無我の境地とは? 心の安定と健康につながる無念無想の状態を解説

このQ&Aのポイント
  • 無我の境地とは、雑念を捨て、心の静けさや穏やかさを感じる状態のことを指します。
  • 無念無想とは、仏教用語であり、心が静かで、思考や欲望がない状態を意味します。
  • 拝みや合掌などの動作を通じて、無念無想の状態に至ることができ、これによってストレス物質アドレナリンの減少や心の安定につながると言われています。
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無我の境地はいったいなんなのでしょうか。

無念無想という言葉がありまして、一般的に宗教的な拝みの際の心のありようを言っているものだと解釈していますが、これはどういった状態をいうのでしょうか。 前もってお伝えしておきますが、私は無宗教です。神も仏もあの世も信じてはいません。宗教の存在意義は、現世にいる人の心を間違った方向へ進まないためにある考え方であり、かつ大切な人を亡くしたときの癒しとなる考え方であると思っています。簡単に言えばどこかの誰かが見ていると信じるだけで悪さはし辛くものであり、かつ大切な人がまだ天国などで幸せにいるのなら残された人も頑張れるといった考え方です。 しかし、よく拝めば幸せになるよと某宗教信者に言われたことがありますが、間違ってはいないと最近気づきました。拝みという無念無想のような心静かな状態に精神状態をもっていくことで、病の源であるストレス物質アドレナリンを血中から減少させる働きがあるので健康的になれるということです。 どんな宗教であれ、手を合わせるなど合掌をして目を瞑り動作がありますが、一番アドレナリンをなくす方法が無心になることだそうです。そこで疑問が生じたのですが、よくいう無念無想というは無心と同義なのでしょうか。 調べてみると、『仏教語。「無念」は雑念を生じる心を捨て無我の境地に至ること。「無想」は心の働きがない意。』とありまして、よく無我の境地に達するのは素人では難しい、など非常に何年も修行を積まなければできないと聞きますが実際のところどうなのでしょうか。 意識的に無心となるのなら、無意識の状態なわけですよね。そこから意識して意識レベルを上げることは一度無意識としての意識喪失状態になったらできないような気もしてしまうんです。もし無の状態から意識を作り上げれるのであれば、無といえないと思えてしまうんです。 無我の境地はいったいなんなのでしょうか。

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noname#212313
noname#212313
回答No.3

