• 締切済み

無の境地に至る簡単な方法を教わりました、科学的?

私は「無の境地に至る簡単な方法」を教わりました。 それをホームページにまとめました。 Most Fate into Zero Mental State http://zero.coolverse.jp/ 簡単に言えば、感じた感覚を極限の速さで忘れるということを 繰り返すのです。最初は忘れるというのがネックになりました。 しかし2時間続けると、時間がゆっくりと感じて、あらゆる感覚 に対して敏感になり、思考は最高スピードで、まるで無敵にな ったような感覚に包まれました。それで無の境地に入った事が 分かりました。 その体験は6時間も、長い時間続き、いまでもその体験を呼び 出すとスイッチが入り、瞬間に無の境地に入ります。でも1時間 ほどすると消えてしまいます。 私はその師匠から、多くの人間が感じてる無の境地は幻想で あると言っていました。音が聞こえないのは単なる無視であると 何も感じないのは単なる無視であると、単なる無視を無の境地 と呼ぶ事が間違っていると断言しました。 その師匠は不思議な術を使い、自分を取り巻く、あらゆる悪を 取り除きました。いまも、その効果は続いていてアンラッキーは 存在しません。たとえば子供の頃から続いていた薬の効かない 幻聴は、 「I defend You !」 の言葉ととも一瞬で消し去りました。いまはどこへ行っても幻聴は ありません。師匠はあなたが死ぬまでの間、必ず護りきるから、 安心していなさいと言って消えました。 無の境地を科学的に解釈すると、感じた瞬間に忘れるという脳の 仕組みが完全に成された時に到達すると思います。たとえば仏教 の座禅で無の境地を目指すとき、それについて具体的には伝承さ れていません。感じた瞬間忘れるという訓練であるという前提で 座禅を考えると、後ろを通り過ぎた瞬間を忘れるという訓練という ことになります。 昔は自動車なんてありませんし、人や馬では練習にならないと 考えたのでしょうね。いまは自動車がたくさん走っています。 感じた瞬間忘れるという訓練がいつでも可能です。つまり座禅で 目指す無の境地の訓練がいつでも可能です。 武術の無の境地もまた、感じた瞬間忘れる事であるという前提を 付ければ、簡単に意味が分かります。相手の攻撃の瞬間を忘れ 自分の反撃だけに集中する。 しかし感じた瞬間忘れるという状態を2時間続けると、無の境地に 入るという科学的な根拠が分かりません。私はそのとき、ただ、 道に向かって、通り過ぎる車を感じて忘れるを繰り返していただけ です。特に集中していたわけでもなく、雑念も大変多い状況でした。 それでも無の境地に突入した科学的根拠が知りたい。 いわゆる運動してトランス状態に入るのとは、まったく別の体験で 呼吸の乱れは一切無く、テンションがハイになるのとも違います。 無の境地とは、感じた瞬間忘れ、それを極限の速さで行う事と 説いたサイトは、私のサイトを除いて一切無いのです。 忘れるといっても感覚を忘れるだけで記憶には残ります。記憶の 消去ではありません。 私の友達が3人協力して、この方法を試みて、全員がたやすく 無の境地へと至りました。約1秒以内の感じた瞬間忘れるという のは、やさしいけど、極限の速さから無の境地に至るまでが 大変だったという感想をもらいました。 私は脳科学の専門ではないので、感じた瞬間忘れるという動作が どういう脳の働きをして起きているのか、そして、なぜ、無の境地 に到達できるのか、不明な点が多いのです。 別にテンションがハイになっているわけではありません。そのテン ションとやらも、感じた瞬間に忘れているのです。気分は平静時の ままです。 それから私の師匠はこの世のものではないと信じています。ひょっ とすると未来の人間だと思っているぐらいです。未来の脳科学では 無の境地という状態を科学的に立証できており、その方法は、感覚 の極限の速さでの消去で達成可能であるということかもしれません。 この方法が正しければ勝負事やスポーツの精神論に大きな影響を 与えるかもしれません。実際、悪口を間近でほのめかされても、 まったく動揺しなかったのです。それは本当に不思議でした。 逆に無の境地を訓練するに不適当な場所とは、無音の空間であると いうことになります。またうるさすぎてもダメであると分かります。 感じた瞬間忘れる余裕がある空間がベストです。 私の師匠はたまたま、電車の高架橋のトンネルと隣接する幹線道路 を利用して、最も効率の良い方法を教えたのかもしれません。 話は逸れますが、私の師匠について宗教にとても詳しい友人に話すと トップクラスの守護霊が守護したと考えられると言いました。まず、そう いうことは滅多にない話ということです。信じられますか? 予備知識は以上で、質問があります。 感じた瞬間忘れるという一連の動作は脳の仕組みでどんな働きを するのでしょうか? それを極限に速くした場合、無の境地に達するという真実には どう科学的根拠があるのでしょうか? 以上です。

