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「死」について考えることがあります

毎日大学に通いながら自分の夢に向かってがんばって生きています。自殺をしようとは思わないのですが、これからの人生自分はお金持ちになりたいとか、幸せな家庭を築きたいとか考えてもいつ事故にあって死ぬかもしれません。 明日電車が脱線して死ぬかもしれない。飲酒運転の車が突っ込んでくるかもしれない。背後から刺されて死ぬかもしれない。こんなことを考えてしまう自分がいます。 死んだら今までお金をためてきても、良い大学に行っても全部意味のないことになってしまう。自分が死にたくないと思っても他人から何かされて殺されるのが一番怖いです。 僕は人の人生は生まれてきたときから決まっていると思います。どうあがこうが、何歳までしか生きれないということは神のみが知っていますが変えられない真実だと思います。 僕は今21歳ですがあと何年生きれるのか?今まじめに毎日を生きて正しいのか?もしかしたら明日死ぬかもしれない。こういうことを考えてしまう自分が少し嫌です。 皆さんは僕みたいに、明日死ぬかもしれないのに全力で生きていることを疑問に思ったことはありませんか?

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  • wiietto
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回答No.12

全力で生きていると言えるところが素晴らしいですね。 果たして今日も全力で生きたと言える人間が世の中にどれほどいるのでしょうか? またその全力とは疲れ果てているのか、とても充実しているのかでも意味は変わってきてしまいますが、そのような質問をされるようでしたら充実感と精神的、体力的な疲労感との中間ぐらいでしょうか? 私は明日もしかしたら死ぬかもしれないと度々思います。 そして心の中で、やり残していることもある、まだ死にたくないと願います。 そして朝を迎えます。 その繰り返しです。 実際に死んでしまえば思考は停止するので人生終了です。 死を恐れているのが原因だと思います。 死というものが何か人間には永遠に分からないので恐れる必要がありません。 恐れるのは死について悩みあなたの笑顔が失われることです。

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その他の回答 (11)

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.11

「明日に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と孔子の言葉にあります。 ものの道理がわかってしまえば、別に死んでも構わない。そういうことですね。 ものの道理とは何か。 「人がいずれ死ぬとしても不思議はない」ということです。 死んだとしてもそれは当たり前のこと、自然なこと、です。 なのに、多くの人はなぜ「死にたくない」と思うのでしょうか。 そんな抵抗こそ無駄だというのに。 今のhosinokanataさんには「死に対する恐怖心」があるのではないかと思いますよ。 明日死のうが、あと80年生きようが、それは宇宙の規模から考えればちっぽけなことです。 そんなことにとらわれて生きるのは、くだらないことだと私は思います。 人は死ぬまで生きるしかない。 この変えられない真実に対して不服を持ったままの生き方はつらいです。 むしろ、まあどうせ死ぬんだし、いいか、と思った方が、少しは楽なんじゃないでしょうか。 諦めがつけば楽になる。 このことに気付いてから、私は楽になりましたけどね。

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回答No.10

こんにちは。 大学3回生・21歳の女子の者です。 私も死について物凄く深く悩み考えた時期があります。 「どうせ死ぬんだから今生きていても無駄」 「人は死ぬと分かっているのにどうして生きていかなくてはならないのだろう。そこに価値はあるのだろうか」 「死んだら全てが無駄」 「しかし、人生に絶望しているとはいえ、自殺する勇気もない。死にたくはない」 そんな矛盾と葛藤を悶々と考え悩み、 誰もこの苦しさを分かってもらえないままずっとただやみくもに生きていました。 ある時は言い知れもない虚無感に襲われ、意味のない生を生きているのならいっそ自分から命を絶ってしまおうと考えたこともありました。 かと言って死ぬ勇気もないし、実に矛盾した時を悶々と過ごしていました。 けれど、今は死にたいだとか、生に対して疑問は感じたりしません。 それは自分なりに「なぜ生きているのか」という価値と意味を見出したからです。 人それぞれ違うと思いますが、私の場合は、 「誰かに必要とされているから生きているのだ」という理由に最終的に落ち着きました。 あとは「人との出会い」「経験と勉強を積み重ねるために生きる」ですかね。 また二度ほど死にかけたことがあるので(注:自殺ではありません)「死にたい」とは思わなくなりました。 月並みですが、生還した時ってものすごく生きていることに対してありがたみをひしひしと感じるのです。 「生きていて良かった」と。 あれほど死にたい願望のあった私なのに、そう思えるのは実に不思議でした。 よくよく後で考えてみると、自分は何の脅威もない世界(戦争や飢餓などない世界)で暮らしているので、 死や生に対して鈍感になってしまったのだと思います。 いわゆる「平和ボケ」です。 今生きている恵まれた現状に甘えてしまっていたのでしょうね。 こういう経緯もあって死にたいとは今は思わなくなりましたが もう一つ、死を考えたり恐れることを辞めた理由に、 「死ぬことは人間必ず決まっていて避けられない事実なのだから、それを人生の最終のゴールとして生きていくのはおかしい」と気付いたからです。 人の人生は死が全てではありませんよね。 人間ってたしかに死に向かって生きているようなもんですが、でも死ぬために生きているのではないのです。 たとえば趣味に生きたり、勉強に生きたり、子供のために生きたり、 それが本質的に人生のあるべき姿だと私は思うのです。 要は人生をどれだけ充実し楽しめるかということに、生の価値はあると思うのです。 やはり人生を終える時に「あぁ、最高の時を過ごせたな」と思いたいですよね。 そう思えば、今このある時も逃さず大切に過ごしていけると思うのです。 先の死のことより今のこの時が大切です。 死と生って紙一重です。 死ぬのは簡単ですが生きていくのは実に難しいです。 けれどそれをいかに充実していけるかは自分の器量にかかっているのではないのでしょうか。 今、質問者様は夢や勉強に向かって毎日を過ごしていらっしゃるということで、 それでいいのではないのでしょうか。 時間を無駄にもてあましているわけではなさそうですし。 やはり物事は夢中になってこそ面白さや価値は出てくると思います。 今は生に疑問を感じていて辛くとも、きっと自分なりの答えというのは見出せます。 なんとなしに生きているよりもこうやって生や死に対して考えたりするのも良い心がけだと思います。 それによってきっと人よりも強く人生の価値というか哲学というのを持てると思います。 それがやがて自分の生きる指針や糧となります。 参考になれば幸いです。

