• 締切済み

力への意志について教えてください

ニーチェの力への意志によると 人は自然を学問で克服しようとし、他人を道徳で克服しようとするとしているそうですが、では神と他人はどう克服していくのでしょうか? 教えてくださいm--m

みんなの回答

回答No.1

神は死んだってことで克服の対象ではないのでは。

関連するQ&A

  • 真理への意志

    ~~~~~~~~~~~~~~ 解説[編集] この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。 力への意志 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ ニーチェの話題をするとなぜか わけのわからない人が出てくるので話題にしたくないのですが、 真理への意志というか力への意志について 質問してみます。 力への意志をニーチェはツァラトゥストラを書いていた頃は批判していたのでしょうか? すると、ツァラトゥストラの思想は力への意志とは異なりますか? ところが、ニーチェは後で、力への意志を肯定するような考えになるのでしょうか? それはどうしてですか?

  • ニーチェの道徳観について。

    ニーチェの道徳観について。 ニーチェはキリスト教を大衆向けのプラトニズムと批判し、 貴族(騎士)的道徳と奴隷(僧侶)道徳に価値を転倒させていると批判しましたが、 道徳(徳とは別?)についてはじめて考え始めたのがソクラテス=プラトンだとすると、 道徳的価値というのは他の価値と対比すれば初めから転倒していたといことですか? それとも力への意志と結び付く自然に基づいた道徳的価値は、 本来の道徳的価値というものはこうである(だからねじまがっているのだ)、といったものではないのでしょうか? ニーチェはあるべきもとのものに戻ろうとしたのか、 今あるものがおかしいんだといったのか、 まったく新しいことを言い出したのかわかりません。

  • 神の意志は非合理か?

    理性と意志が対立するのであれば、 神の意志というのも非合理であるわけで、 これが気になっています。 ヨハネによる福音書6章40節 ショーペンハウアーとかニーチェとかの意志の哲学が ドイツ語なので、ドイツ語がわかる人はwilleといったときに 非合理だと思うのかどうか? あとついでに、フランスのルソーも一般意志とか特殊意志とか いっているみたいですが、フランス語の意志も非合理なのでしょうか?

  • 力の概念

    哲学の文脈において力の概念にはどのようなものがありますか? 例えばベーコンの「知は力なり」やニーチェの「権力への意志」など。 ご存知でしたら宜しくお願いいたします。

  • 意志が弱いのをなんとかしたい

    肝臓の数値が悪くなったので、食事制限をしたが、夜とかついつい夜更かしして何か食べたりしてしまいます。 勉強しようと思っていても、ついついしないで日々がすぎていきます。 健康のために早寝しようとしても、気が付いたら1時過ぎとか・・・ 意志が弱いのですが、 強くするために何か秘訣はありますか? こうしたらやろうと思ったことが続いた、とか体験談とかありますか? 意志が弱い事を克服できた人、アドバイスください

  • 因果応報と神の意志(原理)

    因果応報という言葉があります。 これは神の意志(原理)の一部をなすものですか? それとも単なる自然の成り行き、或は自然の因果律ですか?

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

  • 老子とニーチェ

    大道廃れて仁義あり と 神の死と奴隷道徳 ニーチェと老子 なんだかにていませんか?

  • F.ニーチェの良いところをおしえてください。

     ありますか?    世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。  つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。  そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・  これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか?  ほかに ニーチェにいいところは ありますか。

  • ニーチェの良いところをおしえてください。

     ありますか?    世は 理性信仰 つまり 理性なる神 理性という神が はびこっているところへ その観念なる神は観念なる神であるに過ぎないと指摘しつつ 観念の神は死んだと言ったのではないでしょうか。  つまり そんな神は もともと 死んでいるというふうに指摘しなければいけなかったのではないか。  そこを そうではなく わざわざ その観念の神を克服しなければならないと思いこみ そのためには 《自然 大河 あるいは 超人であれ》と わざわざ 説くにいたった。・・・  これでは すべてが コップの中の茶番劇であるのではないでしょうか?  ほかに ニーチェにいいところは ありますか。