  • 科学
  • 回答数7
  • ありがとう数0

みんなの回答

  • myuki1232
  • ベストアンサー率57% (97/170)
回答No.7

現在の脳科学等では、あなたのおっしゃるような状態に至る過程について、何らかの説明をつけることは難しいと思います。 あなたの言うように、脳の仕組みについて分かっていることは少なく、どこかの大学の教授などに聞いてもあなたの期待するような答えを教えてくれる先生は、まず見つからないと思います。 ただ、あなたのやっているように、2時間も何も考えずにずっと一つのことに集中していると、そういう状態になるということは、他の方法でもよくあることではないでしょうか? 熟練の催眠術師などならば、もっと簡単に同様のことができるのではないかと想像します。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.6

 回答番号ANo.1です。 >感覚の一時的な消去です。いいですか、間違って解釈してはいけません。  例え一時的な消去であっても、感覚を消去している状態とは、ちょうど麻酔をかけたのと同様に、何も感じる事が出来ない状態の事を指します。  しかしながら、質問者様は、感覚を消去した状態でおられた間に、周囲で起きた事を記憶されておられると仰います。  既にANo.1で >感じる事が無いのであれば、そもそも記憶する事柄(データ)自体が存在していませんから、記憶に残っている筈はないと思います。 と述べました様に、感覚を消去して、何も感じる事が出来ない状態になられたのでしたら、その間に周囲で起きた事を記憶する事は出来ません。  つまり、「感覚を消去している」という事と「その間に起きた事を覚えている」という事は、互いに矛盾している事になります。  だからこそ、ANo.1において >、「感覚を忘れる事にすら成功していない」 と申し上げたのです。  或いはもしかしますと、質問者様は感覚する事は忘れずにしっかりと行っているものの、感じた事柄に反応する事なく、感じた事柄に関して考える事を意識から追い出す事により、一時的に感じた事を忘れる、という事をなさっておられるのかも知れません。  しかしながら、「感覚する事は忘れずにしっかりと行っているものの、感じた事柄に反応する事なく、感じた事柄に関して考える事を意識から追い出す事により、一時的に感じた事を忘れる」という説明は、「無視する」という事に関する詳細な説明そのものです。  もしも、質問者様がなさっている事が、「感覚する事は忘れずにしっかりと行っているものの、感じた事柄に反応する事なく、感じた事柄に関して考える事を意識から追い出す事により、一時的に感じた事を忘れる」という事なのであるとした場合には、質問者様は「周囲で起きている全ての事を無視する事により、無の境地に達した」という事になりますが、それは、 >単なる無視を無の境地と呼ぶ事が間違っている という話と矛盾します。  この様な矛盾が生じている原因は、(これまでのやり取りを拝見した処から考えて)おそらく質問者様が、言葉の意味を、世間一般で使われている意味とは異なった意味に考えておられるために、使う言葉を間違えしまい、その結果、御自身が行われた「無の境地」に至る方法の説明が、間違った説明となってしまっているからである様に思えます。  説明が間違っていたのでは、他の人間に「質問者様が無の境地に至る」際に、質問者様が何をやっておられるのかが、正しく伝わる筈もありません。  元々の説明に矛盾があるのですから、矛盾を抱えた情報に科学的な根拠がある筈もない訳で、存在していない「科学的根拠」を回答する事は、誰にも出来ません。  ですから、正しい「科学的根拠」をお求めになるのでしたら、まず最初に、世間一般で使われている意味で、言葉を使われた上で、御自身が行っておられる方法を、正確に、且つ矛盾なく、説明して戴く様御願いします。

