• ベストアンサー

「知らぬが仏」の正当性

compequalの回答

  • ベストアンサー
  • compequal
  • ベストアンサー率42% (61/145)
回答No.9

質問を整理することからはじめます 質問タイトルから類推するに <「知らぬが仏」には正当性があると言えるのか、あるいは言えないのか。その根拠は何か> ということだと考えると、基本的には次のように言えます。 1.人は、知らない情報があると知ったとき、それを知りたいと思う。 2.情報には、人を不幸にする情報と、幸福にする情報と、そのどちらでもないものがある。 3.人はその情報が不幸をもたらすか、幸福をもたらすか、そのどちらでもないかについて、知ることはできない。 3.1. 知った結果が不幸な場合、「知らぬが仏」という諺には一定の妥当性がある。 3.2. 知った結果が幸福な場合、またはどちらでもない場合、「知らぬが仏」という諺には妥当性がない。 この上で、おそらく3.1のような形での妥当性/正当性がある、という言い方はどこまで真にそう言いえるのか。そのような問いかけがgeorge-mさんの問いだと考えました。  今までの議論だと、ginga3104さんの回答が面白いです。「選択肢が無い方が可哀想」という発想をすれば、確かに3.1の議論に対する反論になります。そして、これは自由意志とか、選択前提とかそういう問題圏になるでしょう。  次のような対立項を立てられそうです。 A.選択肢を知った上で、自由意志があり、その上で選び取られた状態。これにこそ幸せを議論する価値はある。 ¬A.選択肢を知らず、自由意志がなく、選び取れない状態においても。幸せを価値を議論することはできる。  Aと、¬Aのいずれが正しいのかは、状況によって色々な議論をすることはできると思いますが、  800字以内にまとまるように、無難なお答えするとなると、  Aと、¬Aのどちらが絶対的に正しいのかを言いうることは難しい。  実際には人間が自分に関わる全てを知ることは不可能なことなので、Aは無意味。¬Aのような状況が圧倒的に正しいと言いうるかどうかも微妙。当人が「私は幸せです」という言明はおそらくできる。その意味で、¬Aは正しい。しかし、第三者から「あなたは私よりも不幸せです」と言われる可能性は常に存在する。なので¬Aの観点からのみの議論は常に他者から、覆される危険を帯びている。その意味で、¬Aの妥当性は常に、制限付きになる。  こんなところで。

noname#41852
質問者

お礼

詳しいご解説、ありがとうございます。 質問事態も混乱しているようでした。知らぬが仏は妥当性があってそのことをもっと噛み砕きたいと思ったということです。 整理していただいたとおりで、妥当だと思います。2つの場合があり、ひとつの「仏」のほうは脆弱性があり、まさにそのためにこの問題定義をした感じです。もうひとつの意思が関与するほうは、本当の幸せに近づけるが、困難も秘めているということですね。

関連するQ&A

  • 欠損家庭の子どもは両親のいる子どもより不幸が多い?

    両親のうち片方がいない欠損家庭の子どもは、両親がそろっている家庭の子どもより不幸な場合が多いでしょうか。 もし不幸であることが多いのならば、その理由を出来るだけ多く教えて下さい。 あっ、断っておきますが、「欠損家庭でも幸福な子どもはいる」という例をあげたりするのは止めて下さい。欠損家庭で幸福な子どもよりも欠損家庭で不幸な子どもの方が多いかどうかを知りたいのです。そしてその理由も出来るだけ多く知りたいのです。

  • 幸福な人ばかりvs.不幸な人ばかりvs.現実(人の不幸をだしに)

