• ベストアンサー

次の文章の間違いは何処なのでしょうか?

次の文章の間違いは何処なのでしょうか? 3代将軍、徳川家光により参勤交代が制度化され、大名は常時国許に住むことが強制される一方、その大名の妻子は人質として江戸におかなければならなかった。 回答的には間違いのようですが、何処が間違いなのでしょうか?

  • aladd
  • お礼率36% (198/550)
  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#140269
noname#140269
回答No.5

>3代将軍、徳川家光により参勤交代が制度化され、大名は常時国許に住むことが強制される一方、その大名の妻子は人質として江戸におかなければならなかった (正解)3代将軍、徳川家光により参勤交代が制度化され、大名は1年毎に江戸と自領の行き来が義務づけをされる一方、その大名の妻子は人質として江戸におかなければならなかった です。参勤交替は家康の頃から行われていた様ですが、その時は義務ではなかったらしく、家光のときに「武家諸法度」が作られ、その中で参勤交替の制度化がされたんだそうです。

aladd
質問者

お礼

代表して、ここに皆さんにお礼を書かせて頂きます。 有難うございます。 1年毎に江戸に行く事は解っていたのですがこう書かれてしまうと???気づきませんでした。

その他の回答 (4)

回答No.4

> 大名は常時国許に住むことが強制される     大名は1年交代で江戸と国許を行き来することを義務付けられました。

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8525/19380)
回答No.3

3代将軍、徳川家光により参勤交代が制度化され、大名は主君(江戸の将軍様)への出仕(これを「参勤」と言う)と、国許で自領の執務を執る(これを「交代」と言う)事を1年単位で繰り返すのを強制される一方、その大名の妻子は人質として江戸におかなければならなかった。   が正解。   「大名は常時国許に住むこと」が間違いで「大名は国許と江戸を行ったり来たりさせられた」んです。   「国許で自領の執務を執るだけ」だと「参勤」が無いので「交代」だけになっちゃいます。

  • pasocom
  • ベストアンサー率41% (3584/8637)
回答No.2

「参勤交代」とは、大名が1年おきに国許住まいと江戸住まいとを交互に行うシステムです。 そのため大名の旅行が毎年行われ(これが大名行列)、大名たちの出費(財政圧迫)になりました。これが家光の狙いだったのです。 また大名が地元に帰ったときには、地元で幕府に対する謀反など起こさぬように大名の妻たちを人質として江戸に留め置いたのです。

  • LA_keyman
  • ベストアンサー率25% (163/627)
回答No.1

参勤交代とは常時国許に住むのではなく、1年ごとに国許と江戸に住むことです。(このため大名行列がありました) 文章の通りだと一生妻子には会えなくなっちゃいますw

関連するQ&A

  • 大名の本音は?

    変な質問ですみません。 大名は江戸に妻子がいて、自分も江戸で育ってきた訳ですから国許での暮らしよりも遥かに江戸での暮らしに親しみを感じていたのではないかと思うのですが、江戸も中期以降になると参勤交代で国許に帰るのは大名本人にとっては面倒な事だったんじゃないかと思うのですが、実際どうだったと思われますか? 特に数万石の小大名だと、国許としっても何もないド田舎に小さな陣屋が1つあるだけで、とても退屈な生活だったんじゃないかと思うんですが… お考えを承れれば幸いです。

  • 入鉄砲出女 人質妻子の江戸生活

    出女について質問があります。 大名の人質となった妻子はどうして江戸から逃げたかったのですか? 理由がよくわかりません。 人質生活とはいえ、将軍と契りを結んだ大名の家族なら、それなりの待遇を受けていたんじゃないんですか?それとも、奥の院みたいなところにぎゅうぎゅう詰め飼い殺しでストレス溜まりまくりですか? 例え逃亡が成功しても、後にバレますし、それが武家諸法度違反だったら、信用を失った旦那や一族の没落すら容易にイメージできます。ただ会いたい、で決行できるほど気軽な行為ではないと思います。(というか、参勤交代で一年間我慢すれば、また会えますよね?)無事国に帰れてもまた強制送還されそうですし。。としたら、帰りたい、でしょうか。彼女達は目の黒いうちに故郷に帰ることは許されないのでしょうか? 歴史は全く詳しくないので、穴ぼこだらけの理論だったらすみません。よろしくお願いします。

  • 薩長は参勤交代をしていなかった?人質は?