  • negigi
  • ベストアンサー率60% (86/142)
回答No.5

やっぱり勘違いしてますね。 あなたがぶっちゃけたので私もぶっちゃけますが、「あなた、私の回答読んで(理解して)ないでしょ?」 「無の境地」はあなたが使ったから、便宜上、私も使ったまでで、別に「hogehoge」でも「tanasin」でも「あっちょんぶりけ」でもいいんですよ。要するに「無の境地」=「感じて忘れるという極限の速さの繰り返しを行う事によって達せられる感覚」について、主観でなく「客観的な(定量的、定性的な)データ」を示してくれないと、回答のしようがない、って言ってるんです。 別にあなたの質問に答えるにやぶさかではないんです。適当にそれっぽい回答を「でっちあげる」事は出来るんですよ。「α波が出てる」だとか、「脳を酷使することで、感覚をつかさどる神経が疲弊している」だとか、「特徴的な脳への刺激によって、脳内にエンドルフィンだとかドパミンだとかが分泌されている」とか。 上の内容で、「それが科学的根拠なんですね」って言われる前に、もう一度、端的に言っておきますね。 「知らんがな。データ出せ、データ」

oryaaaaa
質問者

補足

試してみればいいでしょう。ともかく私の友人らは全員2時間程度で、この境地にたやすく到達した。守護霊の存在が未来だというなら、未来の技術ということになる。だけど現代科学で既に証明されている状態かもしれない。 その線を聞いてるのに? なぜ非科学的根拠を振り回すのですか? 私にとって、その、あなたの関心事が大変不思議です。 それでは平行線のままですね。 だれか脳の研究をしている第一人者に直接、手紙を送って聞いてみます。 私は無知なので、「データ出せ」というぐらいなら一人ぐらい知っていると 思って聞いてみます。

  • foomufoomu
  • ベストアンサー率36% (1018/2761)
回答No.4

ここでの「無の境地」の定義がよく分かりませんが、禅やヨガの行者のおこなう「深い瞑想状態」と同じだとすると、 深い瞑想状態の人の脳波は、アルファ波とよばれる、睡眠時でよく見られる波形になります。睡眠では人は夢を見ている状態だと言われています。 また、瞑想状態では、全身の筋肉の緊張が解けたり、呼吸の酸素消費量が大きく減ったりします。 このへんの事実から、あなたの状態を類推できるのではないでしょうか。

oryaaaaa
質問者

補足

私が感じて忘れるを極限に繰り返すというのを友人らにやらせてみて、返ってきた答えが「無の境地」だと思うだったから、あえて「無の境地」と書いたのです。 私の状態は正常だがね。試すと4時間から6時間続く、この状態の科学的根拠を知りたいんだ。

  • chiha2525
  • ベストアンサー率10% (245/2384)
回答No.3

ちょいと違うかもしれませんが、”無”という言葉の概念が違うような気がします。 私の知っている”無”という概念は仏教に裏付されているそれで、 色即是空やら諸行無常やらといわれている無に関連したそれなのですが、 貴方の言われている”無”というのは、その教えていただいてる方個人が持つ 非常に個人的な概念による”無”というもののように思えます。 そのようなものから貴方が何を得られたかは別として、 そのようなものに万人に普遍的な何かを求めるのは難しいだろうと私は感じます。 もしまだ貴方が考える力をもっているならば、貴方が感じ得られた何かが、 万人に対しての 何か になるには、どういうものであるべきなのかを考えてみてください。

oryaaaaa
質問者

補足

それは簡単だ。集団ストーカーやテクノロジー犯罪といった未解決の完全犯罪を完璧に防御できる。それをされても、思考盗聴器を使えなくするので、「結果の分からない犯罪に犯罪者はいない」という考えでは、有効な手段。 それで脳のどういう仕組みが、このような境地を産むのかを科学的に教えて欲しいんだ。そうしたら、もっと簡単に、ある薬を飲めば解決するとかね。いわゆる幻覚に効く薬は友人らと協力して、全部試したけどダメだった。

