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尊王攘夷について
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長州は力で幕府を倒すという方向性であったが、外国との戦争で疲弊し弱気になっていた。そこに幕府軍参謀で西郷吉之助が長州征伐に行くのだか西郷は『いまや国内藩同士で戦い合っている場面ではない』という考えを持っており、薩摩と長州で手を組んで新しい日本を作らねばという方向性が出た。この時代の勝海舟とか坂本竜馬もこのような考えをもっており新生日本に動き出したという感じです。 単に現象面で捉えても意味が分からないので、『人斬り半次郎(幕末編)』池波正太郎 角川文庫 がまさにご質問にピッタリの本です。西郷が2度島流しになった背景などなるほどと納得できますよ!
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- dulatour
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まず、幕末の人々の考えを良く整理してみましょう。 攘夷論 鎖国の中での、外交政策に対する弱腰を批判する。 開国論 これは、かなり後の思想です 尊王論 幕府の威信が減少する中で、天皇の政治への関与を重視する。 こうした時代の中で、各藩が未来の対外折衝と政治体系とを模索した結果だと思います。 幕末では、「尊皇」、「攘夷」は一枚板はありません。 そのあたりを、もう少し、勉強された方が良いと思います。
お礼
ありがとうございました
- Roman0
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倒幕後にも政府に残ったような人たちは、鎖国を再開するなどということが夢物語だということは、十分判っていた人たちです。 ですが、それが判っていない人の力も取り入れないと倒幕はできなかったから、看板として「攘夷」は上げていたと考えるべきでしょう。 厳密に言えば、「攘夷」には二種類あって、ひとつは文字通り物理的に外国人を追い出して鎖国するための「攘夷」。もうひとつは、開国しながらも外国勢力からの独立を保った状態を維持するという意味、すなわち外国勢力による内政干渉を排除するという意味の「攘夷」。 後者の、内政干渉を排除して日本国としての独立を保つという意味での「攘夷」を、明治の元勲たちは考えていたのです。 開国か、鎖国かは、その観点からすれば、理念の実現における手法レベルの違いでしかありません。考え方を変えたと言っても、手法レベルので変えたに過ぎず、日本が日本として独立を保つという根幹は、揺らいでいません。 だから、関税自主権の回復をはじめとする不平等条約の改正に、彼らは必死に努力したのです。
お礼
明治の人たちには 本当に頭が下がります ありがとうございました
- nemosan
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それぞれの藩が単独で外国と戦争し、完敗したから。 薩英戦争 http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BB%A7%B1%D1%C0%EF%C1%E8/detail.html?LINK=1&kind=epedia 下関戦争 http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B2%BC%B4%D8%C0%EF%C1%E8/detail.html?LINK=1&kind=epedia&kind=epedia&LINK=1
お礼
分かりました ありがとうございます
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