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大名の本音は?

変な質問ですみません。 大名は江戸に妻子がいて、自分も江戸で育ってきた訳ですから国許での暮らしよりも遥かに江戸での暮らしに親しみを感じていたのではないかと思うのですが、江戸も中期以降になると参勤交代で国許に帰るのは大名本人にとっては面倒な事だったんじゃないかと思うのですが、実際どうだったと思われますか? 特に数万石の小大名だと、国許としっても何もないド田舎に小さな陣屋が1つあるだけで、とても退屈な生活だったんじゃないかと思うんですが… お考えを承れれば幸いです。

noname#30350
noname#30350
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  • d-drop
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回答No.6

 おはようございます。  落語に『杯の殿様』というのがありますね。  江戸でなじみになった遊女のことが忘れられない殿様が、国許にいても杯のやり取りをしたい、ということで、自分が飲んだ杯を、足の速い家来に江戸まで運ばせる。その遊女も意気に感じて、その杯でぐっと煽ってご返杯。それを担いだ家来がまた国許へ。という話。なかなか粋な殿様で、私はこの話好きなんですが……。  現実はそんなものじゃなかったようです。  「参勤交代」という制度がなぜできたか、についてはご存知でもありましょうが、一応お浚いしておくと、1.江戸の妻子は、幕府の「人質」だった。2.江戸上がりにかかる費用、江戸での生活費、みな大名持ちですから、よほどの大身でないと、経済的にきつい。  幕府はこれを狙ったわけで、1で大名の首根っこを抑え、2で大名がよけいな経済力をつけるのを抑止したわけです。  さて、江戸中期から、貨幣経済の進展、農業技術の発達による米以外の農作物の収穫増などで、商人や大農民は、経済的に力をつけます。  でも、江戸時代は、基本的に、「金」ならぬ「米」本位制で、しかも見直しがない(いちど決った石高は、変わらない)。発展を想定しない制度だったんです。  しかし、現実として、米の価値は相対的に下落する。収穫できる米は確かに増えているのだけど、追いつかない。1石で換金できる金額は減るばかりです。  やってらんなかった、というのが大名の正直なところでしょう。  それでも、自藩の産業を奨励して、名物にして、収入を増やした大名はいます。でもこれもあんまりおおっぴらにやると幕府の待ったがかかりますが。  だから、江戸にいれば、妻子の顔は見られる。  でも、勘定方の苦り切った顔もみなきゃいけない。  つきあいだって欠かせない。屋敷の維持費もばかにならない。  遊ぶなんてとんでもないわけで。  国許では、妻子の顔は見られない、でも、経済的には、少しはやれやれです。  退屈かどうか、については、私見では、それほどではなかったんじゃなかろうか、と思います。  これは最近明らかになったことなんですが、江戸時代の日本は、かなり情報化社会だったらしい。とくに中~後期は。  俳諧師、兵法者、和算家、茶道家、宗教家といった人々が、全国を回り、その技能以外に、いろいろな情報を持ち歩いたらしいんです。  面白いのは、アヘン戦争の情報が、長崎の唐通詞から発信され、江戸へ付く前に、下総の古河藩に届いていたらしいんです。極秘文書ですよ。  つまり、その気になって、ネットワークを張れば、江戸にいるのと同じくらい、いえ、幕府にらまれることが少ない分、いろいろな情報を得ることができたらしいです。  ちょうど、今の社会が、インターネットで均質化していくのと同じです。  だから、国許で、何もしないで、金がないが口癖の大名は、江戸にいても同じだろうし、  自藩でいろいろ産業を興し、あるいはネットワークを積極的に張って、参考にする大名は、どこにいても、退屈を感じなかったでしょうね。  いちばんいい例が、薩摩藩ですよ。琉球の貿易の上がりの上前をはねて、あわせて情報を得る。  で、倒幕の時、あんなに強く出ることができたのも、その国力が背景にあったからです。  まとめますと、江戸にいても国許にいても、ぺーぺーなのは変わらない。ひとつお忍びで吉原へ……なんてことも、思うにまかせない。  でも、ぺーぺーを打開する方法は、その気になれば、できる、情報だって、手に入る。  藩の財政が立ち直れば、国許にいて、領民から慕われるし、江戸で遊女にも慕われる。  長いね。すいません。ご参考になれば。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 借金苦で領地を返上しようと考えた大名もいたらしいですね。 地方でもいろいろな情報を得られたのですね。少し意外でした。