  • negigi
  • ベストアンサー率60% (86/142)
回答No.2

まず、あなたのおっしゃる「無の境地」というのは「科学の言葉」ではありません。どういう現象なのか「定量的に、定性的に」わからないものに「科学的根拠を示せ」と言われても、できるわけないのはわかりますか?「あなたの言うことは確かにその通りでしょう。あなたの中ではね」ということです。私はやりませんよ。めんどくさいですから。 つまり、あなたの言う「無の境地」そものものについて、現時点で科学には説明する必然性がないのです。 どうしても科学的根拠を求めたいのなら、あなたがすることは一つです。どういう現象なのかの説明責任は、あなた(あるいはあなたの師匠)にあるのですから。 定量的に、定性的に。データは論理的に解釈。それが科学です。 無の境地に達した瞬間の脳波でもfMRIでも、とってみてはいかが?何か違いがあるなら、それはそれで面白いですし。

oryaaaaa
質問者

補足

ぶっちゃけ無の境地の話なんて、どうでもいいんです。 感じて忘れるという極限の速さの繰り返しを行う事によって達せられる感覚は脳の科学ではどういう意味を持つのか知りたいし、どういう脳内物質が関与してそのような錯覚を見せるのか知りたいのです。 質問に、まったく答えてないので、補足させていただきます。 科学的根拠についての回答を重ねてお願いします。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.1

 私には、正しい無の境地に関しては、殆ど何も知りません。  只、 >音が聞こえないのは単なる無視であると何も感じないのは単なる無視であると、単なる無視を無の境地と呼ぶ事が間違っている と仰いますが、「無の境地」とは、一般的な意味では「無我の境地」の事を指すと思います。  「我が無い」即ち「自我が無い」状態という事は、認識する事もまた無いという事になります。  無視とは、認識していても、その事に反応しない事なのですから、認識していない(気付いていない)状態の事を、「単なる無視」と呼ぶのは間違っていると思います。  むしろ、「感じた瞬間忘れる」という事は、「感じている」即ち「認識はしている」という事なのですから、「認識しているにも関わらず、反応せずに忘れ去る」という事の方が、「単なる無視」に相当する行為だと思います。  それから、 >雑念も大変多い状況でした。 という事は、「あれこれと考えている自我」が存在しているという事ですから、「無我の境地」からは程遠い状態の様に思えます。  個人的には、それは「無の境地」等ではない、何かもっと別の状態である様な気がします。  それに、 >忘れるといっても感覚を忘れるだけで記憶には残ります。記憶の消去ではありません。 と仰っておられますが、 >時間がゆっくりと感じて、あらゆる感覚に対して敏感になり、思考は最高スピードで、まるで無敵になったような感覚に包まれました。それで無の境地に入った事が分かりました。 >通り過ぎる車を感じて忘れるを繰り返していただけです。 と言う以上、明らかに感覚は残っている事になり、「感覚を忘れる」事にすら成功していない、という事になると思います。  感覚する事を忘れているのでしたら、車が通り過ぎた事を感じる事もないと思いますし、感じる事が無いのであれば、そもそも記憶する事柄(データ)自体が存在していませんから、記憶に残っている筈はないと思います。  そして、「感覚を忘れる事にすら成功していない」にも関わらず、「無の境地に達した」という事は、「感じた感覚を極限の速さで忘れるということを繰り返す事で、無の境地に至る」という方法が間違っているのか、「無の境地に達した」と感じた事が間違いだった、のどちらかだと思います。

oryaaaaa
質問者

補足

私の日本語の文章がおかしくて申し訳ありません。 感覚の一時的な消去です。いいですか、間違って解釈してはいけません。 その感覚は覚えているものであり、書けて当たり前なのです。あらゆる勝負事に真剣になってるときは、手順など覚えていないが、終わってみると回想できる。それと同じ事です。 あれこれ考えていても、考える事と、感じるとは別の行動です。あれこれ考えていても、優先的に感じて忘れるを強制して、それも極限の速さで行う事に意味があります。 しかし感じて忘れるを極端な速さで繰り返すと無の境地に至る。 質問に、まったく答えてないので、補足させていただきます。 科学的根拠についての回答を重ねてお願いします。

関連するQ&A

  • 無の境地に達する方法について教えてください。

    無の境地に達する方法について教えてください。 以前私がここでランニングマシーンで1時間走った時に無の境地に到達したとお話をしたら それは無ではなくてランニングハイだとかもうそれはムチャクチャな事を言われてもう 死にそうなくらいボロボロになり傷つきました。 そこで再度質問ですが 私はその掲示板質問事件以来無の境地に至る方法を考えました。 人間には様々な欲があります。でもそれはどんなに願っても実行してもかなう事がほとんど無い 事が多いと思うとります。 ですから、欲をもたないようにすれば無の境地に至るのではと 思いました。 欲望や野望を無くす方法や考え方をご存知でしたら教えていただけないでしょうか? よろしくお願いします。

