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人の行為における、意識とこころ

 定義の問題ではなく、 (1)人の行為には必ず、行為というものにはいずれかのレベルの意識や心が伴うものなのであろうか? (2)人以外の、例えば哺乳類などの生物にはどんなレベルの意識や心も伴わないものであろうか。意識や心ということの定義を抜きにして、日常の普通のことばとして。法解釈では、人とか、行為とか、故意とか、きちんと定義されているが、それは法律の一貫性と、体系のためであるに過ぎない。つまり便宜的定義でしか過ぎない。 (3)仮に人においてどんな性格、どんなレベルの意識や心の伴わない行為がありえたとして(無論、宗教的無の境地ということではなく)、(3)-aそういう事実行為はその行為者の意識は心にどんな影響があるだろうか?或は残すだろうか? (3)-bそういう事実行為に対して、向上と堕落という面からの評価がやはりありうるものか? 責任という側面を除外して。 (3)-向上と堕落というのは、意識と心に対していうのであろうか?  何か含みが内心にあるような助けて、質問ですが、解脱(新宗教ではありません)の行為の性格を読書中なのですが(インドの聖典で)そういう読書プロセスで、一体人の行為って何なのだろう、考え込んでしまっております。

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  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

心の構造は意識構造として8段階に分解されます、9段階あるいは10段階分解説もあります。URL参考にしてください。 そこで、心とは何だろうということになりますが、心と意識は簡単に言えば、たまねぎ状の意識と中枢部分(たまねぎの芯の部分)の心という構造でですから、同じものではないですね。 意識に考える主体(心)が作用すると意思あるいは意志となります。 意識は無意識という反対語がありますが、本来的な意識は無意識が正しいと思います。人間の意識構造には、五感からくる意識、目、耳、鼻、舌、身体、からの意識があります。これらの意識は無意識に働いてますね。例えば心臓は勝手に動いていますが心臓の意識が働いているので、自身の意思でとめたり動かしたりはできませんね。これらを総称して表面意識といいます。おなかがすくのは心の意志ではなく肉体の要求つまり表面意識が本能的、自動的にやってることですね。この表面意識を心だと勘違いする場合が多いですね。表面意識は動物の本能と一緒ですからこの意識による行動に制限を与えないと犬や猫と同じ行動になります。この行動の制約が現代法の原点ですね。殺すね、盗むな、うそをつくな、性的に乱れるな、など動物を見ればわかる程度のものです。表面意識の下に潜在意識、その下に記憶意識、その下に「心」、その中に心の中核部分という構造です。潜在意識は高いところがなぜか怖いという隠された意識ですね。これも心というものよりは記憶の一部で表面意識が反応しているということだけですね。 表面意識は言い換えれば肉体そのものですから、この肉体が悪さをすれば罰せられるということですね。そこで、心はどうかといえば、その肉体行動(表面意識)を管理できなかったということで同罪、一方、心が前向きに指示して悪さを実行すれば当然同罪。心に罪を問うとすれば後者が罪は重いですね。 何か車の運転と似ているでしょう。車が表面意識で、ハンドルを持つ運転者が心ですね。事故が起きれば運転者が罰せられますが、わき見運転による事故などは前向きに事故を起こしたかったわけではないですね。管理できていなかっただけ。飲酒などは動物が運転しているようなものですね。と、このように意識や心を分析的にみると判りやすいかもしれませんね。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98
krya1998
質問者

お礼

難しい事柄なのでしょうが、わかりやすい表現と文章でお教えいただき、このインターネットの偉大さと共に感謝申しあげ、お礼を先ずさせていただきます。

krya1998
質問者

補足

たまねぎの話は前段の説明を飲み込む上で、非常に助かりました。 意識があり、考える主体(心と表現━所謂る自分で行為の主体ですね)があり、そして結果としての意思、意志が生ずる。そうすると意志・意思は画かれた、結果、つまり意識している内容、状態ですね。だから意識と主体がある、ということですね。その正体や起源などは、性格などは別にして。そういう意味から意識とは、実は無意識のことなのだというのは実にわかる話です。この法解釈学しかして来なかったゴチゴチにも。そして五感という内部のものがり、更に感覚の肉体的器官となるものがあり、そういうものから所謂、意識が層をなしていて、それに心という主体が作用しているということですね。これはやはり難しい、いえ少し混乱気味です。そして心は表面意識、つまり肉体行動を管理する主体だということなのですね。素直によんでいくと、やさしい言葉と表現ですので、直ぐわかるのですが、ちょっと考えると理解するのに苦労するところがありまして、何でも自分の中で反芻する必要があるものですね。何でも言葉で伺い、ガチガチ質問で定義を戴いて、理解するという態度は自分に誡めたいと存じますが。その心とか意識の正体や起源が少しわかると、咀嚼に援けになるかもしれません。ほんとうにありがとう御座います。

