思っても実行に移せない良い考えって無数にあると思うのですが。 (2)文末の「したのではない」がどこまでを否定するか不明確。 Not(廃止=した、簡素化=した)/廃止=した、not(簡素化=した)の両方に取れます(#1さんと#2さんは後者にお読みです)。実際には(3)まで読めば前者の意味だと推察できますが、これは典型的な悪文ですね。 (3)「おいても聖典ある。」→「おいても聖典『で』ある。」と「で」を補うべきでしょう。 (4)全く意味不明。律法は共同体内部の規定なのだから、律法に反したからといって外部より裁かれる事は最初から無いです。 それを、あたかも新しい決まりのように書く理由が分からない。 それとも、『律法に反した行為をしても、神からも世間からも裁かれないとした』とでも言いたいのだろうか? (5)前後の論旨的繋がりが無い。性善説を唱えたいのだろうか? (6)おそらく、M・ウェーバーの「目的合理的行為」を念頭において書いたのだろうが、全ては「価値合理的行為」に類すると主張したいのだろうか?しかし、利潤追求は価値合理的行為の方がしっくりくるのだけどねぇ? 結論:「内面の良心」と「律法」しかも「内にある律法」と「ユダヤ教の律法」との関係が不明な為、最後まで読んでも納得できない=説得力がない、的外れな見解である、と断ぜざるを得ません。(的は射るもので得るものではないからね) 批判だけでは後味が悪いので、想像力をフル動員して、筆者が言いたかったであろう事を書いてみると↓ 人の外面的な行動は、内なる規律に基づいている。宗教の如何に関わらず、内なる規律は全ての人に厳として存在する。 他者から見て、合理的に利潤追求を行っている「価値合理的行為」も、実際には内なる規律に従っているので「目的合理的行為」なのだ。 ↑ああ、筆者と全く逆の結論になってしまった。 じゃぁ(4)を『』内の意味だと仮定して論を書くと↓ 人の外面的な行動は、内なる規律に基づいている。宗教の如何に関わらず、内なる規律は全ての人に厳として存在する。しかし、内なる規律に違反しても外部から制裁を受ける事はない。よって、内面の良心は人の行為を左右しない。 その為、目的合理的行為があるように見えても、それはその共同体内部で従っている姿勢を見せた方が有利である場合のみで、実際には幻想である。 ↑ああ、筆者の前提(外面的行動と内面の良心は峻別することはできない)を否定してしまった。 ま、自己矛盾をはらんだ文章としか評価できませんね~。 もし、不愉快に感じたらお許しください。でも間違った事は言ってないつもりですので。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