    人の不幸は密の味といいますが、言いえていると思います。 一歩考えを進めて、人類究極の総体的な幸福状態は、例外なく、全員が幸福であると言うことだと思います。そうすると、蜜の味はなくなりますが、そんなことは、大きな充実した幸福が全員に与えられ享受され維持されていると言うことの前にはどうでもいいことです。この状態が最もすばらしいでしょう? では、現実の、幸福な人もいれば不幸な人もいるというこの現状(密の味が可能)と、全員不幸でこれまた蜜の味がないという世界とは、どっちか総体的あるいは個々にとってよいのでしょうか?とりあえず思いつくのは、全員が不幸だと言う客観的にも主観的にも確証があるので(つまりどう考えても、どちらを向いても幸福なやつまともな人生のやつがいない)、自分への惨めさや嫉妬心に悩むと言うことは無くなります。しかし、世の中には何の幸福もない。それよりも、現状のうらみつらみ妬みがある世界のほうがいいのでしょうか?

  • 最近の高校生は自分が不幸だ!不幸だ!と言います。その反面世界では貧しく

    最近の高校生は自分が不幸だ!不幸だ!と言います。その反面世界では貧しくても幸福だという国もあります。その指標のしかたとしてGNH(国民総幸福量)というものがあります。これの代表国としてブータンが取り上げられます。ブータンは具体的にどのような取組みをしているのですか?また、今の日本の高校生がブータンに習うべき点はなんでしょうか?

  • 人の不幸で幸福を感じる女性とそうではない女性

    相手が男であろうと女であろうと、 他人の不幸を見て優越感と幸福感を覚える女性がいます。 他人の不幸を見て自分の幸福を感じる(幸福感が相対的)か、 他人の不幸と自分の幸福感があまり関係ない(幸福感が絶対的)かは、 個人差があるように思います。 しかし「育ち」だけでは説明がつかない気がします。 (遺伝による)先天的な脳の構造差があるようにも見えます。 皆様はどう思いますか?体験を基に教えてください。 (回答の際には性別と年代を教えてください。) ※若い頃は他人の不幸を喜んでも、 歳を取るとそうではなくなる女性もいる。 すると、これは優秀な子孫を残すための本能と関係あるのか。 他人の不幸を喜ぶ陰険なマイナス思考(悪人思考)は、 優秀なオスを見抜くための本能の名残なのか。 善悪の基準は人間が決めたものに過ぎず、 自然動物界では意味をなさないと言われる。 現実が今も善人ばかりではないということは、 他人の不幸を喜ぶ「悪」も自身の子孫繁栄に必要で、 善人が子孫繁栄に不利だった可能性もある。 幸福の感じ方に遺伝的情報が深く関連するならば、 些細な幸福を感じやすい男性の子を産むことは、 場合によって自身の子孫繁栄に不利になるのだろうか? お人好しの男性を友人として重宝しながら、 異性として拒絶する女性がいるのは、 女性の本能がそうさせているのだろうか? 詳しい方教えてください。

  • 人が信じられない…

    人間が信じられません。子供の時から人間関係に恵まれず、大学では私の不幸を笑うような人間ばかりでした。(実験などで毎日嫌でも顔を合わせます) だから人間はもともと悪だと思っています。他人が自分より少しでも弱かったり不幸だったりすると安心する… もともと自分より幸福な人間が不幸になると、助けるふりをしてざまあみろと思う。親戚もそんな人間達です。 自分がちょっと失敗すると、周りの人間にざまあみろと思っていると考え、相談しません。 私には味方がいないんです。 期待すれば裏切られる…裏切られすぎて惨めで死にたいです。 みなさんはちゃんと人を信じられているのでしょうか…?

  • 日本は後進国という意見になぜ反論あるのでしょうか?

