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芸術ってなに?

noname#8665の回答

noname#8665
noname#8665
回答No.23

>プロが「是非お近づきになっとかなくちゃ」と思った程ですから、 >個展は大成功ですね。 う~ん、どうでしょうね? なにかと人に意見したがる人の多いこの世の中ですから。<おまえもそうだろ 「是非お近づきになっとかなくちゃ」と思ったのかどうかはあやしいです。 >なぜ個展を開いたのか う~ん、作ったものを見せないのはもったいないし、 それで、それの出来がどうなのかは自分じゃ判断しかねるし、 なにより、見てくれる人の感想を聞きたかったから。 ってとこでしょうか。 >個展を開いてヒトに作品を見せること自体は芸術とは別の活動なのかどうか。 芸術なのかどうかはわかりませんが、 もし作品がそうであるとすれば、判断するのは僕ではなく、 見る人でしょう。だとすると、見せずに芸術云々を語るのは、 作者としては、片手落ちだと思います。 別に印刷物でもホームページでもいいじゃないかと言われれば、 まぁ、それまでなんですが、風景自身を見るのと、風景写真を 見るのとは違う意味を持つのと同様に、見せ方によっても意味が 変わってくるところもあると思います。 >個展に展示なさった作品ひとつひとつがそれ自体で完結した作品 >とお考えなのか、それとも作品の選択、展示の順序や配置もまた >作品の一部(あるいは別種の芸術活動)とお考えなのか。 両方でしょうね。作品を単体で鑑賞できるだけのレベルのところまで 持っていかなければ、作品足りえないし、一箇所にまとめて展示することを 目標にして複数の作品を製作しなければ、回顧展でもないかぎり、 見る人に対して不親切だし、意味を見失いやすくさせてしまう。 >展示しない作品をどう位置づけていらっしゃるのか。 これは展示しない理由によって様々な位置付けが可能ですから、 一概に述べることはできません。 展示しない理由から、位置付けは押しはかれると思いますので、 思いつくだけ列挙してみましょう。 ・単なる失敗作。 ・気に入ってはいるが他の作品との比較で見劣りするもの。 ・展示する作品と同等レベルの完成度を持っていると思われるが、 テーマ、タッチ、など表現方法、コンセプトなどに繋がりがない。 ・完成度が高すぎて、他の作品の存在感を殺してしまう。 等々。 >凄いのはやっぱり絶対的に凄いです。 僕もそう思いたいんですが、ピカソを「訳分からん」で片付けてしまう人 がそれなりに多くいるような世の中で、そう言い切れるかどうか..... こいつはあやしい。 >タイトルは作品の一部でしょうか。 でしょうね。まちがいなく。 というより、作品と同時に提示される情報は全て作品の一部でしょう。 ある意味では作品そのものも情報として捕らえることができますから、 その上では提示される情報は全て等価というふうに言うことすら 可能でしょう。 >タイトルを付ける時にどんな風に発想なさるんでしょうか。 そのときどきでさまざまです。僕は最近個々にタイトルは つけていませんし、シリーズ名ぐらいしか考えませんが、 つけるときは、ごくごく即物的に、そこに写っているものの、 名詞にするときもあれば、何かを暗示するような抽象的な名前に することもあります。それは、やっぱりそこから何を受け取ってほしいか というような作者の希望が反映される場合が多いのではないかと思います。 さて、では引き続き(1)~(5)に対する考察をお待ちします。

