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スラブ人について
ロシア人、ポーランド人そして旧ユーゴスラビア地域の人々(スロベニア人、セルビア人、クロアチア人等)は、総称してスラブ人といわれています。 元は、同じ民族と聞いていますが、言語もそれぞれ似ているのですか。 まぁ、スロベニア人とロシア人が通訳なしで会話できるとは思えませんが、実際のところはどうなんでしょうか。 お教えいただければ幸いです。
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- nabayosh
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スラブ人について質問なのですが、特に南スラブ人について。 南スラブ人というと現在の旧ユーゴらへんの人種だとおもうのですが、かれらがバルカン半島にやってきた時代を詳しく知りたいです。 本で読んだのですが、7世紀頃南スラブ人はバルカン半島に定住したと書かれていました。しかし、違う本を読むと最初にバルカン半島に入植してきたのは、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人の三つだそうです。 私は、南スラブ人がバルカン半島にきた時、彼らは最初一つのまとまり、つまり南スラブ人としてそこに定住し、その後個々のアイデンティティーを持ち、クロアチア人やセルビア人などと分かれたと認識しているのですが、本を読む限り、南スラブ人としてのひとつのまとまりでバルカン半島にやってきたのではなく、すでに個々としセルビア人、クロアチア人としてバルカン半島に来たと書かれていました。 どちらが正しいでしょうか?
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専門的見地からの回答ありがとうございます。 ヨーロッパでは、古来から諸国間の人と文物の交流が盛んであったため、他民族の言葉でも何となく理解できるということなのでしょうね。 ましてや、同じスラブ語系の言葉ともあれば、民族が異なっていても、より理解しやすいということですね。