「我」って、仏教含めて考えると多義で、「無我」といっても、どの「我」についてなのか、といったことがあったりします。しかし、とりあえず一般用語としてなじみ深い「無我」で考えたいと思います。  普通によく言う「無我」ですと、お考えのように「無念、無想」といったことと同義、あるいは非常に近い意味であるわけですね。念ずる主体、想う主体が「我」といったことになります。座禅などの瞑想では、よく「無我になれ、無念無想を保て」などと言ったりします。  しかし、例えば熟睡中(特にノンレム睡眠中)は、何かを念じたり、想ったりはしていません。少なくとも積極的にはしません。脳波を測定すると、脳が休んでいる状態の波形が出ます。  じゃあ、座禅なんか組まずにひたすら眠っていればいいのか、というと、もちろんそうではないことはご承知の通りです。ひたすら眠る禅僧なんて聞いたことがないですし、そんな修行もメジャーなものとしては知られてはいません。  熟練した禅僧の座禅中ですと、起きていながら、眠っているが如くの静かな状態を作り出しているようです。素人でも、その状態だけなら割と簡単に真似ることができます。ただし、似て非なるものです。そのことは、座禅中の脳波測定実験例で一端が知られています。  禅の高僧と素人が静かな部屋で座禅を組んで瞑想をしているとき、両者の脳波パターンは同じです。リラックスして落ち着いている時の波形が出ます。そのとき、短い雑音を聞かせます。雑音がした途端、両者とも同じように脳波が緊張状態のものに変化します。  相違はその後に出ます。高僧は音が止むと直ちに元の状態に戻ります。素人はなかなか戻りません。音を繰り返して聞かせると、さらに違いが出てきます。同じ雑音を何度も聞かせると、高僧は雑音がするたびに必ず波形が一瞬緊張状態になります。素人は、何度も雑音を聞かされると、脳波の変化が起こらなくなります。慣れてしまう、という状態ですね。  その実験において、高僧は無我の境地、無念無想であり、素人はそうではありません。高僧は無我、無念、無想に安定して留まり、かつ刺激に対して安定して反応する能力を持っています。それが、無我の境地、無念無想ということです。素人のほうは、不安定な無反応といったようなものでしかありません。  そのことを、お金に喩えてみます。貨幣経済が全くない社会に暮らしている人がいるとすると、その人は金銭欲はなく、お金に固執することはありません。知らないんだから、当然ですね。そういうのは、お金に対して無欲なのかと言われれば、そうではない、それ以前の問題だ、ということになります。  その人が、現代日本のような貨幣経済が発達し、お金が非常に便利で強力な道具である社会で暮らすようになったとします。大なり小なり、お金が欲しくなるでしょう。それで普通であって、悪いことではありませんが、金銭欲は生じています。  仮に、金銭欲は無いほうがいい、無欲のほうが素晴らしい、とその人が考えたとしてみます。そうなるためには、方法の一つとして元の貨幣経済が無い社会に戻るという選択肢があります。お金など役に立たない環境であれば、お金など欲しくはなりません。  もう一つとしては、高度な貨幣経済社会で暮らしつつ、お金に囚われないように自らを鍛錬するということがあります。お金があってもよいが、無くなってもよい。得ても失っても動じない。といった心境ですね。それなら、無欲になったと言えるでしょう。  この喩えを、先の座禅中の比較実験と絡めてみるなら、お金は雑念だと考えることができます。素人でも、短時間なら雑念を起こさず、そのため安定していることは可能です。誰でも、ときどきぼーっとしてみたりしますね。  しかし、雑念が起こると(雑音によって呼び起されたりする)、それを振り払うのは大変です。雑念を振り払おうという気持ちも雑念であったりするので、一度乱れると安定に戻すのは労力を要します。  高僧のほうはといえば、やはり雑念は起こるのです。ただ、雑念を放置することができるようになっています。雑念が起こっても、ただ眺めているだけ。雑念が起ころうが起こるまいが、気にしない。そういう修練を積み重ねてきているわけです。それが、無我の境地、無念無想の顕れの特徴の一つです。 P.S.  じゃあ、そういう無我の境地が素晴らしいのか、といえばそうではありません。大人しく足を組んで座っている時だけそうなれはしますが、瞑想を止めるといつもの自分です。かといって、瞑想状態のまま仕事や勉強、日常生活はできません。  無我の境地、無念無想をひたすら求めるようになると、罠にはまります。無我の境地は単なる副作用です。座禅中だから、座禅に集中する、そうすると無我の境地というものが現れてくるだけです。無我の境地が何かを与えてくれるような気がしたら、それは魔境と呼ばれるものの一つです。昂じると野狐禅と呼ばれる状況へと悪化します。  瞑想は精神作用に過不足がないようにする練習でしかありません。静かにしているときは、単にひたすら静かにしているということです。仕事でも勉強でもスポーツでも、やっていることに過不足なく取り組めている、あるいは取り組むようにしているなら、座禅など必要はありません。  ただ、何かしなければならないこと、したいことを行っているときよりは、何もしないときのほうが精神を過不足なく働かせる練習はやりやすいでしょうし、コツも掴みやすいでしょう。普段がどうもうまくいかない、やっていることに集中できない、つい余計なことを考えたりしたりしてしまう、といったことがあるなら、瞑想を試してみてもいいでしょうね。

tutankarmen
質問者

お礼

大変勉強になりました。 回答ありがとうございました。

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  • Glory_777
  • ベストアンサー率50% (105/208)
回答No.2

