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邪馬台国が畿内にあった場合と九州にあった場合の違いについて。

こんにちは。 私は高校で日本史をやっていて、今度の水曜に試験があるのですが、 その試験に先生が「邪馬台国が畿内にあった場合と九州にあった場合の国家体制の成立の違いについて書かせる」と言いました。これってどういうことなんでしょうか?違いとはなんですか?? 回答お待ちしてます。

  • 歴史
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  • ringouri
  • ベストアンサー率37% (76/201)
回答No.2

専門家でも困るような こんな問題を 本当に高校日本史の試験に出すつもりなのでしょうか?恐ろしい先生ですね。 教科書か教室で使っている参考資料に載っているキーワードをベースに違いをまとめるのが無難でしょう。畿内説と九州説で違いが出てきそうな具体的なキーワードを幾つか挙げてもらうと、回答してくれる人の幅が広がると思います。 基本的には、支配地域の広さ(畿内説の支配領域>>九州説の支配領域)が違うことによる国家体制の成立の違いを述べるくらいですかね... 畿内説:卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡(配布の領域と主従関係)、銅鐸文化圏と銅矛文化圏をまたぐ広い領域の支配、天皇による共同体権力の掌握、.... 九州説:卑弥呼の鏡=漢式鏡、銅矛文化圏内の比較的狭い領域の支配、地方豪族による集団的支配、いずれ天皇権力に取って代わられる氏族支配基盤の脆弱性、... それにしても、その日本史の先生は何を期待しているのだろう?? だいたい、「邪馬台(壹)国」は魏志倭人伝の記述からすれば、九州の北半分にしかありえないのに、「いまだに畿内説が有力で卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡」などと新聞が報道するのは悪しき学閥の見本のようなもの。」(中国本土からの三角縁神獣鏡出土例は完品0個という事実を屁理屈で無視。)しかも、「畿内説=プロの説、九州説=素人の説」などという脅迫じみたスローガンまで宣伝して、もう冷静な学問研究の姿勢とは大いに異なる次元で見掛け上論争が続いて(?)います。いい加減にしろ、と叫びたくなるような知的怠慢です、日本の古代史学界の大部分は。 こんな問題を出される高校生は つらいなー。 試験で点を取るコツは、正しい あるいは まじめな 答案を書くことではなく、いかに出題者の意図するところを汲んで期待通りのレスポンスをするかです。(高校生に不純な世渡り術を説教するかたちになり、申し訳ない....)

ringo_pg
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます。 先生は去年度まで大学で日本史(古代史が専門)を教えられていたそうです・・・授業でもかなり細かくやっているので進度は遅めです。 不純な世渡り術だなんてとんでもないです!!とてもわかりやすかったです。試験頑張ります。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 単なる歴史好きです、っていうか、城好きです。城のことなら、先生よりすごいと思うのですが (^o^; 、以下、邪馬台国は不勉強です。正直言って、『邪馬台国はどこですか』を読んで以来、邪馬台国は陸奥の「八幡平」にあったと思いたい人ですから f(^o^; 当てにはなりませんが。 >違いとはなんですか??  よりも先に、『国家体制の成立』の国家ってナニ、成立のナニって考えてもらいたい気がするのですが、これは大和朝廷の、成立過程のことですかね?  つまり、大和朝廷の成立過程の違い について書かせるって意味でしょうか。  だとすれば、 (1) 邪馬台国が大和朝廷になったのか (2) 邪馬台国を滅ぼしたものが大和朝廷を開いたのか (3) 平和的に (4) 戦争を経て (5) 周辺部族との関係は  を、邪馬台国の九州説、畿内説とそれぞれ適当に組み合わせて書けばいいのではないでしょうか。  私としては、邪馬台国が八幡平にないのだったら、・・・ と、思うところがあるのですが、それを書いては、もしかするとテスト問題の解答を教えることになるかも知れないので、あえてやめておきます。  がんばってください。

ringo_pg
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます。 先生が大和朝廷のことも絡めて書かせるとおっしゃっていたので、とても参考になりました!! ありがとうございました。

noname#204885
noname#204885
回答No.1

試験といわれるとあからさまには回答できないのですが、 邪馬台国と大和朝廷との間に政権奪取があったのかなかったのかと言う観点が重要であると思います。普通は3パターンがあるようです。(九州説の場合、奪取説と東遷説がある。)

ringo_pg
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 3つもパターンがあるんですか!! その辺を良く調べて試験頑張りたいと思います。 ありがとうございました。

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