• ベストアンサー

尊王攘夷について

幕末は長州藩の開国論と薩摩藩の尊皇攘夷派の 対立があったわけですが薩長同盟が成立したのは 開国論者も尊皇攘夷派も幕府を倒さなければならないと 言った共通項があったからですか? また、なぜ攘夷派の人間は明治以降、開国論に 考え方を変えたのでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数8

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Isamu_S
  • ベストアンサー率21% (25/116)
回答No.3

長州は力で幕府を倒すという方向性であったが、外国との戦争で疲弊し弱気になっていた。そこに幕府軍参謀で西郷吉之助が長州征伐に行くのだか西郷は『いまや国内藩同士で戦い合っている場面ではない』という考えを持っており、薩摩と長州で手を組んで新しい日本を作らねばという方向性が出た。この時代の勝海舟とか坂本竜馬もこのような考えをもっており新生日本に動き出したという感じです。 単に現象面で捉えても意味が分からないので、『人斬り半次郎(幕末編)』池波正太郎 角川文庫 がまさにご質問にピッタリの本です。西郷が2度島流しになった背景などなるほどと納得できますよ!

siniti009
質問者

お礼

分かりました。 是非読んでみたいと思います ありがとうございます

その他の回答 (3)

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.4

まず、幕末の人々の考えを良く整理してみましょう。 攘夷論 鎖国の中での、外交政策に対する弱腰を批判する。 開国論 これは、かなり後の思想です 尊王論 幕府の威信が減少する中で、天皇の政治への関与を重視する。 こうした時代の中で、各藩が未来の対外折衝と政治体系とを模索した結果だと思います。 幕末では、「尊皇」、「攘夷」は一枚板はありません。 そのあたりを、もう少し、勉強された方が良いと思います。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございました

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.2

 倒幕後にも政府に残ったような人たちは、鎖国を再開するなどということが夢物語だということは、十分判っていた人たちです。  ですが、それが判っていない人の力も取り入れないと倒幕はできなかったから、看板として「攘夷」は上げていたと考えるべきでしょう。  厳密に言えば、「攘夷」には二種類あって、ひとつは文字通り物理的に外国人を追い出して鎖国するための「攘夷」。もうひとつは、開国しながらも外国勢力からの独立を保った状態を維持するという意味、すなわち外国勢力による内政干渉を排除するという意味の「攘夷」。  後者の、内政干渉を排除して日本国としての独立を保つという意味での「攘夷」を、明治の元勲たちは考えていたのです。  開国か、鎖国かは、その観点からすれば、理念の実現における手法レベルの違いでしかありません。考え方を変えたと言っても、手法レベルので変えたに過ぎず、日本が日本として独立を保つという根幹は、揺らいでいません。  だから、関税自主権の回復をはじめとする不平等条約の改正に、彼らは必死に努力したのです。

siniti009
質問者

お礼

明治の人たちには 本当に頭が下がります ありがとうございました

  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.1
siniti009
質問者

お礼

分かりました ありがとうございます

関連するQ&A

  • 尊皇攘夷

    今司馬遼太郎の本を読んでいますが、もともと脳のキャパが狭いので少々混乱しております。 幕末~明治維新の時代において、「尊皇攘夷」はひとつのキーワードだったと思いますが、きちんと理解できていないので助言いただきたいと思います。 (1)まず、尊皇攘夷の意味について。 天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事 と理解していますが、あっていますか? (2)幕末において、攘夷派の志士(薩長土)が明治維新を起こしましたが、「尊皇攘夷」を唱えていた彼らが明治維新を成し遂げたあと、「攘夷」であるはずが開国に踏み切ったのはどういう訳なんでしょうか? (3)新撰組の近藤勇も「攘夷」派だったらしいですが、これはどういうことでしょう? 彼のような左幕派も「攘夷」を掲げていたのでしょうか? (4)また、同時代において水戸藩は左幕派の代表として薩長土と戦いましたが、水戸といえば元は「尊皇攘夷」思想の総本山だったのではないでしょうか? いつの間に攘夷志士と戦う左幕派になったのでしょうか? かなり誤解して覚えている部分もあると思いますので間違いを指摘していただけたら嬉しいです。 よろしくお願いいたします。

  • 尊王攘夷運動について。(中二

    教科書に、 1863年、尊王攘夷運動の高まりをおそれた幕府は、 天皇や薩摩藩の支持を取りつけ、京都から急進派の公家や長州浪士を追放し、 翌年には、長州藩を攻めて屈服させました。 と書いてありましたが、どうして天皇は、自分と開国反対派の長州に攻撃したんでしょうか? 意味がわかりません。

  • 幕末の攘夷派と開国派について

    幕末の思想には、大きく分けて尊王攘夷派と佐幕開国派があったと理解しています。 以下の疑問について、大まかにご教授いただければ幸いです。 1.薩摩藩や坂本竜馬は尊王攘夷から尊王開国派に変わったと理解して良いか? 2.長州藩はどんな思想だったのか? 3.朝廷はひたすら攘夷だったのか? 4.「佐幕攘夷」などの思想を持つ藩や人物は存在したのか? 以上、よろしくお願いします。

