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芸術ってなに?

noname#8665の回答

noname#8665
noname#8665
回答No.18

別項に書きましたのでお読みかもしれませんが、 ここに書くのにふさわしい言葉を思い出しました。 偉大な写真家にして、美術家、マン・レイの言葉です。 「(インタビュアーの「あなたは昔(写真の大家であるのにも関わらず)『写真は芸術ではない』という本を出されたことがありますね。ホントにそう御考えですか」という質問に答えて)ああ、そのとおりだ。写真は芸術ではない。そうだ。全ては芸術ではない。そして全てが芸術だ。そんなものだ。」 そんなもののような気がします(笑) というか、どこで線を引くかなんて結局個人の問題ですし、 僕が「ピカソさいこ~」とか言ったところで、 しょせん、人によっちゃぁ「子供のラクガキ」 にしか見えなかったりするわけだし。 となれば、目の前にある何の変哲もない、 例えばキーボードの形状を「ん~、これこそ芸術!!」 とかって思う人もいるかもしれんです。 だってねぇ、キーボード設計してる人だって、 「芸術作品」のつもりかもしれないですよ? (っていうか大いにありうるな。僕は車のドアミラーを見て、 「スゲー、かっこいい!!」って唸ったりするプロダクト・デザイナー を少なくとも一人は知ってます。それは、おかしなことじゃなくって、 彼らには、職業上必要な感覚なんですな。とすれば、 それがこうじてってなことも十分あるわけです。) というより、もし正しく「芸術」であることを明らかにできる「定義」が あったとして、僕はそんなの「くそくらえ、はみだしてくれる!!」 となる方なので(同様の友人多数あり(笑))、恐らく、その時代時代に あった「定義」からの逸脱こそが新鮮な創作意欲を生み出すって作用が あると思います。 となれば、「芸術」の歴史は「定義」からの「逸脱」の歴史ってことに なるわけで、逆も真なりという論法と細部の省略を行うと、 「『芸術』とは『逸脱』である」ってことになったりします(笑) と、こんな「定義」を立ててみると、「芸術」行為などを行っている 「逸脱」者はそこから、さらに「逸脱」して、オーソドックスになったり するわけです(爆) いたちごっこです(笑)で、「行方不明」(最初のアドバイス参照) になるんですねぇ。 というような現象を端的にあらわすと、冒頭のマン・レイの言葉 が過不足なくそれをあらわしていると言えましょう。 >ですから、「何らかの感情の変化を引き起こす」ことに成功したかどうか、 >たとえば、展覧会の入場者に心拍モニターをくっつけたら >面白いと思っています。 ん~、嫌な気持ちなのか、いい気持ちなのか、はたまた心臓発作なのか、 その場で、どーしてもトイレに行きたくなったせいなのか、 いやいや、その会場で昔つきあってた人とバッタリ出くわした せいかもしれません(経験あり<実話) 特定できないっていう問題が残るような.... で、嫌な気分になったのもひっくるめて「成功!!」って言う人は あんまし、見たことないです。数人知ってますけど半分負け惜しみです(笑)

stomachman
質問者

補足

有り難うございます。 芸術の作り手と受け手はかくも断絶してますか....

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