子供の頃は神秘的な話に思えましたが、 今考え直してみると、特別なことを言っているのではないのではないか? と思えます。 こうした神秘的に聞こえる伝聞と言うのは、 誰に向けて発せられたのかと言う情報が欠けています。 際立って優秀な人に助言したのか、 際立って優秀じゃない人に助言したのか? 助言した人が際立って優秀であると言う事実だけが注目されてしまい、 誰に向けて指導したのかと言う情報は欠けますよね。 相手も人間ですから、付き合う人は様々です。 そのとき、子供に向けて(大人なら誰でも分かる話を)するときもあるでしょう。 これを大人が自分に役立てようとすると、大変な謎になります。 仏教などを今になって再度見直しているのですが、 自分には必要の無い、子供向けの話だとして読み直すと、 筋が見えやすいです。 基本的には、今できる以上のことを望んでも、 自分が想像できる程度の成果しか得られないと言うことを述べていると思います。 人は興奮すると、 「やる気さえあれば、何とかなるはずだ」 と息巻いて余計なことを考えます。 他人から見ると、 「この程度で御の字」 と思える話でも、 自分の事ですと、 多くを望み、「御の字」すら確保することができない場合が多くあります。 これですと、本来手に入れる成果よりも減ってしまいますよね。 こうしたロスについて、それだけは防止しましょう、と言う話に思えます。 こう話してしまうと、内容自体は簡単なのですが、 仏教が優れているのは、 ほとんどの人が逃れることができないと知っていることです。 仏教の最初の教義は、禅だそうです。 中期、後期では、一般受けを狙って脚色をしています。 一つの例えですが、 こうして無我について語り合っている質問者さんと私ですが、 道ですれ違ったときは、 風采の上がらないそのへんのオッサン(失礼)と互いに思うかもしれません。 この人が(お互いに失礼)何か凄い事ができそうには思えませんし、 この人に何か自分の大切なもの、未来などを預けて、 期待するのは自殺行為だと思えます。 しかし、その人当人にとっては、 自分の未来を預けて期待しているわけです。 本人ですからね。 他人としてみたときに感じる物事の成否、成り行き、期待感は、 私たちの予想を裏切らず、大体においてその通りになります。 ところが、自分のときはそれを受け入れられず、 「何とか成るはずだ」 と息巻いてしまいますよね。 通勤のときそれこそ、息が詰まるほどの人とすれ違います。 このとき、誰もが互いに、 「可哀想に、この程度で御の字の人生だろうな」 と無意識に思い、興味などわきません。 人が自分をそうみている以上、 自分の未来はその程度なのじゃないでしょうか。 ただしこの中で、 「わたしは、この程度なので、この小さな楽しみは味わいつくそう」 「よく考えると、この程度でも私には希少だ。私程度は大事にしないと損をする」 として、身の丈にあったもの、 つまりは、自分で制御可能な、本当に自分のものを大切にし、 それを楽しんでいる人がいたら、 この人は健全だと思いますよね。 ところがそう考えていない場合はどうなるのでしょう? 「この程度は、今頑張れば後で幾らでも手に入る。  だから後にして、今は頑張るんだ」 とやってしまいますよね。 勿論、他人から見てもそうであるときは、そうしないと損をします。 しかし、他人から見て、 「(あなたは)頑張っても、そうなるように思えないんだよなあ」 と言うときもあります。 というか相当多いんじゃないでしょうか。 これは敢えて相手に告げません。そういうものでしょう。 こういう、 「自分にお預けをしている」 状態が長く続けば、どこかで我慢した部分を人に向けて吐き出したり、 次に確実に手に入るモノを得ようとする気力がうせます。 気力がうせた後は、自分を建て直すのに、時間がかかりますよね。 ご当人しか分からない経緯ですが、 最初(何と無かるはずと頑張ったとき) と 最後(何もやる気が無くなって人に迷惑をかける) は繋がっており、ここから脱出する契機がないのです。 他人から見て何とかならないときに、何とかしようとした気持ちと、 やる気がなくなって人に迷惑をかける成り行きは、一対一で繋がっています。 人にはトンでもない欠陥がありまして、 実際に何とかできるときには、やる気がうせており、 実際に何とか成らないときには、やる気を出してしまいます。 これが逆であるならば、 当たり前に持っている実力を当たり前に活用して、当たり前に生きられるはずです。 