  • 「無の境地」になる方法を教えてください。

    「無の境地」になる方法を教えてください。 今までの経験では瞑想し正座をしても「無の境地」にはなれません。 いろんな事を考えてしまいます。 次はどんなご飯を食べようかとか次のスケジュールは どうしようかとか または空想をして数億円が手に入ったら 不動産や車を買おうかとか等々が想いうかんでとても 無にはなれません。 私は一般大衆の人が雑念を払い心穏やかな「無の境地」になるのは、そもそも無料だと思うとります。 しかしついに今日私は発見をしました。 アスレチッククラブでライフフレックスと言うルームランナー機で60分間で7キロ走りました。 走っている間、私が追い求めていた邪念から解き放たれた「無」になれたよう思いました。 一般大衆の凡人が無の境地になるには、やはりランニングが一番いいのでしょうか? それとも他になにか効果的な方法はあるのでしょうか?

  • 集中状態(何も頭の中に浮かんでこない無の境地)は、どうすればなれるのでしょうか?

    集中状態(何も頭の中に浮かんでこない無の境地)になりたく、 色々な事を試していますが、必ず雑念があります。 とくに、呼吸を落着かせて目をつぶって集中しようとすると、 お気にいりの音楽が、なんとなく頭の中で流れています。 そもそも、「無の状態」とは、どんな状態なのでしょうか? 何も考えない状態なんて不可能であり、 少し音楽が頭の中でながれても、問題ないのでしょうか? (仮に「無の状態」になったとしても、その状態であると認識 しようとした時点で、「無の状態」ではない、ということになりませんかね?) もし、お勧めの集中力を高める方法などがありましたら、教えて下さい。

  • 佛教の「無」と無神論者の「無」は違うのでしょうか?

     佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、  私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。  その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。  「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、  「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、  私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、  そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている   「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という  世界だと思うのですが?」  説明が悪く申し訳ありません?  1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか?  (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち   の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います)  2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか?    葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ  うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう   か?

  • コミュ力を向上させるための科学的根拠がある方法は?

    私は中学生ですが、ふとしたきっかけで就活について調べました。すると、多くの企業がコミュ力を重視しているらしいということがわかりました。 しかし、そもそも「コミュ力」とはどういった能力のことを言うのでしょうか。また、そのコミュ力を鍛える方法はありますか。 できれば、コミュ力の定義とコミュ力と関連する脳の部位、訓練方法についての科学的根拠も併せて教えていただけたら幸いです。 (ソースも含めてくれると嬉しいです。)

  • 瞑想や座禅のときは無になるのでしょうか?

    瞑想や座禅の際に何を考えればよいのか困ってます。 ヴィッパサナーでは浮かんでくるものごとにサティをいれるとか、 座禅は無になり大自然と一体化するとか、 リラックスしてα波だすとか、 瞑想も目を閉じで部屋の中のものを完全に思い出すとか リラックスして整った体と呼吸を楽しむとか、 対象物と一体化するとか、 なんか読む本ごとにいろいろあって迷ってしまいます。 自分にあった方法を探すのが良いのでしょうが、 はしから試してっても結構な時間を取ってしまいます。 どなたか良いアドバイスをください。

  • 意識的にぼーっとする方法

    こんにちは。 ストレス緩和の方法の一つに「ぼーっとする」というものがあるようですが… この「ぼーっとする」とはどういった感覚なのでしょうか? 「ぼーっとする」とは「放心する」「なんにも考えていない様子」のようですが、 眠っている時間以外は、 常に何か考えているように思えてしまいます。 また、意識的に「ぼーっとする」方法やアイディアがあれば教えて下さい。 (座禅など日常生活から離れる感覚は知っていますが、 「ぼーっとしている」事には当てはまらない気がしています) へんてこな質問ですが…よろしくお願いします。