その他の回答 (2)

noname#38456
noname#38456
回答No.3

極々、簡単に回答してみると・・。 A01 結局は、潜在意識の欲求に振り回されて、肉体にある、表層意識で、対象の欲求を満足する行動にでる。そして、潜在意識が、対象に満足しないがために、次々と対象を変え貪る・・ただ、それだけ。 そして、潜在意識が、満足した段階で苦しみは生起する。 A02、動物の意識状態は、さすがに不明なので、パス。 A03だけ、ここだけ、よくわからないのですが、参考の程度で。 A03-a >どんなレベルの意識や心の伴わない行為がありえたとして・・ 例えば、まったく心が、完全に停止した状態での行為、そのものが、存在しない(現世的に)と思われるので、逆に"それは、ないもの??"・・と言えるのではと。 仮に、まったく心が、動かない、完全なる静止をした状態で、例えば、食欲、性欲の欲求が、わいたとしても、それは幻影だと理解しているのだから、行動には起こさないし。 また、その幻影に巻き込まれて、行動を起こしたとしても、それは、その欲求を錯覚し、その欲求に巻き込まれた段階で、心において、先ほどの食欲、性欲が、生起しているので、"まったくない"状態とはいえないはず。 A03-b >向上と堕落という面からの評価がやはりありうるものか? 評価の意味として、仏教的には意識が、自己の内側に向かうのが、向上で、墜落(下向とも呼ぶが)は、意識が外側に、つまり現世的な欲求に向かうことを意味します。言葉を変えると、現世否定が、向上で、"現世肯定"が、下向です。 その評価は、各個人、又は宗教的、指導者が、行うものが、普通。   ところで、これと同じ質問を別のカテゴリーにもしていませんか?? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3124674.html これって、マルチポストで、規約違反だと思うよ、個人的に。で、とりあえず、通報しておきました。 管理者の判断で、削除されるかもしれないけどね、それは、あしからず。 >解脱(新宗教ではありません)の行為の性格を読書中なのですが・・ 本当の意味で、解脱を知りたいなら、それを経験してみるしか方法が、ないのでは??・・と思うよ。 例えば、上記の回答の『欲求が、幻影』、『巻き込まれて』とか、わからないでしょ??。 昔の、マルパだったかな??、学者タイプの修行者だったのが、それを経験してみたいと、修行し、解脱した、あの有名なお方です。 以上

krya1998
質問者

お礼

ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

ありがとう御座いました。明快なお言葉です

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.1

まず、行為とは意思の実現です。 しかし、すべての意思の実現が許されるわけではありません。 場合によっては、社会規範から外れたものは法的な制裁を受けます。 規範の範囲内であれば、意思の実現は自由です。 しかし、そこにもさまざまな制約があります。 それらは、慣習と呼ばれています。

krya1998
質問者

お礼

感謝いたします。

krya1998
質問者

補足

ありがとう御座います。  (1)貴殿は意思という字をお使いです。常人の日常生活では意志という字で表現する方が多いかと存じます。そしてまた、法律の世界で、一定の法律効果をもたらす行為を、意思行為とも表示しております。貴殿が、意思という漢字をお使いのご意図をご説明いただけるでしょうか?  (2)法律の世界では慣習法と、しからざる習慣とがございますね。 貴殿が掲げれた、慣習とはその世界のことをさしておられますか?  (3)いわゆる、人の行為を制約、主導していく、個人の習慣、ハビットとは異なる、アハンカーラというものをさしておられますか。社会の慣習のことは今私には問題とはなっていませんで、個人の中の習慣のことでは、それはどういう意識レベルにあり、どのような構造と機構、機能があるか、もしご賢察でしたら、お教えいただけないでしょうか?

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