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戦国、江戸期の農民にとって領主(大名)とは

noribou11の回答

  • noribou11
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回答No.4

この問題はいろいろと意見もあるでしょうが、 せっかくなんで、具体的な例をあげて解説しましょう。 舞台は東濃地方(岐阜県の南部が美濃地方でその東側)のある村。 川向こうの村に館を構えていた斉藤道三の猶子斉藤正義が 新たに鳥峰城(後の金山城)を築城したところからのお話。 天文17年に家臣であった久々利頼興によって正義は近隣の久々利城に 招かれ謀殺されてしまいました。もっとも、正義の横暴さが原因で あったり、久々利家は土岐氏の傍系であるためそのままその地方を 久々利家が統治することで一件落着。 永禄8年になって織田信長に帰順し、その家臣、森可成を金山城主に 封じました。天正10年、本能寺の変が起きると、それまで金山城主 森長可に従っていた東美濃の諸将が反旗を翻しましたが、天正11年、 久々利頼興は金山城で謀殺され再び森家の領地に。 慶長5年、森忠政が信濃川中島に移封され、替わって城主となった 石川光吉も近くの犬山城を拠点としたため金山城は廃城に。 このとき城下町はそのまま犬山城主の領地へ。問題の村はというと 関ヶ原の合戦時に木曽路平定に功をあげた木曽衆・千村家の領地と なりました。千村家は当初幕臣でしたが元和5年に尾張藩に転籍したため その後は尾張藩家老の千村家領地として明治維新まで続くことになります。 多くの華族が東京に移り住むとき、最後の領主千村仲展は 「山之狩人を浜之猟師仕と同じく」とか、「山林自在生長する木を抜取来りて、 都下移し鉢植仕事如し」のように地元に留まり続けましが、相次ぐ改革に ついていけず、隠居し、その子仲重の代となって明治8年に東京に移りました。 (このときマイナーな千村より元々の木曽の姓に改名)これで終わりかというと、 そうでもありません。昭和19年には仲重の孫の木曽義明氏が大阪より疎開。 いまでも地元自治体と古文書の解読等で協力関係にあります。 ちなみにお隣の犬山城主である成瀬家も昭和20年に当代の成瀬正俊氏が 疎開してきています。おどろくのが、この犬山城、いまだに成瀬家の 所有物なんですね。だから現在でも「城主」です。 長くなりましたが、これが領主の変遷です。途中までが直轄で その後は飛地での間接統治となります。 でもって本題の領民の方ですが、領民というといかにも搾取されるという 印象をもちますが、一概にそうとも言えません。昔は国と民が一体化して いたため、国が豊かであれば自分達の地位も向上します。 (ここで言う国とは日本という単位ではなく藩単位) 海外で日本人か中国人かでサービスや警察の対応が違うことがあるような ものですね。したがって自分が生産した米を搾取されるという感覚よりも、 自分達は米を作るという仕事を担い、報酬は生産物の半分という感覚でしょう。 売り上げの半分を己の収入と考えるならば今のサラリーマンよりも よっぽど高給取りと言えますね。 また、当時の村は高度な自治組織でありました。 いわゆる議会にあたる部分が寄合となるわけです。 細かい政策などは村単位で決定していきます。さらに、今の行政が担う 住民台帳の管理は寺院によって行われていましたから領主と領民は 今の行政と住民より直接的な関係ではないかもしれません。 問題の村に関してですが、ここには三十六人衆というものが村の代表でした。 基本的に各領主は依託という形で年貢の徴集を行っていました。 したがって領主が替わったからといって領民そのものに変化はありません。 常に村の代表が村単位の年貢をまとめて納めていただけですね。 県知事が誰になっても現場の担当者が変わらないのと同じです。 ちなにに明治以降は村制となったため、この三十六人衆の筆頭格 (家の規模ではなく学問に優れていた家)が歴代村長となりました。 昭和の大合併で近隣の町と合併しましたが、いまだに地元の話し合いで 町会議員を輩出しています。そして三十六人衆も存在しています。 もちろん、寄合は儀式的なものになりつつありますが。 まとめると、領主と領民の関係は現在の行政と住民の形よりも 会社と従業員の関係が近いといえます。武士団は経理、営業などの事務系で 農民は技術系ということです。米を生産するという職人集団であって 報酬は生産物の何割という考え方ですね。一揆というと武装蜂起を 思い浮かべますが、実際のとことろみんなで山に隠れて農作業を放棄 している間に村の代表者が担当者と交渉するところもストライキと 同じですね。一方的搾取というのは一般的ではないと思われます。 じゃないと、80年そこらで元の領主の疎開をあたたかく迎えるわけ ありませんよね。少なくとも自分の親の世代は領主、領民の関係なんだから。 以上「お前は世が世なら」と教育を受けた元領民の意見でした。

densetu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 史実に基ずいた具体的なお話で、大変勉強になりました。当時の農民も一方的に搾取されていた訳ではなく、各身分において分業制が取られていたと考えればよいという事ですね。

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