私たちは、やる気の誤動作と言う風土病を患って生まれるという事ですね。 これを回避するには、一度自分を捨てて、他人からの視点で期待してみることです。 「これは無謀、諭さないまずい」 とか思えたら、それが多分現実です。 仏教は面白く、その根底にある思想は合理的ですね。 お釈迦様に向かって、「宇宙の外はどうなっている?」と言う議論を吹っかけた人が いたそうです。 自分が死に掛かっているときに、自分が助かるより知りたかったら、知る必要がある と諭したそうです。 つまりは、人というのは、自分が使わないものでも、ありがたがる。 それに向けて労力を支払うことがある。 このモチベーションが働く理由は、 「万能を手に入れて、それ一つで何もかもを解決したい」 と言う物臭から生まれます。 周囲の人と比較を続け、これらに全て勝ち得るような優秀さを手に入れれば、 「人を超えて万能の鍵を得られるのではないか?」 と思うものです。 ところが、お釈迦様は、自分に必要なものを並べて見なさい。 すると、起こり得る必要性に対して、もう手にしていることがわかる。 何が起こるかわからないとして、不安になるからだ。 と諭しています。 お釈迦様の高弟で、悟りが遅れている人がいたそうです。 高弟の人達は、神通力(超能力)を使うことが出来たそうです。 あるとき、この人が超能力を使って宙に浮き、高いところにあるものを取ったとか。 これを諭していったのが、 そういう事をして何かを手に入れて得をしたと思うならば、 「大道芸をして糧を得たほうがいい」ということ。 人には出来ない不思議な力を持っていても、 それの活かしどころが大道芸でしかなく、 それを本当に望んでいるわけじゃないという事を気付かせたんですね。 ”我”というのは面白い性質がありまして、 他人と自分の違いをチェックする機能です。 他人と自分の違いを、他人より優れているとか、劣っているとか、 色んな印象に結び付けます。 しかし、自分に起こり得る未来と必要性を予測することはしません。 「とても大切なものを手に入れた」と言う印象があるのに、 それの使いどころとか、得られる成果は、 がっかりするものが多いかもしれませんよね。 人には何故だか、 こうした謝った期待感を抱かせる、そんな迷惑な機能が自分の中にあるのです。 こういう発想で考えて見ますと、 自分が羨ましいと思えることや、 こんな力があったらいいなと思うこと、 これらは手に入れられないことを前提に、その先を考えていないだけなのでは ないでしょうか? 手に入るものは、手に入れた後を考えますよね。 手に入らないと知っているから、手に入れた先を考えないで済むのです。 ところが手に入らないから、期待できると、逆をやってしまいます。 これに囚われれば、手に入らないものに執着し、苦しみます。 そして誰かが与えてくれたとしても、 その結果が、大道芸に類するものにしか使えなかったら、 これは最悪の罠でしょう。 こういう余計なことに時間を使ってしまったら、 小さくても有益な楽しみを味合えず、人生を無駄にしてしまいます。 充分に楽しめなかった人は不満足でしょうし、 それについて責任を取る人がいませんから、最後は誰かに八つ当たりをします。 この原因になっているのが、 万能を手に入れたいという物臭と将来を予測しない不安感。 希少なものにこそ価値がると言う思い込み。 自分が他人と違っている部分に期待する思い込み。 ですね。 これを我として捉えてみれば、 確かに我があると、自他にとってマイナスの要素が大きいですね。 将来を予測し、必要に対して準備をし、それで手に入るものを、 結果を持って、この程度で満足しないといけないんだ、と期待値を修正する。 こうしていれば、余計な損をしないでしょう。 物臭せずに、一つ一つをシンプルに解決すること。 必要性を予想をすること。 禅では、 こうした部分を智慧と読んで、こういう考え方が出来るように修行をしている ということだそうです。 こうして述べてしまえば、確かに簡単です。 冒頭述べましたとおり、無我の境地は、普通の人には必要ないでしょう。 文中に述べた罠に囚われて動けない人に必要な概念です。 しかし、 無我の境地を手に入れて、万能の力にならないか? と、希少性にロマンを見出す人が出てきます。 それを辞めなさいと言う話ですから、 これは本当に面白いことになってしまいます。 無我の境地を使うシーンを書き出してから、望むのが大事ですね。 以上、ご参考に成れば。