その他の回答 (5)

  • Bird1979
  • ベストアンサー率48% (114/236)
回答No.5

私なりの推測で書かせていただきます。 「どっちがいいか?」と問われれば、大名の価値観、殿様としての責任感、気質、人柄、幕府内におけるランク、国許の状況などによって答えは違うのでは。 【在国許派のつぶやき(現代語風)】 江戸のいると疲れるよ、他の大名との付き合いはあるし、上役(幕府要人)への挨拶、ご機嫌伺いと、煩わしいといったらありゃしない。妻にしたって、無理やり押し付けられた正室だからなぁ、イマイチ合わないんだよ。おまけに今、幕府御用を仰せつかってるから、ミスはできないし金もかかる。そんなことに気を使ってるヒマないんだよ実際、今年は天候不順で民も苦しかろう、何とかしてやりたいものだ。側室にも会いたいし。でも金あるかな、家老に確認しないと・・・。 【江戸派のつぶやき(現代語風)】 やっぱ江戸はいいわ、酒・食い物はうまいし面白いことが多い。国許じゃこうはいかないし、国家老、代々仕えてきたっていう功績は認めるけど、いちいちうるさいしいなぁ。例の件については、在府中になんとしても改めて老中にお願いせねば。運動資金足りるかな?、国許から送金させるか。うまくいけば加増、わしの株も上がろうというものよ。今年の年貢のこと聞いてきておったが、それくらいのこと国許でキチンとやっとけよ。 結論(推測)  人さまざま すみません、ふざけたお答えになったとしたらご容赦願います。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 大名のつぶやき、楽しく拝見しました。 参勤交代も遠方の大名は長い間駕籠に揺られて大変だったかもしれませんね。 長期間狭い駕籠の中にいて、エコノミークラス症候群にはならなかったのでしょうか…

  • 1941
  • ベストアンサー率14% (4/28)
回答No.4

ユニークな面白い質問だと思います。 大名も人の子です。性格、おかれた環境、価値観等により千差万別だったと思います。 そこで独断と偏見で大名をランクずけしてみました。 1、藩の存続と、藩の人々[侍、民、百姓]の安寧が己の責務であると自覚している。 2、支配者であるマイファミリーの存続、維持を第一に考える。 3、己の幸せ、快楽を第一と考える。 江戸にいたいか、国許にいるべきかは各大名の価値観によるものと思いますが。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 1は上杉鷹山公の様な名君でしょうか 案外、傳役や学者から帝王学を学んでいたりして、心持ちだけは3より1の大名の方が多かったかもしれませんね。

  • swargal
  • ベストアンサー率41% (115/275)
回答No.3

正室は江戸住まいですが、側室は国許にということもあります。どちらの方が気が休まるか、本人次第でしょうね。 それよりも参勤交代にかかる費用のほうが、頭痛の種ではないかと思います。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 江戸にも側室はいたでしょうけど、やはり正室のいないところで、という方が気が休まったのかもしれないですね。

回答No.2

確かに大名は江戸で育っていますが、全ての大名が江戸での暮らしを好んだとは思えません。自分の領地というのは父祖伝来の地です。自分の家柄に誇りを持つ大名は故郷にいるほうが精神的に落ち着いたでしょう。 実際は半々くらいだと思います。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 領地にいると小さいながらも一国一城の主ですよね。 父祖伝来の地というのはあるでしょうね。

  • norikunny
  • ベストアンサー率21% (256/1168)
回答No.1

ちょーめんどうくさい。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答どうも(^^) 面倒くさいですよね。自分が大名の立場だったらそう思うと思います。

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