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  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.9

不思議に思うのですが、生まれる前は死んでたんではないでしょうか。年億年、何十億年、何兆億年もの長い間、何も心配せず安らかに死んでいたのに、今、瞬間の生を得たからと言って、今さら死を恐れるのも変な話ではないでしょうか。 もし、死を恐れるなら、生まれる前に何兆年も時間があったわけですから、そのとき事前に心配しておけばよかったのではないかと思います。 生きてる時間は、死んでる時間に比べれば、まさに、瞬間ですから、生きているときは、生きているときにしかできないことをしないと損だと思います。死んだらどうしようかとか、死んだ後はどうなるんだろうかとかは、死んでからゆっくり考えれば良いと思います。死んだら、時間がたっぷりありますから。

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noname#194289
noname#194289
回答No.8

少なくともあなたの身体は「今」しか生きていません。要するに身体にとって死ぬとき迄いつも「今」なのです。だからからだは死ぬことを知らないと思います。あなたは身体が死ぬことを知っていますが、身体のほうはそれを知らないのです。知らないから恐れることもないと思います。

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noname#80116
noname#80116
回答No.7

死については 小学六年のときに 祖母がなくなって 実感として 捉えました。自分のこととしてではなく かのじょは いま 存在しておらず どこに行ったかなどでした。 その結果は なにやら暗い広い縦の洞穴をさかさまに落ちていくさまでした。いま思うと気持ち悪いですが ただその時は それは あまり恐くなかった。ああそんなものかという受け取りでした。 その後 おそらくこの体験が 意識せずとも 生きるということにとって 意味あるものと思っていたのでしょう 哲学というよりも いわゆる宗教に関心を持つようになりました。 もっとも けっきょくは 三十歳まで 彷徨はつづきました。恐くはなかったとしても なんとなく しっくりしなかったのです。それにわたくしは その同じ歳まで 世の中が 西も東も分からなかったのです。 たとえば 世間の人の話す言語は わたしと違っている それは アマテラス語弁論術によっていると 批判的に分かったというような意味です。建て前と本音といった理解でも納得しなかったわけです。 死についても納得しました。 その前に 信仰を持った(与えられた)とも言っておきます。宗教とは 群れる行為であり この宗教から自由であることが 信仰であると。 死については 結論として言って いづれ これで死のうと思ったときにわたしは死ぬというものでした。 参考になればいいのですが。

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noname#49694
noname#49694
回答No.6

