• ベストアンサー

大名行列について

大名行列は、大名とその家臣が国許と江戸を往復することですが、大名の家臣は、一人で行列に加わったのでしょうか。 歴とした武士は、外出の際には必ず供連れだということですが、主君の参勤交代の際には、自身も供連れなか疑問に思いました。 また、上級家臣の家来(大名からみれば陪臣)は、どうだったのでしょうか。

  • buck
  • お礼率83% (627/748)
  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数11

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

供の武士もそれなりの身分のものであれば当然に自分の家臣をつれていました。 ですからたとえば加賀前田家の参勤交代の行列は数千人の規模でしたが、大名直属の家臣は1/10足らずで、直属の家臣の数倍の家臣の家臣が参勤交代の人数の中にいました。(もちろん家臣などいないクラスの供回りや荷物を運ぶ人足もいましたが。)

buck
質問者

お礼

考えてみれば、国許に残る家臣もいるわけですから、直臣だけで行列の人数をそろえることは、不可能かもしれませんね。 回答ありがとうございます。

その他の回答 (3)

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.4

No.2の回答ほどではないですが、大名行列には今でいうパートが大勢加わっていました。 淡野史良氏の書かれたものによると、天明元年二万二千石の人吉藩の参勤交代の行列の約半数が日雇だったといいます。    江戸ー人吉 通しで雇われた「道中通日雇」でした。 文政6年52万石の福岡藩の国許へ帰る行列が、雑司が谷でかなりの数が江戸へ戻ったといいます。  「日雇」を使ったわけです。 また小山誉城氏によると、天保4年の紀州藩の行列中には、道中で集めた助郷人足1680人、宿人足など232人が居たといいます。 別に藩の小者、人足も同行しているので、上士はその家臣、小者もつれて行きました。

buck
質問者

お礼

行列の半数が日雇いとは驚きでした。 回答ありがとうございます。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D%E8%A1%8C%E5%88%97 ほぼ 参勤交代と同様な意味ということで http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3 参照 基本的な考えとしては 「これより、出兵するから、将軍の元に集まれ! けど 実戦がなかったから、国元に帰れ!」というのが参勤交代です。 そのまま、戦場に行ける人員を整えて江戸に行くことが基本です。 戦場に行くと言うことは、全体の指揮官である大名と、部隊の指揮官である上級家臣そして、部隊の戦闘要員である一般家臣、陪臣全部セットで移動です。

buck
質問者

お礼

大名行列は、形式的ではあっても軍事的な要素もあったのでしょうか。 回答ありがとうございます。

回答No.2

大名行列ですが、国を出るまでは家臣(直臣と家臣の家来)で編成されましたが、国境を越えた後は殿と家老、下人の数人による駆足の旅です。 箱根・白河の関前で口入屋に頼んで規定数を編成、越えたらアルバイト料を支払い解散します。次に品川・千住・板橋・新宿などに到着したらまた口入屋に頼んで江戸屋敷に向かいます。そして解散時に江戸城登城の日を伝えて登城の日にまた雇用して登城するのです。 参勤交代が廃止になり仕事が無くなった彼らが幕府の作った陸軍に入隊しています。

buck
質問者

お礼

行列の裏話のようで、大変、興味深い回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 参勤交代、国許へ

    参勤交代で国許から江戸へ向かう場合、大名の供は途中で引き返したり、江戸到着後に直ぐに帰国す者も含め、一応、定められた人数を揃えているようですね。 それでは、江戸から国許へ帰るときはどうなのでしょうか。 出府の際は、勤番以外も供も含めての人数ですから、勤番の武士だけでは人数が足りるはずがありません。 どうやって人数を揃えていたのでしょうか。 それとも帰国の際には、供の数は少なくてもよかったのでしょうか。

  • 武士の供は何人

    江戸時代の大名の家来で100石取り位の武士が、旅をするとき。 たとえば、国許から江戸まで旅をするとき、供は何人つくのでしょうか。 単身ということはあり得たのでしょうか。

  • 大名の本音は?

