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戦国、江戸期の農民にとって領主(大名)とは
nozomi500の回答
戦国時代、織田軍とその他の武将は違っていて、例えば武田や上杉軍というのは、百姓を雑兵としてかき集めて戦場に向かいました。したがって、農繁期には戦闘ができない(やっちゃったら、米ができなくなるので国中が食糧難)。川中島の戦い、というのは、いくら戦っても、タイムリミットがあるから、最後まで決着は付かない。 対して織田軍は、兵農分離方式で、百姓はとにかく米を供出すればいい。供出された米によって、戦闘集団を組織する。したがって、長期にわたる戦闘が可能になります。長篠の戦いで武田軍が負けたのは、単に鉄砲3000丁(これはウソだったらしい)の成果でなく、生産・補給・戦闘という役割分担のシステムだといえます。この発展が、「検地」であり「刀狩り」であるわけです。 領民というのは、領主の「所有物」です。893屋さんの場合はいちおう「契約」ですが、何かしてやるかわりに何かしろ、という関係ではありません。封建制というのはそういうものです。 たとえば「加賀100万石」などというのは、100万石の米の生産力を持つ土地と領民を持っている、ということを意味します。
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