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芸術ってなに?

noname#8665の回答

noname#8665
noname#8665
回答No.24

>どの例も狼狽していることは同じ。つまり「簡単に要約できないような、し >かし黙っては居られないような感動を与えることに成功した」という仮説に >符合するように思えます。 確かに例に挙げた分だけを考えあわせればそういった捉え方も可能です。 しかし、実際のところそれよりさらに多数の無反応な観客が存在するわけで 一概にこれは成功だと結論付けるのはいかがなものかと。 僕自身の尺度で言うと、ホントに凄いものってのは、 「言葉を失い、まばたきを禁止させ、鳥肌を起こさせるもの」 でありながら、「なにが凄いのかを誰かに語りたくさせるもの」 であると思っています。 幸いなことに僕は何度もそういった体験を経験する機会を得ています。 一番最初は、おそらく中学校の美術の教科書でピカソの「ゲルニカ」を 見た時だと思います。未だにその時の衝撃を言葉にする能力を持ち得ない のは未熟たる由縁ですが。 まぁ、いずれにしても、僕が成功とすべきところとするのは、最終的には そのあたりなので、現時点ではまだまだヒヨッコと言わざるを得ません。 >大抵の作品は制作の動機を伝えていないし伝える意図もない。 これは誤解でしょう。作る側には相当数の「伝える意図」を持った人 がいます。ただ、伝えきれる力を持ちえていないだけのことです。 >やっぱり作者と鑑賞者は断絶しているようです。 しかし、感動というのは、誤解にしろ正解にしろ、観客が、 制作者と繋がり得たと感じたときに倍加するのではありますまいか。 前述した、僕における「ゲルニカ」体験はそうでした。 ピカソのスペインの惨状に対する慟哭が火のように僕を襲う猛烈な体験で あったと思います。 力を持つ作品には、そのぐらいのことはたやすく可能にさせるだけの力を持 つと思います。 >つまらん作品だと思ったけれど、動機を聞いてから改めて作品を鑑賞する >と大いに感じる所がある。 それは、つまらん作品なんだと思いますが、少なくとも僕は。 このあいだなんかの番組で谷岡ヤスジの死の間際の生活を奥さんの 話から作った再現ドラマかなんかにしてましたけど、お涙チョウダイの意識 みえみえなんですよ、これが。谷岡ヤスジのマンガにそんなもんあるかっ て、谷岡ヤスジを見誤らせるような番組作るんじゃないよって、腹が立った のを覚えています。谷岡ヤスジにはそんなもんいらない。あんな独特で 異様で、笑えて、狂っていて、ほのぼのできるマンガはこの世にないと思っ ている1ファンとしては苦情の電話しようか迷ったくらいです。 説明で評価が変わる作品なんてのは、うまい詐欺師の口車に乗せられている ようなもので、詐欺師しだいでどうにでもなる程度のもんに違いないと僕は 思うわけです。 しかし、作品より伝えたいことの方が優先順位が高いのなら、 それもアリなんでしょうけれど。 >芸術作品が作者以外の鑑賞者を必要とするかどうか 当然必要であると僕は考えます。必要としてないのなら、 門外不出でけっこうなわけだし、家に飾っておけば事足りる。 しかし、ほとんどの作者が外に向けて発表していこうとするのは、 己に内在する自己顕示欲に突き動かされる為か、もしくは、自分自身が 掴んだ真理を世界に発表する為か、自分のちょっとした心の動きを伝えんが 為か、ともかく様々考えられますが、基本的にはみんな見せたくて たまらないのだと思います。それは、たぶん子を持つ親が自分の子供を 「うちの子かわいいでしょう?」と見せて歩くのに似た行為なのでしょう。 >ピカソだって「つまらん。」と言うヒトがいてもおかしくない。 >(白状しますと、いくら解説されてもポロックはスカタンにしか見えないんです。) 正直言うと僕にも、ポロックはスカタンに見えますし、ヨーゼフ・ボイスな んぞに至っては、コンセプチャルじゃなくって、言い訳じゃねーのって思い ますし、山田かまちの詩がいいなんてちっとも思いません、ウィリアム・バ ロウズは単なるジャンキー(でもいいのもある)、ヴァタイユは変質者、 なんて思います。別に世間の芸術としているものを計るモノサシ (ホントにあんのか?)と僕のモノサシが一致する必要はないし、 させたいとも思わない。 ただ、評価される理由はあるんですな、僕がわからんだけで。 ただ、正当なのかどうかってあたりになると、けっこうあやしい。 というか、正当ってなんだ? で、僕の結論、観客がどう思うかはさておき。 作者は評価されること、有名になることを目標とするんでなければ、 むやみやたらに芸術なんぞという言葉を濫用してはならないんではないか。 それは、観客のストレートな感想を疎外し、排除する危険性を孕んだ 甘い毒薬である。

