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自分が自分であることへの責任

なぜ自分は、自分が自分であることに責任を持たなくてはならないのか?または持てるのか? 自分がこの世に生まれるときに、自分で環境や肉体を選ぶことが出来たのなら、自分が自分であることに責任を持つ気になれるかもしれない。 しかし実際には、この世に生まれたときにはすでに生まれる時代も場所も、肉体も勝手に決められてしまっています ここで読み返して見ると、それなら生まれる前に自分のことを選択できるという自分はどのように生まれたのだという疑問が生まれますが 生まれてくる自分を選択できるような自分が存在しないのなら、自分は結局世界の必然的な現象の一部分として発生したのにすぎず、はじめから主体なんてものはないということになりませんか?

みんなの回答

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.9

tikushou様の認識とは全く別の考えを参考までに紹介します。 人がこの世に生まれてくるとき、何処の誰の子どもにうまれるかを決定する最も大切な要素はどこに生まれれば最も自分を向上するチャンスを多く持つことが出来るか・・・です。 人は人格的に向上するほど楽しく幸せになれるので、実はみんな早く向上したいと思っているのです。 人は魂として永遠の存在です。 ありとあらゆる人生の経験をとおして自分自身を磨いていきます。 そのために何度も生まれ変わる必要性が出てきます。 たったの一回ではとても経験しきれないからです。 今の人生はその旅の途中なのです。 今回の人生を何処の国の誰のもとで過ごすか決定するに際しては、過去の人生(過去生)の体験がものを言います。 過去に克服出来なかった弱点を乗り越えるために必要な国と親、兄弟、環境を選びます。 逆に親兄弟にとってはあなた自身の存在が自分の向上のために必要なのです。 お互いパズルのピースのように必要性がピッタリマッチした時に家族となることが出来ます。 家族とは互いに磨きあい、協力して高め合うための最小グループです。 互いにこの世で生きていくための最も意味のある必要な存在です。 また、過去生があるように来世も存在します。 今生で克服できた能力は来世で生かすことが出来ます。 つまり、順当にいけば、来世は今生より生きやすく、幸せになれる可能性が高いわけです。 ですから自分自身の幸せのために、より良い人生のために自分の行動に責任を持つことが大切です。 というより、今の行いの結果が今後に反映されるのですから、無責任な行動をすると自分自身の首を締め上げることになります。 くどくどと説明しましたが、tikushou様は今の人生で自分の行いの責任をとらされているのではないですか? それが生前から来世まで続く・・という考え方もあるのです。 参考になれば幸いです。

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回答No.8

主体と客体を切り分けて主体に責任を負わせなければならなかったのが、社会から見た個なんじゃないですかね…責任が無いと困りますから。境界は無いといえば無いと思います。

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noname#37468
noname#37468
回答No.7

主体と客体としてみるなら 3流の料理人に調理される素材は可哀想だ。 分を超えた無知なのか。 劣等感の為せる業か。 はたまた嫉妬心からなのか。 手を加えいじくり過ぎるのは素材を台無しにする。 馬鹿な料理人は無自覚なので手に負えない。 ひねた絵を描くようではその心理も知れている。 エミールでも同じような意味のことを言っている。 劣ったものが世界を支配するということほど民が苦しむことはないと国家の中でも言う。このろくでもない社会の中でしか生きられない。そういう意味で、はじめから主体はある方向性を持たされていると言えなくもない。自然と共に生きようとする者はだから、そのろくでもない支配者が滅ぶのを祈るようになるのだ。

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noname#37467
noname#37467
回答No.6

種は種のときから自らが生きようとすることをインプットされているのではないでしょうか。自然の環境が整えば芽を出し生命活動を始める。腐っても鯛ということですな。 主体が客体に先行してあるわけではないというのは疑問です。 物事を自由に見られる立場とは主体と客体を入れ替えられるということです。仏教用語では観自在といいます。観自在であってもカオスではない。自然界の掟はあるでしょう。それを自然の摂理といいます。 >はじめから主体なんてないということになりませんか? >なぜ自分は、自分が自分であることに責任を持たなくてはならないのか?または持てるのか? で例えば殺人をしても主体のないもののわざであって、殺人をさせられたのです。殺人をした主体ではありませんとでも言いたいのでしょうか?