    変な質問ですみません。 大名は江戸に妻子がいて、自分も江戸で育ってきた訳ですから国許での暮らしよりも遥かに江戸での暮らしに親しみを感じていたのではないかと思うのですが、江戸も中期以降になると参勤交代で国許に帰るのは大名本人にとっては面倒な事だったんじゃないかと思うのですが、実際どうだったと思われますか? 特に数万石の小大名だと、国許としっても何もないド田舎に小さな陣屋が1つあるだけで、とても退屈な生活だったんじゃないかと思うんですが… お考えを承れれば幸いです。

  • 武士の旅

    江戸時代、大名の家臣である武士が参勤交代以外の公用で旅をする際に宿泊する宿は、武士専用の宿だったのでしょうか。

  • 大名の国替えについて

    江戸時代、譜代大名は国替えが頻繁にあったようですが、その際、先祖のお墓というのはどうしていたのでしょうか? 国替えを命じられなかった外様の大藩などでは国許の菩提寺に歴代藩主の立派なお墓が整然と並んでいたりしますが、頻繁に国替えを命じられた大名家の墓所は各地に点在していたのでしょうか?それとも江戸か親交のあった古刹に造っていたのでしょうか? 藩主もですが家臣達は自分の先祖の御墓の管理をどうしていたのかも気になっています。 あと、鳥居元忠の三男・成次ですが、甲府宰相忠長の附家老となる以前は大名(甲斐谷村藩主?領主?)だったのでしょうか? 元大名だったとすると、御附家老就任後の鳥居家の家格は諸侯から陪臣へ下がったのでしょうか? どなたか御教授頂ければ幸いです。<(_ _)>

  • 大名の行列

    江戸市中、特に江戸城周辺では登城する大名の行列同士・旗本の駕籠などがすれ違う事はままあったと思うのですが、その際に何か作法みたいなものはあったのでしょうか?

  • 参勤交代の大名行列に女性は。

    『東海道中膝栗毛』。 小田原宿での話ですが、「お大名のお国からお江戸入りの女中たち、駕籠をつらせて四五人づれ騒ぎ連れて来るのを見て」と、あります。 大名行列に女性はいましたか。 「入り鉄砲に出女」ですから「参勤」の場合には、目立たぬようにして、女性もいたのではないかと思っています。 よろしくお願いいたします。

  • 江戸時代の武士の結婚。

    江戸時代の武士の結婚。 江戸時代、武士が結婚する場合、家柄が同じであることが条件であったと思うのですが、大名の家臣の場合、家柄が同じであれば、異なる大名の家臣同士の婚姻はあったのでしょうか。 ピラミッドの頂上に近い(つまり、上級の家臣)ほど、同家格の家の数が少なくなってしまいます。 実際はどうなっていたのでしょうか。

  • 一番石高が髙い陪臣はだれですか。

    江戸時代徳川将軍直属の1万石以上の家来を陪臣大名、1万石以下を旗本、御家人と言い、その大名、旗本、御家人の家来を陪臣と言っていましたでは徳川将軍からみて陪臣で一番石高が髙いのはどこの大名に仕えていただれでしたか。

  • 大名の地位

    生駒氏は讃岐十七万二千石を治める大大名でしたが、生駒騒動で羽州矢島一万石の小大名になってしまいました。 (1)生駒高清は2千石を弟に分知した為、8千石の旗本(後に交代寄合)になってしまい、大名の地位から転落しています。 生駒家以外にも、他にも大名が分知によって1万石を割ってしまい旗本に転落する例があったようです。 弟に分知してやりたいという気持ちは分からなくはないですが、それによって一万石を割り、大名の地位自体を失ってしまう道を選択したのでしょうか?ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。 (2)弟へ分知によって8千石の旗本となった生駒家では、仁左衛門騒動(延宝騒動)が起こっています。 藩主が江戸定府なのを良いことに、国許の家臣が藩主の命を無視して過酷な年貢を課していたようです。 他の家でも、このように大名の命令や意向を堂々と無視して、家臣が専横を極めたケースがありましたら教えて下さい。