stomachman
質問者

お礼

丁寧に教えていただき、本当に有り難うございます。 > 作品を単体で鑑賞できるだけのレベルのところまで 持っていかなければ、作品たりえない > テーマ、タッチ、など表現方法、コンセプトなどに繋がり > 見る人に対して不親切だし、意味を見失いやすくさせてしまう。 oni_ocさんの(単体および個展全体の)作品には確かに「そこから何を受け取ってほしいか」という意図があるんですね。これが無ければ展示する動機も生じない。でも動機が単に「その意図を実現したい」という事: > 作ったものを見せないのはもったいないし、 だけじゃなくて: > それで、それの出来がどうなのかは自分じゃ判断しかねるし、 > なにより、見てくれる人の感想を聞きたかったから。 すんなり分かるんですが、考えてみるとこれらは(写真自体じゃなく)個展という作品の(隠された)意図なのかなあ。  反応がばらけたと仰ってますが、どの例も狼狽していることは同じ。つまり「簡単に要約できないような、しかし黙っては居られないような感動を与えることに成功した」という仮説に符合するように思えます。 >(1)動機が営利しかない場合は芸術か、否か? >(2)動機が社会的意義を認められないものであった場合には芸術か、否か? >(3)作者自身の置かれた環境を理解せずにはのみこめないような動機を持った場合には芸術か、否か?  大抵の作品は制作の動機を伝えていないし伝える意図もない。従って、作品の鑑賞者(特にドシロート)にとっては動機は重要ではないでしょう。(まさに作者の動機を研究している場合を除くと)(1)(2)(3)が問題になるのは、あからさまに動機が示してある作品の場合か、或いは作者の動機が別途知らされた場合に限った話になります。しかも鑑賞者がその「動機の説明」を真に受けるかどうか、動機と作品を関連させて考えるかどうか、それは鑑賞者の勝手です。  制作の動機が意味を持つのは制作者側においてだけだとすると、動機は動機であるだけで十分動機になる訳ですから、(1)(2)(3)はやはり関係ないと思います。  一方、意図に関して:たとえば広告の場合、制作過程で純粋に受け手の印象を予定して作品を設計・製作したとすると、創造活動というよりも職人芸である。しかし方法はこの手に限られる訳じゃない。営利目的を成功させるための手段として芸術の力を利用するのは実際に効果的ですから、作品の印象が営利の目的に反しない限り使える。逆に、特許明細に添付されている絵は説明だけを意図していますが、それでも美的でない訳ではない。描いていると嫌でも美的感覚は働いてしまいます。  ところで、その動機や意図とはまた無関係に、鑑賞者から見れば作品が芸術的であったりなかったりしうる。たとえば、ある製品企画において自分のイメージを具体的にしてみたくて描いた絵を、のちに口述のプレゼンを分かりやすくする為に利用したら、(プレゼンの成功不成功とは別に)美しいと感心された上に、プレゼンの内容とは全然関係のないプリンタの広告に流用されたという場合、動機・意図・作品・営利はバラバラに乖離してます。(<実話)  やっぱり作者と鑑賞者は断絶しているようです。言い換えれば芸術活動と芸術作品は別であり、創作と発表は一体ではない。両者を繋ぐものといえば、せいぜい(最初の質問の通り)「何を感じさせたいかという意図」ですが、(a)創造活動が(多分)先にあって意図は後から来る。(b)その意図が成功するかどうかはまた別問題。というありさまで、誠に頼りない。 >(4)(3)の内容を把握せねば理解しえない作品は芸術か、否か?  つまらん作品だと思ったけれど、動機を聞いてから改めて作品を鑑賞すると大いに感じる所がある。より一般に、作品として完結しておらず、補足説明なり、解説なり、適切なタイトルなり、シリーズとして並べるなり、何らか補助的な情報を絶対に必要としている。この作品はつまり、鑑賞者にとっては芸術作品のパーツであろうかと思います。  作者がこれを単独で発表したなら、メディアとして何かを伝える意図は失敗している。それでも作者にとって何かを「掴んだ」創造活動としての芸術の成果物ではありうると思います。芸術作品が作者以外の鑑賞者を必要とするかどうか、作品を見せるのは芸術の一部か文化活動か、やっぱりソコが問題です。 >(5)(3)の内容が作品より先行して理解され、神格化されている場合には人は >  それをのちに体験したときに、正確に芸術か、否かを判断できるだろうか?  「正確に芸術か、否か」って客観的かつクリスプに分けられるかどうかは取りあえず置いといて;ドシロートが物を知らない恐ろしさで、主観だけで判断するのはいとも簡単。ピカソだって「つまらん。」と言うヒトがいてもおかしくない。なんだこんな有名な作品知らないのかよ、と揶揄されたって「つまらんものはつまらん。」で押し通しちゃう。(白状しますと、いくら解説されてもポロックはスカタンにしか見えないんです。)  一方、作者が売れて初めて作品が売れる、と見えるケースは歴史的にも多そうですが、無批判にという訳ではなく、むしろ「鑑賞」が進歩し機が熟したんじゃなかろうか。で、stomachmanみたく教養の無い奴はそのレベルについて行けないだけ。  あるいは、なにこれ単なるスープの缶じゃねーか。これは(絶対に作品とは思えない物の典型として)スープの缶を選んで作品と主張する機知に共感するかどうかじゃないのかなあ。「「「単なる缶が作品」だとして展示すること自体が作品」という、芸術の概念の再確認・変容を要求したこと自体が作品」という、重層構造が缶1個で表現されていること自体が作品。この場合は、意図こそが本質的であり、鑑賞者は作品の完成に必要不可欠ではないでしょうか。鑑賞者の参加を要求する場合、中学生の作品なのか有名な先生の作品なのか、友達の家の台所にあるのか国立美術館にあるのかによって、鑑賞者がどこまで深読みするかが全然違う、というバイアスがあるのは明らかです。だからこそ作品の性質によっては、特にドシロートに向けて「ゲージツですよー、ただのピンぼけじゃないんですよー、深読みしてねー」というメッセージを発するfield、あるいは次第に深読みの方向へ誘導していくための作品系列として展覧会をしつらえる必要があるのかもしれません。  展覧会は文化活動なのか、それ自体芸術作品なのか。両方でありうる、と思えます。展覧会の意図は文化啓蒙なり、個々単体の作品を成功させることにある。その手段として「制作年代順」のような旧知の方法を使ったか、創造活動が行われたか。作者自身に依らない展示の場合に大抵前者の方法が採られるのは、個々の作品の「理解」に余分のバイアスを掛けないことを意図しているためだと思います。逆に、展示で個々の作品の取捨選択・配列・展示方法に特別の意図(つまり鑑賞の文脈)を持たせることもできる。展示自体を作品として創作するという場合、(意図が先にあるために)創造活動としては余計な制約を背負っているし、一つ間違えば個別の作品の方を殺してしまうことになりかねない。(殺しても良いとなると、今度はパロディとも通底する。)

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