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  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.5

>実際には、この世に生まれたときにはすでに生まれる時代も場所も、肉体も勝手に決められてしまっています さあ、どうなんでしょうね? 本当は、ちゃんと自分で選択しているよ、という説もあるようなのですが。。。 要は、自分で選んだという感じがしない、自覚はないよ、と主観でしか言えないということでしょう、フツーはね。 まぁ「生まれる前」のこと等は考えても確実な答えの出しようがないことではあります。現に「生まれてくる前に選択した」という記憶や自覚がないわけなのですから。 一応、辞書を見てみましょう。 【主体】 1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の―」 2 物事を構成するうえで中心となっているもの。「食餌療法を―に種々の治療を行う」「市民―の祭典」 3 《語源の(ギリシア)hypokeimennは、根底にあるもの、基体の意》哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの。認識論では主観と同義。個人的、実践的、歴史的、社会的、身体的な自我の働きが強調される場合、この主体という言葉が用いられる。 本御質問の場合 1の「自覚や意志に基づいて」という部分を重くみていらっしゃるようですが、このあと「行動したり作用を他に及ぼしたりするもの」と続いていますね。 2では「物事を構成するうえで中心となっているもの」と続きます。 そして3「哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの」とあり、「認識論では主観と同義」ともあります。 どうも「主体」とは、選択をしたからできるから主体、というより、構成事物の中心であり、作用を他に及ぼす、ということが肝腎なところのようにも受け取れます。そして「主観と同義」。 >責任を持たなくてはならないのか?または持てるのか? それと共に生まれ落ち、だから、もうすでに持っている持てているはず、とも言えるのではないでしょうか。 だって現に「他に作用を及ぼしている構成事物の中心」なのですから。 御質問者様の御考えでは責任というものは主体にプラスされるものということのように見受けますが、もしかして主体すでに責任とイコールなのかもしれません。 考えてみたら我々、生まれ落ちた瞬間いや母親の腹中に生じた時点で、もう「他に作用を及ぼしている構成事物の中心」なんですよね。 そうしてみると「主体的に責任を持って」とは、よく言われるようですが、奇妙なというかトートロジー的言いかたになりますね。 または、責任持てないということは「構成事物の中心」でない、究極、存在すらしていない、ということになりそうな。 或いは >世界の必然的な現象の一部分として発生した ことと主体であるかないか責任を持つか持たないかを論じることは主観なき主体を論じるナンセンスなのかもしれません。いや心情としては分かるつもりなんですけれども。

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noname#194289
noname#194289
回答No.4

主体というのは客体になりえないものです。客体になり得ないということは認識の対象にならないと言うことです。それではどうして自分の存在を知るかというと客体を認識できるのは主体のみだからという間接的なことになると思います。客体との接触がなければ決して主体は生まれてきません。つまり主体は客体に先行して出現するものではないと思います。

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  • tappara
  • ベストアンサー率37% (260/694)
回答No.3

哲学カテではない気がしますが・・・ 自分の望んだ環境以外では責任を取らないということであれば、きっと自分が選択してきて生まれていたとしてもきっと自分に責任は持てないでしょうね。 生きる時代場所、肉体が決められていたとしても生まれた後の行動間で決められていません。生まれに基づく制限自体を言い訳にするのであればそこにすでに主体なんてないです。 責任をもてないことへの屁理屈でしかないですね。 責任なんて生まれる前の前提にではなく生まれた後の人生に負うものではないでしょうか。 あるいは責任とは生まれることで自分が関係する親や友達などに対して自発的に発生するものではないでしょうか。 自分に責任を持ってる人は生まれではなく生まれた後の人生の中で責任を持っています。行動が責任を生むのです。 生まれが選択できたら責任を負えるとかいてますが、そうではないでしょう。責任をもててないと思いますよ。ちがいますか?

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  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.2

自分が自分であるということすら証明できないので、責任もへったくれもないのです。 とまあ、実際はtikushouさんに同意するのですが、あえて見方をずらすことを書いておきましょう。 >生まれてくる自分を選択できるような自分が存在しないのなら、自分は結局世界の必然的な現象の一部分として発生したのにすぎず、はじめから主体なんてものはないということになりませんか? 生まれつきなどの規定されている部分と、生き方という無規定な部分があるというのが現実なわけですから、「はじめから主体なんてものはない」というよりも「主体もあるが、主体以外の要素もあって、それが世界全体を動かしている(主体がすべてではない)」と考えた方がよさそうです。だったらそれ主体じゃないじゃん、と言われればそれまでですが。

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noname#80116
noname#80116
回答No.1

《自分は結局世界の必然的な現象の一部分として発生したのにすぎず、はじめから主体なんてものはないということになりませんか?》と問うひとりの主体存在になるようです。大抵は。 この人生が好きなんでしょうねぇ。 そうでない場合 そうでなかったとしたら どうなのか。その考え方を 自分の内でも煮つめて 外でも練りに練っていくのだと思います。 世界のどこが気に喰わない どこがめちゃくちゃだということを 明確に把握することから入っていくとよいように思うのですが。 明確になったあとでは 自分がどうしたいか どうもしたくないか これを決めるとよいでしょう。そこからあとは それぞれの勝手です。

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