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芸術ってなに?

noname#8665の回答

noname#8665
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回答No.25

>(reisさんによれば、前半が単なる偶然の産物では芸術たり得ない。 >でもstomachman的には沢山の偶然の産物の中から審美的に一つを選び出す >行為はギリギリ創造活動に入れてあげたい。) 偶然が範疇の外となれば除外される様々な分野がでてきます。 まず、屋外で撮られる写真(たまたまそこを通りかかったという偶然、 たまたまその方向から光が指していたという偶然、たまたま画面内で 意図せぬ出来事が生じたという偶然、たまたまそういう季節であったという 偶然、写真から偶然の要素を取り除くには屋内で完璧にコントロールされた 照明下で、動かぬ無機物を撮るしかない)次に演劇またはダンスなどのパ フォーマンス(人と人が関わり合うのであるからして、どんなに完璧に こなしても偶然の要素は取り除けない。そういう意味では人が演奏する 音楽もまたしかり。)この二つの集合体である映画も同様。 意図せず出てきた表現方法が後に意図と結びつくことは、さして珍しい ことではない。(現に絵画にしろ、写真にしろ、映画にしろスタートは 単なる道具の発明であり、表現などというものを意図したものではなかった のではあるまいか?)で、あるからして、ここにおいて意図のあるなしを 判断基準の一つとすることは、狭義と言わざるを得ないのではないでしょうか? >(制作者の影も感じず、すなわちその意図を読み取る積もりもなしに) >純粋に作品から強烈なインパクトを受けることは実際ありますし、 >むしろその方が「純度が高い」気がしています。 ここで言われることを解釈するならば、観客に意図は必要無い<仰る通り! しかして、作者は意図しようがしまいが、「作品化したい!」という 意図だけは持つ。作品自体が偶然の産物であったとしても、意図を必要と せぬ観客に何の関係があろう?(作者に内在すればいいだけのこと) ただ、ここで、観客が意図を必要とするケースがあったとすれば、 「強烈なインパクト」の理由としての意図を求めることでありましょう。 「強烈なインパクト」は「この作品は私に何を訴えかけているのだろう?」 という疑問をまま引き起こします。その際に、作者が「んなもん、ねーよ」 というと夢が壊される。これを守る為に芸術には意図が必要という神話が 生成されるのではなかろうか?または、意図とは必ずしも言語化可能とも 限らず、モワーッとした抽象概念の一部で、それが偶然という形で、顕在化 したものが、作品ということも可能。ならば説明不能であったり、 意識に登っていなかったり、偶然の産物であったりするものを削除する のは狭量なんでは?と僕は思うわけです。 >額縁こそが、単なる落書きに対してすら深読みを惹起し得るアブナイ装置な >のかも知れません。それを鮮やかに逆手にとったのがキャンベル・スープの >缶でしょう。 ならば、芸術という単語による額縁なんか捨てちまえ! っていうのが僕の意見なわけです。 現実には、逆手にとることが芸術足り得ることを知ってしまった有象無象 の二匹目のどじょう狙いたちがウヨウヨしております。 僕のこの発言もその有象無象の一員としてとられる可能性もなきにしもあらず。 しかし、御理解頂きたいのは、看板のない店を経営するのは結構大変だということです。

stomachman
質問者

補足

逐一のコメントを有り難うございます。  あらゆる「額縁」を捨て去るとなると、個展を開くこともできないですね。どうやって展示しましょうか。日用品(茶箱)に貼るというのはどうでしょう?  stomachmanはアンチ権威主義的性格なので、前評判や説明が付くほど点を辛くする傾向があります。まして美学的テクニックや意図が丸見えの作品は(それなりに楽しむことはあっても)「感動!」ってことはありません。一見して気に入ったけれど、眺めているうちに「作者の計算」が見えてきて嫌いになっちゃった、なんて経験もあります。スープの缶はお気に入りですが、そういう作品が存在する、というだけで十分であり、現物を見たいなどとはもちろん全く思いません。  stomachman邸に飾ってある写真の作品に、決定的シャッターチャンスに余計な通行人が写っていて、しかしそこを切ると構図としてバランスが悪くなる、ってものがあります。もちろん気に入っているから飾ってあるんですが、ホントに偶然のシャッターチャンスだったのか、逆に意図的演出がバレないようにわざと夾雑物を入れて偶然を装ったのか、未だにはかりかねています。演出でなければ良いな、と思っているわけです。  写真の構図が決定するのは本当に一瞬の、予測か観察か見分けが付かないほどの間の審美的ひらめきだと思いますし、また沢山の写真の中から幾つかを選び、焼き方やトリミングの腕を振るう。絵画でも、描いている内にその過程自体が制作者を導いていくところがあるように思います。初めから計算され尽くした意図があるわけではない。全くの偶然というわけでもない。stomachmanは自然物や工業部品などの中に「額縁抜き」の美をしばしば見いだすんですが、これを旨く写真か映画に撮れば、きっと作品になるんだろうと思います。だから、この積み木ママに見せなきゃ!と思う審美眼はそれ自体創作活動であると考えますし、これは自然科学や数学での発見でも同じ事のように思います。  また、鑑賞者にとっては、いやらしい計算が(あっても)見えないような作品でないと受入れられないんでしょう。そうではなくて、ママ見て!という素朴さ・率直さが(マン・レイやダリのようなひねた作品にだって)あり、また見せたいものがテクニックそのものなどの「芸」(よく素人の作品で見かけます)ではなくて、やっぱり作品自体のインプレッションでなくちゃダメです。  ですから、これ凄い!≒見せなきゃ!という衝撃≒衝動こそが芸術の本質のように思えてきています。その見せたい作品が現物として存在するか、まだイメージとして頭の中にあるだけか、は別として。  なんとなく、納得できてきました。だから、そろそろ閉めようかと考えています。

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