>キリスト教はユダヤ教の律法を廃止し、神に対する愛と隣人愛に簡素化したのではない。 >利潤追求のための目的合理的行動なども所詮幻想である。 ああ、的を得ているかも と思えました。 人によって、自分は悪くない他人が悪い、社会が悪いって人いますよね。 多罰型。 諸事情から理想を達成できない場合、その満たされない欲求を、他のもので満たそうとして、懸命に働いて社会的地位を得ようと働く人。 昇華型。 芸能人の真似をして自分がその芸能人になったかのように疑似体験をすることで、欲求を満たそうとするのは。。。。。忘れました。笑 それと、理想は高いが、それを別で楽なものに置き換えて、本来の理想と同一であるかのように自分を騙す人。合理型。 聖書の契約って意味は、今我々が使っている契約というものと、ちょっと違うようなんです。 神を敬い崇拝し、神に従う者となった者は、神が彼を保護する。 これが契約って意味らしいです。 で、律法は神の義と同一という前提があり、律法は神の振る舞いであり、律法を実践することは神の義を実行するってことらしいです。 だから、律法に従うものは、神に従うものなので、神は彼を保護するってことになり、契約に入っている状態。 ところが、律法というものは守るのが難しい。 それで合理的に考えるようになり、律法よりもっと大事なものは、神に対する愛で、それはすなわち隣人を愛すれば、神を愛することになる ってしたんじゃないかと。 律法に従うものが神を愛していることになるので、律法には従わないということは、神を愛していないことにならないか? 現実生きていくうえで身近な利害関係を持つ隣人ともめないことが、神を愛することだと 短絡的に摩り替えてしまったんじゃないかと。 合理主義。 そりゃあ 遠くの者より、身近な現実問題の方を優先したくなるのは、誰でもそうだから、別に間違いじゃないんですが、それを認めず、神への忠誠心だとしているところに、欺瞞があると思うんですね。 素直に、「今神様のことを愛している暇はありません。隣人とトラブルになっており、解決しないともっともやっかいなことになるので、そっち優先させます」って言えばいいと思うんですね。 別に間違っていません。 ユダヤ教に、許しについて語られており、不可避なことで友人とトラブルになり、友人が罪だと怒った場合、せいいっぱい誤解があれば誤解を解こうと努力し、間違えていたら誠心誠意謝って、相手が許してくれたら、罪が消える っ教えがある。 で、いつなんどき、今度は自分が相手の怒りを買って罪だとされるかわからないので、相手が精一杯誠意を示していたら、許してあげなさい (罪を消してあげなさい)、 自分が逆の立場になったとき許される(罪を消してもらえる)ように、って教えがある。 それを何か勘違いして、どんなことがあっても許しなさいって歪められてしまった。 さすがに、神に従う者なのに、一家皆殺しにされて、殺した犯人から「あ ごっめーーん でも なんでもかんでも許すべきだよね」ってケロっと言われて、「あなたを許します」じゃ 神に従う者の子孫 絶えてしまいます。 右の頬を打たれたら左の頬を出せ も、一家皆殺しにされてまで守る必要はない。 (ちなみみ 右の頬を打たれたらってのはイエスが言ったんじゃなくて、クムランの教え) で、安息日は働いてはいけないってユダヤ教で決まっていたんですが、その安息日を狙って、他の勢力が攻撃してきて、安息日だったので無抵抗で絶滅しかかったそうです。 それで、安息日であっても、神の民の生きるか死ぬかの時には万軍の主の僕として、敵と戦っていいってことになったらしいです。 これは合理的思考による変更だとは思えません。 そもそも安息日ってのは、エルが一日中自分の孫たちが騒いで、おちおち休めないことから、殺す計画をして、イシュタルだったかアシュラだったか忘れましたが、その話を聞いて「とんでもない」って言って、結局安息日を決めてその日だけは騒がないように神たちに言ったのが始まり。 それがユダヤ教に安息日の概念が取り入れられたとき、神様たちが休む日というのは継承されたんですが、何故安息日ができたかまでは継承されなかった。 神々や人間たちが一日も休まず騒いでいたから。 ユダヤ教では、神様が安息日に休むのだから、神様の義にかなうように、自分達も働かないってことにした。 イエス作家の隣人愛ってのは、私の理解がおかしいのかもしれませんが、どうも違うような気がするんですね。 隣人愛についてイエスはサマリアの人をたとえ話にもってきてますよね。 弟子が隣人って誰のことですか?って聞いたシーンです。 サマリアという名前はイスラエル王国(後に北イスラエル王国となる)の首都の名前ですよね。 ユダ族、ベニアミン族がイスラエル王国から分離し作ったのが南イスラエル王国。 で、両方ともアブラハムを祖としており、同胞なわけです。 宗教的に違いがあり、分裂したわけですが、元々は家族。 同じイスラエル人。 サマリア人は混血だからというのなら、もともとこれら民族は何度も異民族と結婚を繰り返しており、どっちもどっち。 それぞれが、「やーい 混血」「お前らこそ混血じゃないか」「なんだ お前ら他の神を崇拝して」「お前らこそよそ様の神崇拝してるじゃないか」って言い合っても、同じ穴のムジナ。 で、ユダはサマリア人を見下していたようですが、見下す権利もないユダ族、ベニアミン族で、イエス作家は「そういう態度が駄目なんです。 思い出してください。サマリア人は我々の同胞じゃないですか。同じ神から峻別された種族ですよ。親戚同士でいがみ合わず協力して共に生きましょう。」って思想だったんじゃないかと。 サマリア教団はモーセ五書のみを保持しているわけで、トーラのみを聖典としており、南のユダよりずっと神の義に従おうという気持ちはあったと思えるんですね。 