  • 無の境地とは、死と向き合う生き様である。

    私はおびえる君達に深遠の恐怖を授ける者。 君達は、人である事を忘れてまでも、おびえることしかできない。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達の好きそうな私からの人生訓だよ。 君達はすぐに死を予感する臆病者だ。 すぐに死活問題と言ってわめき散らすね。 簡単に死を口にして、本気で死ぬんじゃないかと不安に陥る。 死活問題ってのは生活の危機の事だよね。 自営で経営している会社がつぶれて、だからと言って死ぬかい? 破産法が整備されていて、借金取りは命まで取らないだろ。 勤めている会社がつぶれて、だからと言って死ぬかい。 気楽なことだろ、新しく就職先を探すだけでいい。 これらを釈迦の言う無常として、悲しむようだと落第だ。 世の中は、常に変化している。 それは良い事なんだ。 つまり、勤め先の破たんなりなんなりがあろうとも、前向きであるならば、そうした生活の変化は、死の案内ではなく、人生の前向きな転機となる。 そうした生きる意思が本人にあればだけどね。 私が高校を卒業して家業のおもちゃ屋を手伝い始めたころ、およそ25年前だけどもね、新潟県には調査の結果150件ほどのおもちゃ屋があり、駄菓子屋や兼業店は正確な調査の対象外だが、ほぼ同数、合計300件あった。 その中で、現在を営業しているのは、業種転換しても家業を継続している店の総数で10件以下、昔ながらのおもちゃ屋は、私の家で2店営業しているのを含めて、合計で5~6件かな。 時代が変わって大型店のおもちゃ売り場に主流は変わっている。 この大きな変化で、君たちなら死活問題を感じただろう。 そのように死を予感したら、考えることは死を避ける方法だけだ。 ところが、死を予感しない私は、困難でも生きることだけ考えた。 死を避けようとする事と、生きようとすることは違うのだよ。 生きようとする知恵の働いた私の店は現在も営業している。 死から逃げようとした連中は、実際にはまさか死んだりしなかっただろう。 そうした連中は、幻に翻弄され、無駄な事を考えていたから、幻に敗北したのだ。 この過程で、私が編み出した勝利の法則を教えよう。 競争と一言で言うが、競う事と争う事は違う。 競う事は、小学生のかけっこの様な事で、おたがいの長所を伸ばし合う事だ。 勝者は確定するが、敗者は一人もいない。 本気で競い抜く事が出来れば善人勝者だ。 争う事は、闘争なり戦争という言葉があるね。 足を引っ張り合う事だ。 殺し合いに象徴され、全員敗者だ。 死におびえる者は、争わざる得なかったからこそ、おもちゃ業界から退場したのだよ 競う姿勢で、自己を磨いていたら、気が付いたら争う相手はいなくなった。 これが常に生きる事のみを考えた結果だ。 この果実は、昔ながらの商店街の古びたおもちゃ屋で子供相手に楽しむことにある。 世の中では、金持ちになることが成功だと言うがね、誇り高き、はた玩具店は、そんなことよりも、世の中の価値観より、自分だけの価値観の基づいて、子供たちの笑顔のために働く事こそ、自分自身の人生だと考える。 この心が、私が生きることの実践だ。 君達は金だけが頼りの様だね。 世の中から尊敬されそうな規範を望み、自らの望みが無い。 貧乏しても、子供達を幸福にすることは私だけの誇りだ。 君達は、世の中から尊敬されないと自分自身を誇れない、金で売り買いされる誇りしか持ち合わせていない。 このように自分らしく生きようとしないから、誰かから助けてもらわないと、死活問題という死の予感がよぎるのだ。 助け合っているという美辞麗句に隠れ、実は自分さえ良ければいいから、自らの意思で生きようとする事が出来ない。 私のこのような人生訓で言いたいのはね、自ら生きようとする自覚だ。 ジジイの柔らかい奇麗事、「私は私である」これは私自身においては、いかなる困難もものともしない「俺は俺だー」だよ。 そうしたことが君達には無く、泣きごとの様な奇麗事で、お互いを憐れんでいる。 ここらが、無の境地と係る話だよ。 本題だ。 死の予感をものともせず、生きる事を全うしている私は、君達と違って死から逃れようとしなかった。 死活問題なんて笑える幻だと思っていた。 そうして生きようとする意思が、そのまま死と向き合うことだった。 これは神話性のある、死の悟りという経験談で表現することができる。 死から逃げなかった私に対して、死の幻をもたらしていた悪魔が和解を申し出た。 それは、セレビィが2001年7月に映画上映という形でポケモンデビューしたことをきっかけに。2001年8月にもたらされた私だけの滅びの宴だ。 死よ阻もうとするからこそ悪魔を名乗った神の姿からの和解を受け入れ愛を結んだ。 そこで私は、悪魔が隠し続けた死を理解した。 観念上で、ファイト一発死の儀式をしたんだ。 これがそのまま無の悟りである。 それが世界に自らを開放することだった。 この解放が、自らを滅することだと言われていた。 イデアなり、涅槃と言われた観念世界を、君達は死に染めた。 その死と邂逅することが、死の儀式であり、死なんてとんでもない、それでこそ生きる事を実感し、自らが神と共に永遠である事を自覚するのだ。 観念世界に心眼を開く事が目覚めた者なのだ。 君達にとってはそれは死を象徴することだ。 そのように逃げている。 私に言わせると、死活問題として引用した、死の幻は、悪魔の演出ではない。 君達の恐怖が見せる幻だ。 悪魔は受け入れてくれるとも、何故なら生命をもたらす神の姿の一つだから。 結論は死活問題なんてあほらしいと言う事だ。 さて質問趣旨だが、私は西洋的神学と結びついた西洋から輸入された哲学とは別に、「実在する妖精の捕まえ方」という、一人ひとりに寄り添う神の姿、精霊崇拝の延長を哲学的に完成させる研究をしている。人と人がお互いに人間であると自覚するためには、すなわち社会を形成するためには、神の由来を正してそこから知性の根源を探る手法が採られていて、人と人が和解する哲学を標榜としている。 そんな独自研究の論説であり、それに対するご意見募集だ。 学問のカテゴリーなんでね、