tutankarmen
質問者

お礼

勉強になりました。参考にさせて頂きます。 回答ありがとうございました。

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.1

エンドルフィンなどの脳内麻薬物質が分泌されて不安や恐怖を感じず何も心配しない(すなわち何も考える必要がない)状態ではないかという説を聞いたことがあります。 スポーツなどでランナーズハイという状態があります。 マラソン選手などが長時間走り続けると時折走る苦痛を和らげるために脳がエンドルフィンを過剰分泌して苦痛のない幸福感に包まれた精神状態になることがあるそうですが、座禅等を長時間おこなったときにも同じようなことが起こるようです。 また釈迦は「解脱すると理由のない幸福感に包まれる。理由がないがゆえにその幸福感はけして失われない」というような言葉を残しています。 ランナーズハイはマラソンを辞めれば終わってしまいますが、無念無想とは座禅や修行などによって常にエンドルフィンが一定量分泌されるような精神状態を手に入れることかもしれませんね。 ちなみに無念無想の境地は武術やスポーツなどでは少し違った解釈がされています。 すなわち「何も考えなくても肉体が最適な反応をして相手に勝利する、あるいは最高のパフォーマンスをする境地」というものです。 ボクシングや空手などの格闘技では試合中に意識がなくなり、気が付いたら相手が倒れていて自分が勝っていたという体験や自分の肉体が自分の意識を無視して勝手に動き出して相手の攻撃を全部かわして相手を殴り倒してしまった、というような体験をした選手はチャンピオンレベルになるとけっこういるようです。 合気道を創始した植芝盛平という武術家は中国で銃を持った強盗に襲われたときに強盗が銃を撃とうとするとそのタイミングが立体映像のごとく目に見えたので避けることができた、という体験談を語っています。 他にも第二次世界大戦の戦闘機のエースパイロットは実戦でなぜか幽体離脱したかのごとく自分が操縦している戦闘機を外側から眺めていて敵の攻撃が手に取るようにわかった、という体験をしたという話もあります。 こちらは集中力が最大限に発揮されてその武術やスポーツなどに思考能力の100%が費やされてる状態ではないかと思います。 戦闘機の件は頭の中で情報を分析して三次元的な敵味方の位置関係を非常に強くイメージした結果、そういうような外側からみているかのような感覚が産まれたのでしょうね。 こちらの場合はアドレナリンが最適な量で分泌されている状態ではないかと思います。 アドレナリンは適量出ると集中力が高まりますが過剰に出ると集中力が逆に低下してしまいますので出し過ぎてもいけないのですね。

tutankarmen
質問者

お礼

まさに仰るとおりのことを私も勉強しました。人間の脳内の機能は本当にすごいですよね。 無我の境地とはエンドルフィンまでも放出する何かということなのでしょうか。 回答ありがとうございました。

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    お釈迦さまの生きた2500年前にはインドに限らず世界中どこを見渡しても「人間」という概念がなかった。 「人」という言葉と「我」という言葉だけがあった。 現代では「人間」という言葉一つで自己を定義できるが、昔はそれだけでも哲学的に苦心しただろう。 そこでお釈迦様は無の信仰に基づいて、定義のあいまいだった我の概念について無我説を打ち出しながら、一方で自らを仏陀と名乗った。 無我説の今日の研究では、当時のインドで主流だったバラモン僧の研究でアートマンと定義された我、すなわち自己について、反論として自己はバラモンの考える我ではないと言ったということになっている。そして仏陀として自らを名乗り、無我を主張した。これらは宗教家同士の権力闘争に過ぎず、実のところアートマン説に対案を示さず、無であるという完全否定のみを主張する暴力的論争の持ち掛け方であり、一方で当の本人は仏陀であった。 この無我説は階級制度が過酷だった当時において、階級制度の否定という政治的意図をもった事柄であり、現代には階級制度の否定はおおむね、当時なかった人間という言葉をかざすことによって行われている。 お釈迦様の生きた当時はこの人間という概念が確立していなかったので、自己の存在の定義が階級制度の枠組みの中に当てはめられるアートマン説に反抗していたのだ。 それでは、仏陀が何者であったかというと、自己について人間という言葉に近い理想を持っていたのであろう。 仏という言葉を現代語訳すると、人間を意味する。 今回の質問は論理の主張と言うよりも、研究の成果をさらに先に薦めるための学問上の事柄で、何がしかのご意見やアイデアなりを募集しています。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • ウォーキングと歩く瞑想(禅)の融合

    ご高覧ありがとうございます。 一石二鳥、そんな理想的なことを考えて試行錯誤しつつ腹式呼吸を用いて 色々と試しながら歩いている日々が続いています。 1、2、3、4、5、6、7、8と足を運ぶと同時に息も断続的に8回、十分に口から吐き出し、 次は1、2、3、4と4回足を運びながら鼻からたっぷり大きく断続的に息を吸います。 これを交互にやりながら歩くと意識は完全に無に近くになり無念無想状態で歩けますが(勿論、安全なところで) ちょっとかなり息苦しいのが難点です。 しかし、これ以外のリズムや浅い呼吸&歩行でやると雑念が湧き今度は無になれません。 皆さんはウォーキングする時、どのような呼吸法で歩いていますか? 呼吸の仕方で新陳代謝も変わってきますよね。 疎かには出来ないと思います。 私と同じように呼吸を工夫しながら歩いている方もいるのではないかと思いお尋ねさせて頂きました。 参考までにお話をお伺いさせて頂けますと光栄です。 どうぞ宜しくお願い致します。