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雑念を振り払い、無の境地になるには?

このカテゴリーでよいかどうかわかりませんが、よろしくお願いします。 雑念を振り払い、無の境地(ここまではならなくてもいいけど)に近い状態になるには、どうすればいいですか? お寺などに修業にいけばいいのかもしれませんが、時間がないので、家でできる修業はないですか?また、お寺の修業などのようなものですか? ご存知の方、いらっしゃいましたら、よろしくお願い致します。

noname#15413
noname#15413

質問者が選んだベストアンサー

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  • timeup
  • ベストアンサー率30% (3827/12654)
回答No.4

呼吸法が良いでしょう。 色色な方法が有りますが、苦しくない程度に長く吸ったり吐いたりして、自分がどの程度なら楽に呼吸ができるかを観察してください。 立っても、座ってでも良いです。横になって行なう方法も有りますが、寝てしまうのであまりお勧めできません。 呼吸は、吸うのと吐くのを同じ長さで行なうのが基本です。此の呼吸に意識を向けるのです。 此の当たりから始めてください。 これが苦しいなら、呼吸に使う筋肉が硬くなっている可能性が高いので、 気功とか太極拳の基礎の<站椿功>がお勧めです。

noname#15413
質問者

お礼

さっそく実行してみました。これは、とってもいいですね!素晴らしいです!何だか、気持ちが落ち着いてきます。本当にありがとうございました。さすが、専門家ですね。

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noname#14262
noname#14262
回答No.5

みなさんが素晴らしい回答をしていますが私もタイトルと同じく無の状態になりたい時があります。何かに集中するというコトも賛成です。 結局、無の状態は『何も考えないコト』ではなく 精神を落ち着かせるコトだと思います・・・ 自分の好きなコトをしている時間は 精神が落ち着くので無になります。 それは人それぞれ好きなコトが違うので色々とあるでしょうね。 あとは香りから精神が落ち着く場合もあります。 部屋の中でというコトなので色々な種類の紅茶を飲んでみても良いのでは? ハーブの香りは精神がリラックスします。 それとお風呂タイムですね。心臓より下くらいまでのお湯の中でゆっくり入っていると私は無に近い状態になります。

noname#15413
質問者

お礼

無の状態は、何も考えないことではなく、リラックスすることなのですね。アドバイスありがとうございます。

  • NDR114
  • ベストアンサー率23% (33/138)
回答No.3

なにか打ち込めることを見つけ出して、それを頑張れば良いのではないでしょうか? スポーツ、趣味、仕事、何でもいいと思います。 要するに、何かに集中するということだと思いますよ。 健康を考えるとスポーツが一番いいように思いますね。

noname#15413
質問者

お礼

そうですね。何かに集中してみます。ありがとうございました。

  • mappy0213
  • ベストアンサー率26% (1706/6353)
回答No.2

まず どうすれば良いかって考えること自体が雑念だと思いますよ 少し違いますがなにかに集中すれば周りの音が聞こえなくなるときってないですかね?? たとえば本に集中してて気がついたら あらこんな時間!って時とか その瞬間って雑念が無い状態なんですよ! 修行というのではないですが リラックス状態に置くことが一番ですねぇ なにも考えないってのはまず無理だと思いますので なにか一つを考える あと家では 外の音やチャイム 電話等邪魔は多いですよ

noname#15413
質問者

お礼

確かに、どうすればよいか考えること自体が雑念ですよね。納得!何かひとつのことに集中してみます。ありがとうございました。

  • gon0816
  • ベストアンサー率10% (32/309)
回答No.1

般若心経を音読するといいそうですよ。

noname#15413
質問者

お礼

さっそく音読してみました。なかなかいい感じですね。雑念が振り払われるって感じです。ありがとうございました。

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  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

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