    正社員の給料の中央値は350万円だそうです。 平均値は403万円ですが、中央値である350万とは過半数の正社員の給料は350万以下という意味です。 実質国民負担率(令和4年、政府公表の実績見込み)61.1%を引くと、136万円になります。 1ドル150円(本来は両替スプレッドがあり米ドルに換金すると155円くらいだけれど、150円で計算)で計算すると、9千ドル。 後進国の水準である1万ドル以下に該当します。 日本の正社員は3600万人しかいません(国民の約3割)。残りは非正規や無職です。 つまり大半の正社員は後進国の基準に該当していて、(正社員以外の7割の国民は)正社員より所得の少ない人が多いと推測します。 日本人の大半の実質所得は後進国の水準に該当します。 何か反論はあるのでしょうか? 〔経済大国と、後進国は両方ありえるようです。 中国は自ら発展途上国と言っていますが経済大国で、購買力平価ではアメリカをしのいで世界1位です。 日本の場合は経済後退してるので後進国となります。〕

  • トルストイの「アンナカレーニナ」のあなたの解釈は?

    すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。 という冒頭の言葉、あなたはどう解釈しますか? そして、どう自分の人生に生かそうと思いますか? ぼくのお気に入りの解釈はマンガであった「しあわせなヤツはつまらん。その人の不幸だった境遇にこそその人らしさが出る」です。 こう生かしたという実践までなさった方がいれば、なおお聞きしたいです。 はじめて聞いたという方もとくに正解はないので、気分でお答えくださいませ。

  • 養子(?)になりたい

    孤独な暮らしをしています。家庭のぬくもりがほしくて死にそうになります。 そこで、家庭を得るにはどうしたらいいかという話です。 私の場合、通常の結婚とかですと、妻子に親が与えるような愛情を求めてしまうでしょう。しおれは、双方に不幸であるのは分かっていますから、養子にいきたい(?)ということになります。 成人していますが、なんとかならないものでしょうか。 厳密な養子でなくてもいいのです。ホームステイのようなものでも。親のぬくもりが得られれば…。 なにか、こういう相談を持っていける機関はないでしょうか。

  • 自分自身の不幸がおもしろくて困ります

    閲覧ありがとうございます。 タイトル通り、自分の身に起こる不幸がおもしろいです。 自分自身をどこかで客観視しているためか、目標を達成できなかったときや、女性にふられたときなど、あらゆる不幸せな状況を面白く感じます。 「他人の不幸は蜜の味」の言葉にもあるとおり、自分のことでありながら他人事のように感じてしまいます。 友人に相談したところ「おかしい」と言われ、精神科への通院を勧められました。 しかし、自分には異常性がわかりません。 もしも異常であり、幸福を味わえないのであれば治したいと思っています。 さらにいえば、この性格のせいで、不幸なのに幸せといったバカバカしい状態が続き、本当に幸福であるということから遠ざかってます。 悲観的になることもしばしばありますが、心のどこかでは「どうにかなる」という根拠のない自信と、苦しむ自分への陶酔のようなものがあります。 決して悲劇の主人公というような陶酔ではありません。 一個人である自分自身が苦しみもがき、必死で藁をつかもうとあがく醜い姿への陶酔です。 どなたに話しても共感を貰ったことがありません。 やはり実際に精神科に通院したほうがいいのでしょうか? また、この性格の矯正方法を教えてください。 回答よろしくお願いします。

  • 病む思考?

     親戚のお子さん(といっても30歳近い)の事なんですがいつも意味不明な事を口にしているそうです。皆さんの意見も聞きたいです。自分にとっての絶対の幸福とは「生まれて来なかったこと」と・・・しかしもう自分は一身の呪いと不幸を持ち、生まれてしまったと・・・・俺が最後にできるのは、不幸な野良犬(子供)の増殖を抑え、一生独りを貫き通し、無縁墓地に入るのが最小限に災難を抑えることだと訴えているそうです。蜀悪の弱肉強食の世の中に生きることは苦しみに苦しみを重ねて不幸を得るだけでしかないのに強制執行で生かされてしまっている。自殺も何度も試みたができないと言っているらしいです。その人は今のところ普通に社会生活を営めていますが・・・何度も何度も聞かされていると・・・引っ張られます。そんなものなんですかね。そのような話をしょっちゅう聞かされていると、自分もそうなのかなと思ってしまう今日この頃です。確かに自分も親や先祖に対して感謝をする気にはなれない自分でもありますが・・・