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戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。 戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

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  • buchi-dog
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回答No.5

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。 ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。 「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」 とすれば、太閤検地のデータが掲載されている http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html か、その元になった本を見るしかありません。 なお、戦国大名の財力を見る場合に、 「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」 「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」 「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」 「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」 「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」 など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。 また、 「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」 などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

chishodora
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  • buchi-dog
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回答No.6

No5の者です。 現在、我々は「水田」というと、広々とした平らな場所にあるものと思います。戦国時代当時は、現在我々が見るそうした水田地帯は、多くが「河川の氾濫原でススキやアシがボウボウと生えた荒地」でした。梅雨や台風の時期になると川が氾濫して水浸しになってしまい、農業ができない場所だったのです。典型例は、関東平野の中心部(今の埼玉県内の東北線、あるいは常磐線や東武伊勢崎線の沿線)です。先の投稿でも書きましたが、新潟市の周辺の越後平野、あるいは仙台市の南北の仙台平野などもそうです。 戦国時代に水田が効率よく作れたのは、山と平地の接点のような地域です。関東地方の覇権を、相模小田原城が本拠の北条氏と、上野(群馬県)が本拠の山内上杉氏(越後の長尾氏=上杉謙信が継承)が争った当時、戦闘はだいたい今の「八高線」の沿線で行われていました。この辺の「山と平地の接点」の場所が、戦国時代の「水田適地=領有を争うべき土地」だったのです。 というわけで、山がちの三河や甲斐や信濃といった土地は、現在我々が考えるよりも更に農業に向いた「豊かな土地」であったと言えます。

chishodora
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  • Kitami
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回答No.4

学研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした。戦国時代も約100年ほどあり、前半と後半では大きく違いますし、信長の出現以降は大きく変化しています。なお、石高=国力とするのは無理があるかと考えます。堺などの町の交易や楽市楽座、南蛮貿易などの商工業の利益も含めてGDPは出すべきと考えますから。

chishodora
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  • tanuki4u
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回答No.3

http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html とりあえず 太閤検地 百姓から見た戦国大名 (新書) 黒田 基樹 (著) によれば、日本人の先祖はだいたい400年くらいしか逆戻れない。 理由は、その前は飢饉が常態で逃散なども頻発だからだそうだ。 17世紀にはいって、ようやく落ち着いた・・・とのことなので、戦国時代の石高として、太閤検地を当て込んでも ほぼ間違いないかと考えます。

chishodora
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  • a-koshino
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回答No.2

戦国時代は、合戦で田畑を荒らされることが多く、天災や飢饉も毎年のように起こっていたようです。 従って石高は一定せず、不明とするしかないのでは。 百姓が農業に専念でき、妨害もなかった場合の石高は、太閤検地の数字に近いと思います(過少申告された可能性の高い土佐を除く)。

chishodora
質問者

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  • kasutori
  • ベストアンサー率26% (308/1163)
回答No.1

江戸時代は知行を米が取れる事で計算する石高制度ですね。 でも、これって江戸時代から始まった話ではなく、古くからの制度です。高校の教科書か用語集に書いてあるかと思います。鎌倉・室町時代には、米をお金で換算した貫高が用いられています。これは、米で納めるべき年貢を銭で代納する分銭に由来するものです。 江戸時代には、知行高は支給される米の容積による「石」(石高)で表されるようになりました。 判るサイトという事なんで、探せば色々ありますが、知行制度のサイトでも貼っておきます。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A1%8C
chishodora
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