  • 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのでは?

    意識(心)は脳そのものではないでしょうか? 意識(心)が脳ならばやはり死後は無になるのではないでしょうか? 子供の頃は意識(心)は心臓なのではないかと思っている時期がありました。 しかし、つい最近、心臓を人工心臓に替えて一年程過ごし、その後ドナーの心臓を移植した男性のニュースがありました。 https://www.cnn.co.jp/amp/article/35084162.html このニュースを受けて自分は意識(心)は心臓ではないのだなと思いました。 そこでやはり意識(心)は脳にあるのではないかと考えが至りました。 自分の主張は以下です。 ❶全身麻酔の経験から、意識が麻酔という物質的作用によってオン・オフを切り替えることが出来てしまうこと。 もし意識(心)が物質的存在でないなら物質世界側の麻酔の作用の影響を受ける筈がないと考えられる ↓ 「麻酔が効くとどうして意識がなくなるの?」 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00197.html ❷意識(心)が五感を感じるということ。これは身体から受け取る五感の物理的情報を意識(心)が受けとっているからではないか。電気信号として脳が受け取るから五感を認識することが私達は出来ている。つまり、意識(心)は脳、脳ということは物理的存在であると考えられる筈です。 ❸意識(心)が脳又は脳の活動であれば、私が死んだ後は脳は機能終了し崩壊するので私の意識(心)の存在は消え去ることになると思います。 つまり意識(心)が消え去るという事は何も何処にも存在しないので無だということになります。 以上の考え方に何か科学的矛盾はあるでしょうか? 自惚れている訳ではないのですが、今知られている程度の科学的真理だけでも死んだら無になるのだろうと結論する気がします。

  • 死んだ後の運命

    人間の死後については色々な説があります。でも、どの説にも賛成する人がいます。しかし、反対に完全否定する人もいます。なので、現在は「死後」にどうなるのかは解明されていません。私は死後、全く無になると言う考えは1番現実的で科学的な仮説のような気がしますが、それでは説明のつかない現象が沢山あります。その内の何割かが嘘や迷信だとしても全てがそうとは考えにくいです。そして、偶然だという事も考えにくいです。次に、「死後の世界(天国など)」があると言う説は科学的には信用しにくいですが、「死後の世界」があることによって証明できる現象もあります。「生まれ変わり」という説もありますが、これも同じだと思います。「魂」がある、とよく言われています。たしかに、「魂」=「脳」であるという考えもあります。でも、「脳」だけでは説明ができない物があります。この決定的な答えは死んだ人にしか判らないと思います。 皆さんはどう思いますか?皆さんなりの証明を聞かせてください。できれば、当てずっぽや理想ではなく何らかの根拠を付けて答えてください。 死んだら全てが「無」になるというのは中々考えにくいような気がします。 天国で先に死んだ家族、親戚、友だちには会えるのでしょうか?「ご臨終」となった瞬間に全てが「無」になるのでしょうか?