  • 幕末の各勢力の立ち位置について

    黒船が来航したことで、幕府は開国をしましたよね。 それに反対する形で、薩摩・長州などが 尊皇攘夷を唱えて対立したのが、幕末の始まりだと思います。 でも、薩摩や長州が外国との戦争で負けたことをきっかけとして、 開国に主張が変わったのに、その後も倒幕運動が行われたのは どうしてなんでしょうか? スローガンが尊皇だけだと、倒幕の根拠が薄いような気がします。 なぜなら、幕府は朝廷と対立したのは幕府が開国したためで 尊皇を唱える薩摩・長州も開国に主張を変えたなら どちらも、朝廷と対立する立場になると思うからです。 個人的には、関が原の戦い以降の毛利・島津の恨みが根底に あって、尊皇や攘夷は口実に過ぎないと思ったりもしたのですが。 どうなんでしょうか。よろしくお願いします。

  • 長州藩の力

    日本史について質問です。最近ペリー後に日本が開国を始めた時代から、長州征伐までを本で読んだのですが、わからないところがあります。長州藩のことですが、本では長州藩が尊皇攘夷をたて、京都で幕府を支配し、井伊直弼が結んだ開国を防ごうということが書かれていたのですが、なぜ長州藩は幕府を牛耳るだけの支配権をもっていたのでしょうか?それ以前に、幕府が行った開国に対しての不満が生じ(攘夷論)、その不満を防ぐために、公武合体運動として家定と和宮が政略結婚させられましたよね?? そこで長州藩が、今まで徳川家(幕府)の武家政権が中心社会でしたが、力をずっと持っていなかった朝廷(公家)をいきなり立てて、なおかつそれを使って、攘夷論を打ち出すことによって、長州藩は力をつけたのでしょうか? 本では、家定を京都に呼んだ??と書かれてあったのですが、政略結婚のことをいっているのでしょうか? 教えてください。

  • 長州藩の尊攘派の攘夷

    恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。 私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。 ・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している  うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。  ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?  それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本  にとって不平等で、しかも天皇の勅許も得ないまま結んだので吉田松  陰としてはそんな腰ぬけな幕府を批判した。  さらにこんな不平等な開国に対しては攘夷だ!という事で尊攘派とし  て運動した。  開国するならするでちゃんとお互い対等な条件と勅許を得た上で調印 しろ!といった感じで。 ・よって吉田松陰の弟子にあたる長州藩の尊攘派の中心、桂小五郎や高  杉晋作や久坂玄瑞なども表では攘夷とさけびながらも実は攘夷などは  もう無理でいずれは開国し国力をつけなければと思っていた。  しかし、今回の幕府が行った開国は不平等であるので攘夷を実行し  た。  不平等な条約での開国は反対という事で攘夷を唱え、実行していた。 ・しかし、その攘夷を実行して4カ国艦隊でやられ結局そのまま開国へ  と変えた。 この概要であっておりますでしょうか?

  • 「尊皇攘夷」の攘夷について

    攘夷って「外国の侵入を撃退する」(平たく言えば)って意味だと覚えてるんですけど、 坂本龍馬始め薩摩や長州藩の人たちって洋服に身を包んだり、坂本龍馬に関して言えばその頃珍しくブーツをはいたり、ヨーロッパに外遊したり確かに「敵を知るには‥」とは思いつつも、少しだけヨーロッパに憧れもあったのではないでしょうか?よく、舶来品の瓶のお酒とかを飾ってる所も見かけるし(ドラマ上では) 嫌いじゃないけど日本に関してのある種の「警戒心」を持ちつつも消して嫌いじゃないような気もしないでもない。

  • 江戸幕府と幕末について

    私も歴史は得意ですがどうも江戸と幕末が苦手なので教えて下さい。まず、幕府ですが、 1.どのくらい権力があったのでしょうか。 幕府と言えども簡単に抵抗する藩を潰したりは出来なかったのでしょうか。 特に幕末はまったくわからないのですが、 2.長州藩をどうして潰せなかったのか。 3.なぜ、幕府軍は薩摩や会津なのか。他にもいたのか。 そして最後に究極の質問ですが、薩摩や長州が幕府を倒そうとした時、この様にすることが出来なかったのでしょうか。 4.全国の藩に命じて薩長を倒す。いくら薩長が強いとは言え、全国から総動員すれば勝てそうな気がするのですが、できなかったのでしょうか。 5.また、伊達や前田、家康以来の本多、酒井、など戦国時代に活躍した家臣たちはどうなっていたのでしょうか。 たくさん質問してすみません。けど、非常に気になるので教えて下さい。

  • 薩摩藩と長州藩

    明治維新の際に 薩摩藩と長州藩は薩長同盟を組んだのに 西南戦争でまた敵同士になるという認識であってますか?

  • 薩長同盟の軍事力に関して

     幕末期に薩長同盟が結ばれるや否や倒幕の動きは加速され、幕府はあっけなく倒されてしまいます。なぜ長州と薩摩2藩だけで幕府を倒すだけの力があったのでしょうか。どうしても分からないのです。  今の日本では二つの県が組んだだけで日本が転覆することなどとうてい考えられないのですが(ちなみに私は鹿児島県出身です)220項目までは調べたのですが、それ以上調べていません。類似の質問ならお許しください。  宜しくお願いいたします。