 これは哲学では答えてはいけない悩みかもしれません。確かに哲学は生死についてあらゆる議論を持ってはいますが、実際のリアルな状況には解決にはならないと思います。  私自身もかつては考えました。 「自殺をしようとは思わないのですが、これからの人生自分はお金持ちになりたいとか、幸せな家庭を築きたいとか考えてもいつ事故にあって死ぬかもしれません。 明日電車が脱線して死ぬかもしれない。飲酒運転の車が突っ込んでくるかもしれない。背後から刺されて死ぬかもしれない。こんなことを考えてしまう自分がいます。 死んだら今までお金をためてきても、良い大学に行っても全部意味のないことになってしまう。自分が死にたくないと思っても他人から何かされて殺されるのが一番怖いです。」  こういうのはよく思ったものですが、やはりこういうのって現代病なのかなとよく思います。つまりニュースなどの過剰報道がこうした心理的不安を引き起こしてしまうのです。とくに若者。もともと精神的不安定なのに、ニュースなどでわーわー殺人だの怖い病だの大事故だの言われていたら、あたかも自分が明日にもそんなことになるだろうという恐怖に襲われます。  でもですよ。本当は1億人の日本人のうちで大半は事故死じゃないし、殺害されることもない。ごくわずかな人だけ。病死がほとんどですが、それでも遅くとも50歳以降。平均寿命は75前後あたりだったと思いますが・・・つまりだいたい人口の半分は75歳以上まで生きて、また半分はそれ以下で亡くなるってことです。  報道がいうほど、殺人って身近なものじゃないんですよ。確かにたまに隣町で殺人事件なんていいますが、ほとんどは何らかの関連があってのこと。無差別殺人もありますけれど、でもほんのわずかな確率にすぎません。少なくとも恨まれるような職業に就いていなければ、ほとんどはありえないわけです。  ですから、まずこの本当の現実を見ることです。これを前提とすれば、まずあなたが正常な人間として、正しく生きて、健全な食生活をしていれば、まずよほどのことがない限り、老人になるまで死ぬ確率は相当低くなるわけです。  私はこういうことに納得した上で、なお何らかの可能性があることは自分のなかで認めています。でもその時はその時です。運が悪ければ、その時あきらめりゃいいんです。そうでないうちは全力で生きる、とりあえずその可能性はないものとして生きていく。それが一番良いと思いました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/28kohereto.html 【コヘレトは言う。  なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。 太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。】    ↓ 【まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。 この世で最も不合理なのは、善人も悪人にも同じ死が臨むということ。そして死んでしまえばすべて終わりということ】    ↓   だから    ↓ 【さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。 太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい。   そ れ が 、  太陽の下で労苦するあなたへの/   人 生 と 労 苦 の 報 い   なのだ。】 いかがでしょう。

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回答No.4

色即是空。 色=財産、名誉など、が空=意味の無いもの、という考え方があります。 他人を陥れて財産を得て、どんなに贅沢三昧しても無意味なことだからそんなことにとらわれず、心安らかに生きていきましょうと。 まあ、真面目に生きていればそんなに嫌な思いもせずに生きていけますし、死ぬまでそうやって嫌な思いをしなければよいということでしょう。 が、貴方の場合は明日死ぬかもしれないのに今日がんばる必要ないのではという刹那的な思考ですね。 別にそういう人は結構居ます。そういう人はあまり貯蓄などせずに今を楽しんで生きています。それであまり裕福でない老後になったとしても、それまでに楽しんだ分で結局は得な人生かもしれません。そんなことは神様でもない限りわかりません。 ただ、貴方の文章はなにやら今が楽しくなさそうですね。それはあまりよいことではないと思いますよ。

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  • toturenzu
  • ベストアンサー率31% (623/2000)
回答No.3

どうせ死んでしまうのだから、もっと貪欲でいなければ、ですね。 若い時はなぜ産まれてきたんだろう、と何かある度に感じました。 嫌な事ばっかり、勉強は大変だし、人間関係は面倒だし、つまらない。 頑張っても、たかが知れてるし、お金だって儲けられる額なんてスズメの涙。 確かに年とる度に可能性は狭まるのですが、また新たに何かを知るのです。 こんな楽しい事がある。 年とってもあんなに頑張る人がいる。 今でも全力で生きてはいませんが、やりたい事を全部してませんね。 <人の人生は生まれてきたときから決まっていると思います。どうあがこうが、何歳までしか生きれないということは神のみが知っていますが変えられない真実だと思います。 質問者様、人生はこの世にいる時間が問題ではなく、何をしたかが問題なのです。 漫然と生きて漫然と時間が流れるまま過ごして年をとるだけなら生きているとは言いません。 食べて寝て起きている間「何かをする」それが重要なのです。 神がいて人生を決めているのなら、この世でしなくてはならない仕事も割り振られているでしょうね。 質問者様は生きて「何を成す」のでしょうか。

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  • aoitaiyo
  • ベストアンサー率38% (7/18)
回答No.2

人は、学びたいこと、出会いたい人、果たしたいことがあって生まれてくるといわれます。 そしてどんな人であれ、必ず死は訪れます。だから誰だって怖い。 人生は生まれたときからプログラミングされているとは思いますが、何歳までしか生きられないと決まっているとは思っていません。 おっしゃる通り、いつ死ぬか分からない世界だから、あの世に帰ったときに、 後悔が少しでも少ないように毎日を大切に生きるのではないでしょうか。 死んで、この人生が終わってしまったとしても、 あなたの魂の旅は終わらないから、 次の人生を迎える上で、今を生きていて無駄なことは一つもないのだと思っています。

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