異教の神を崇拝したというのなら、ソロモンだってそうですよ。 だから放蕩息子の帰還って話が作られたのかもしれませんが。。。 ま、いずれにしても、放蕩息子ってのは、ユダヤ教から異教の改宗して、またユダヤ教に戻ったイスラエル人のことでしょうから、ローマ人にも日本人にも関係ないです。 だって息子じゃないんだもの。 よそ様が本家と分家でケンカしていて、日本人がどっちかに自分もお宅の一族になります って言っても「はぁ?」ですよね。 その一族の嫁さんを貰えば一応神の民の仲間入りできるってことになっているようですけど、でも もともと 異民族の嫁さんをもらうことで、分家として認められたわけで。 ということをつらつら考えると、日本人がユダヤ教とかキリスト教の信仰を簡単にしようとするのって、偽物というか、無理って思うんですね。 キリスト教はユダヤ教の神が、新しく契約を異民族とも交わして、自分達も神に選ばれた民族の仲間になったってしていますが、それ、幻想だと思うんですね。 力技というか強姦じゃないかって思うんです。 ルシフェルっていまして、シャヘルのことで、『父である至高神エルの地位を奪うため、母アシュラを娶ろうとした。母なる女神との婚姻は、至高神としての地位獲得の証であった。』とあるように、母と性交しようとして、落とされてしまったわけです。 至高神になるため、やろうとしたわけです。 ちなみに七つの大罪のうち どれかはヘブライ語を間違えて訳しているらしく、本来はこのことだそうです。 キリスト教は、シャヘルと同じことをやろうとしてしまった。 ユダヤ教の伝承では、エルサレム神殿の至聖所には二人の婚姻の部屋があったそうです。 ローマ人がここを破壊してしまったとき、シェキナは地上に降りてしまったそうです。 で、エロヒムは天空でやもめ状態で、今も地上にいるシェキナを探しているのだとか。 というわけで、天で起こっていることは、地上でも同じようになる という意味ありげな文句が残され、キリスト教はこれを勘違いして「天で行われることが、地上でも行われますように」と願いとして使っているわけです。 違います。 エロヒムさんは 今も一人で天空を納めていることになっており、やもめ状態で、シェキナを探し出した時、ファンファーレが鳴り響き、天の国が元通りになり、そうすると地上も元通りになる って期待があるんですね。 ということで、消えたシェキナを探し出せ ってことで、、、、 シェキナ どこいっちゃったんでしょうね。 そもそもシェキナって何? で、締めくくりとして http://72.14.235.104/search?q=cache:0yl1deHW9KsJ:lib.n-seiryo.ac.jp/kiyo/dkiyo/04pdf/D0420.pdf+%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%AD%E3%83%8A&hl=ja&ct=clnk&cd=1 ね? つまり イエス作家が描いたイエス像がシェキナの表れ。 内面の良心がシェキナの現れに該当しなきゃ、シェキナが実体化していないことになるみたい。 なかなか シェキナ 天空に帰ろうとしないですね。 それより エロヒム なんで地上に降りなかったのでしょうね。 シェキナはワザとエロヒムから離れたのかも・・・。 迎えにいったけど、「もう二度も戻りません!」って言われちゃったのか。 どんなひどいことをシェキナにやってしまったのでしょうね。 やっぱりその合理的思考にシェキナ もう一緒に暮らせないって思ったのかも。 ある意味、これほどまでにシェキナに愛されているイスラエル人ってうらやましいですよね。 やっぱり契約に入っているからでしょうかね。

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.2

キリスト教はユダヤ教の律法を廃止したのではないです。 それはイエスも自らのことばで語っている通り。

noname#80116
noname#80116
回答No.1

『旧約聖書・エレミヤ書』の次の一節が 参考なると考えます。    見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来   る、と主は言われる。    この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地か   ら導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であった   にもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。    しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれで   ある、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、   彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民と   なる。    そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教   えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るか   らである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に   心を留めることはない。    (『エレミヤ書』31:31~34 )

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