stomachman
質問者

補足

> さらに多数の無反応な観客が存在する パーセントの数値はともかく「ゲルニカ」だってそうだと思いますよ。 >>大抵の作品は制作の動機を伝えていないし伝える意図もない。 >これは誤解でしょう。作る側には相当数の「伝える意図」を持った人 >がいます。ただ、伝えきれる力を持ちえていないだけのことです。  ちょっと曖昧な表現でした。「大抵の作品は『制作の動機を伝えたい』という意図を持つものではないだろう。たとえば、『家賃を払うには、絵を描いて売らなくちゃ』という動機の元に、感動を伝える事を意図した持つ作品を制作したとき、動機が不純だからと言うだけの理由で作品の値打ちが下がる物でもあるまい」という意味です。一方、先に企図された「(ある特定の)感動」があって、これを伝える手段として作品を制作したのでは貫通力が出ないという点、すなわち「制作の動機」と「鑑賞者に(ある特定の)感動を引き起こさせようとする意図」とを区別する必要があることはreisさんのご指摘で気が付きました。なお「意図した感動」と「実際の効果」との違い(意図の成功・不成功)は最初から区別しています。 > しかし、感動というのは、誤解にしろ正解にしろ、観客が、 > 制作者と繋がり得たと感じたときに倍加するのではありますまいか。  まさにそのために「作品を理解する」という表現(実際には「感じた」だけなのに)が使われるのだと思います。しかしドシロート的には(制作者の影も感じず、すなわちその意図を読み取る積もりもなしに)純粋に作品から強烈なインパクトを受けることは実際ありますし、むしろその方が「純度が高い」気がしています。(mori0309さんが「美学不要」と言い切ったのは、ひょっとするとこの辺りの話かなと考えます。) >>つまらん作品だと思ったけれど、動機を聞いてから改めて作品を鑑賞する >>と大いに感じる所がある。  実はこう書いてはみたものの、それがどんな作品か想像も付きません。意図の解説を聞いて評価が変わったというのならまだしも。説明が無ければつまらんのでは失敗なのは明らかですし、動機がお涙ストーリーでは却って興醒めで点が辛くなっちゃいます。 > 基本的にはみんな見せたくてたまらないのだと思います。  「ママ見て」が芸術活動か、という問題ですが、芸術=創造活動+文化活動、の後半の部分かな、と考えています。この"+"の字の部分が「意図を載せたメディア」としての作品です。(reisさんによれば、前半が単なる偶然の産物では芸術たり得ない。でもstomachman的には沢山の偶然の産物の中から審美的に一つを選び出す行為はギリギリ創造活動に入れてあげたい。) >作者は評価されること、有名になることを目標とするんでなければ、 >むやみやたらに芸術なんぞという言葉を濫用してはならないんではないか。 >それは、観客のストレートな感想を疎外し、排除する危険性を孕んだ >甘い毒薬である。  至言です!  額縁こそが、単なる落書きに対してすら深読みを惹起し得るアブナイ装置なのかも知れません。それを鮮やかに逆手にとったのがキャンベル・スープの缶でしょう。

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