    江戸時代には参勤交代という制度があったと子供のころ習いました。藩主とその家族が交代で江戸にいて、常に誰かが人質になっている、というものだったと記憶しています。 ところで質問ですが、幕末には参勤交代はなくなっていたのでしょうか? というのも、薩長と徳川は戦争をしたわけですが、人質をとられていたのなら、そうそう簡単に幕府と事を構えられないはずですよね。 ちょっと検索してみたのですが、うまくヒットしません。 ど素人でお恥ずかしいのですが、そこのところご存知の方、よろしくお願いします。

  • 徳川家光について

    徳川家光について詳しくまとめてあるサイトや、武家諸法度、参勤交代、鎖国、大名の統制、慶安のお触書など、家光に関係することが分かりやすく書いてあるサイトがあったら教えてください。

  • 参勤交代

    江戸時代に行われていた参勤交代は、海外には事例が無かったと聞いたことがあります。大名にとっては、大変な費用負担だったのでしょうが、上手い仕組みだと感心しました。歴史の教科書には家光時代から始まった制度とありましたが、何かきっかけになったヒント、または類似の仕組みがこの時代にあったのでしょうか?

  • この問題を解いてくれませんか?

    この下の問題を解いてくれませんか? お願いします! すべて、江戸時代の問題です。 全部で8問です。 問い1・江戸幕府は、どのように大名を配置しましたか。また、そのようにしたのはなぜですか。 問い2・なぜ参勤交代を行うようになったのですか。 問い3・江戸時代の身分制度はどのようになっていましたか。 問い4・信長・秀吉・家康は外国貿易、キリスト教に対してどのように考えましたか。 問い5・なぜ鎖国を行ったのですか。 問い6・江戸時代、朝鮮との関係はどうでしたか。 問い7・江戸時代の農民のくらしはどんなだったでしょう。 問い8・徳川家光はどんなことをしましたか。

  • 参勤交代、国許へ

    参勤交代で国許から江戸へ向かう場合、大名の供は途中で引き返したり、江戸到着後に直ぐに帰国す者も含め、一応、定められた人数を揃えているようですね。 それでは、江戸から国許へ帰るときはどうなのでしょうか。 出府の際は、勤番以外も供も含めての人数ですから、勤番の武士だけでは人数が足りるはずがありません。 どうやって人数を揃えていたのでしょうか。 それとも帰国の際には、供の数は少なくてもよかったのでしょうか。

  • 天下の副将軍

    他の質問に自分で書いておいて今一自信がないのですが、喜連川藩の藩主を「副将軍」として間違いないでしょうか? もちろん副将軍と言うものは存在せず、鎌倉公方を副将軍と称した慣習からですが http://www.town.kawachi.tochigi.jp/08tanbou/120/114.html こちらのページには >行列の先頭で「天下の副将軍のお通り」と声に張り上げて通る姿・・・ と書いてありますが、形式的には他の大名と違って徳川氏の家臣ではなく、客将ですから幕府にあれこれ指図される筋合いではありませんが、こっそり自称するならともかく、公に「副将軍」と声を張り上げるのもどうかと思いますが、実際のところどうだったのでしょうか? 正室を国許に置ける特権があるとか、10万石格とかいろいろいわれのある家ですけど。 参勤交代も随意と言われながらもやったとかやらなかったとか、私もまだ勉強中です。

  • 参勤交代の制度

    歴史の質問です。 徳川家光は なぜ参勤交代をしたんですか?

  • 参勤交代 対馬藩は3年に1回

    参勤交代で、対馬藩は3年に1回だと書かれていました。「3年に1回」の参勤交代とは、3年のうち1年だけ江戸にいて、あと2年は国元にいるのか、それとも3年江戸にいて、3年は国元にいるということでしょうか?「対馬藩は3年に1回」と表現がよくわかりません。詳しい人、教えてください。