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今司馬遼太郎の本を読んでいますが、もともと脳のキャパが狭いので少々混乱しております。
幕末~明治維新の時代において、「尊皇攘夷」はひとつのキーワードだったと思いますが、きちんと理解できていないので助言いただきたいと思います。
(1)まず、尊皇攘夷の意味について。
天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事
と理解していますが、あっていますか?
(2)幕末において、攘夷派の志士(薩長土)が明治維新を起こしましたが、「尊皇攘夷」を唱えていた彼らが明治維新を成し遂げたあと、「攘夷」であるはずが開国に踏み切ったのはどういう訳なんでしょうか?
(3)新撰組の近藤勇も「攘夷」派だったらしいですが、これはどういうことでしょう?
彼のような左幕派も「攘夷」を掲げていたのでしょうか?
(4)また、同時代において水戸藩は左幕派の代表として薩長土と戦いましたが、水戸といえば元は「尊皇攘夷」思想の総本山だったのではないでしょうか?
いつの間に攘夷志士と戦う左幕派になったのでしょうか?
かなり誤解して覚えている部分もあると思いますので間違いを指摘していただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
投稿日時 - 2003-06-20 22:21:08
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回答(16件中 1~5件目)
尊王攘夷の字義の上での意味は、その通りだと思いますが
当時の尊王攘夷というのは、現代日本で極左から右翼まで反対しない
”民主主義”と同じような、とりあえず誰からも受け入れられる
一般的な理念だったと思います。
極端にいえば”正義”とか”平和”とかと同じようなものです。
佐幕派も倒幕派もすべからく尊王攘夷だったわけです。
(歴史的に倒幕派が勝利したので、自分たちこそが尊王攘夷だったと
倒幕派が主張することになったのですが)
清朝の洋務運動を見るまでもなく、攘夷と開国は矛盾しません。
水戸藩の事例に関しては、やや複雑なので、ご自分で一度調べられて見てはいかがでしょうか。
慶喜の絡みがあるので佐幕とは言えますが。。
投稿日時 - 2010-01-31 08:38:08
(1)尊王攘夷とは表面上の意味は「天皇を尊び異国を打ち払う」ことです。幕末大老の井伊直弼はアメリカと条約を結びましたが当時の天皇であった孝明天皇は大の異国嫌いで帝の御心を踏みにじった行為により幕府は弱みを作りました。そこで幕府を倒す大義名分としての尊王攘夷運動が始まるのです。
(2)彼らにとってみれば尊王攘夷というのは幕府を倒し新しい時代を作るために大義名分にすぎませんでした。だから表面上は攘夷を唱えながらも、長州は四国艦隊下関砲撃事件により、また薩摩は薩英戦争により外国の圧力を身をもって感じていたので攘夷は無理だと判断していました。しかし最も体よく幕府を倒すための大義名分としては尊王と上位を結び付けることはてっとりばやかったのでしょうね。
(3)近藤は佐幕派にありながら佐久間象山や勝海舟の影響を受けていたので佐幕派にありながら攘夷論者でもありました。
投稿日時 - 2009-09-21 18:49:57
歴史の見方は、ものごとの一面だけを見てはいけません。
1)尊皇攘夷
これは政治的なスローガンであって、そのような国民的な運動があった訳ではありません。要は、倒幕のための宣伝文句であり、長州藩の戦略である尊王倒幕への布石でした。庶民には、自然発生的な攘夷感情もあったでしょうが、攘夷などできる訳がないことも自明の理でした。しかしながら、太平洋戦争でもそうでしたが、勝てる訳がないことでも始めてしまうのが、この国の民の性なんでしょうか。
今の世の中も、この手のスローガンが溢れていますが、くれぐれも惑わされないようにしてください。
2)上記にあるように、攘夷など、そもそも実現するつもりは誰にもありませんでした。愚かにもそれを信じた連中は、悉く抹殺されています。
3)新撰組に、思想性を求めてみても詮無いことです。
4)水戸藩の跳ね上がりは、単なる内ゲバです。(天狗党騒動)
投稿日時 - 2008-10-13 17:14:43
水戸出身の者です。興味深いので参戦させて頂きます(笑)
昔光栄(というゲームメーカー)の「維新の嵐」というゲームがありました。
このゲームではそれぞれの人物がそれぞれの思想を持っているのですが、
よく区分けされていて面白かったと思います。
さて、攘夷は必ずしも尊王とくっつくわけではありません。
幕末の思想の違いとして、まず
1 諸外国とのスタンス があるでしょう。
つまり開国か攘夷か、という違いです。これは相反するので
開国⇔攘夷
という対立関係になります。
次に
2 国を統治するのは誰か があるでしょう。
つまり尊王か佐幕か、という違いです。これも相反するので
尊王⇔佐幕
という対立関係になります。
さらに言えば、その中立の「公武合体」という思想もあります。
さて、このように分類すると、それぞれの人物の思想が分別出来ます。
例えば
勝海舟は佐幕開国
でしょうし
近藤勇は佐幕攘夷
です。
吉田松蔭は尊王攘夷
でしょうし、
坂本龍馬は尊王開国
でしょう。
おおざっぱになってしまって
異論もあるでしょうが、要するに佐幕の攘夷派もいれば
尊王の攘夷派もいるということです。
さてそれを踏まえて回答します。
1はその通りですが、尊王は幕府から天皇に政治の主導権を戻すという
思想であり、単に敬えで終わることではないと思われます。
2はちょうど篤姫でそこらへんのいきさつが放映されているのでタイムリーですが、
維新の頃には薩長の志士と言えど攘夷から開国へと思想転換しています。
長州も薩摩もイギリスにしこたま負けて、攘夷が不可能なことに
気が付いたからです。むしろそのイギリスの軍事力を積極的に
取り入れ、その力を持って倒幕しようと動き始めます。
つまり大政奉還の頃には、もはや薩長もイギリスと積極的に手を組んでいます。
薩長のここらへんの軌道修正の見事さは学ぶべき所がありますね。
3については先に述べた通りで、攘夷と尊王はセットではないのです。
尊王攘夷の単語があまりにメジャーなため、セットのようですが
そうではありません。佐幕でも頭が古い連中は(失礼)だいたい
攘夷思想を持っていたのです。
4についてですが、水戸藩に着目されたのは鋭いですね。
実は水戸藩は大いなる矛盾を抱えた藩なのです。
水戸藩は御三家の一であり、当然の事ながら将軍を出す事も
出来る身内中の身内です。将軍とは血縁関係ですし、
つまり当然佐幕なわけです。
しかし有名な水戸光圀公が編纂した「大日本史」の影響で
水戸藩は一方で「尊王」思想も育っていきました。
つまり佐幕中の佐幕でありながら、尊王の思想も併せ持っていたわけです。
ゆえに藤田東湖など名学者が輩出され、若き西郷ほか維新の
元勲たちも水戸藩の学者に教えを乞うたことがあると言います。
一つの藩に対極の二つの思想を飼ってしまった水戸藩は
戦争では血を重んじ(将軍の身内ですから当たり前ですよね)佐幕派の立場を
とりますが、一方で藩に当然存在する尊王派の志士も抑えきれずに
内紛・内乱・内ゲバとなり、尊王攘夷の源流の一つなのにも関わらず
血で血を洗う抗争の結果、維新の露と消えてゆくのです。
水戸藩は元々佐幕なのです。そこに熱き尊王が育ってしまったことが
数奇な運命だったのです。
投稿日時 - 2008-09-30 03:28:27