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似非坊主?
この正月、仏教徒と称する、ある寺の、私の高校時代の後輩に当たる若い坊主と話し込んでおりました。私「今の世の中、ひどいよなぁ。もうなんでもありだもんね」坊主「ええ、もうそりゃひどいもんです。でも人間のできる教育には限界がありますからね。じたばたしても始まりません」「・・・??? じたばたしても? じゃ傍観してろと?」「いえ、そういう訳じゃないのですが、末法の世は人間の力だけではどうにもなるものじゃないかと…」「笑わせるなよ、君。どうも修行不足のようだな。 何が末法の世だ。末法の世にしているのは他ならぬ君ら半端な似非仏教徒じゃないのか? 仏教徒を名乗る君らがそういう非生産的な諦観を在家の僕らに語って何の解決になる? もう一度山にこもって修行し直してくるか?」「…いえ、もう修行は充分積みました」「アホ抜かせ。君らみたいな似非坊主が人々を救済しようとするからおかしくなるんじゃないか・・・。まぁいいや。少し酔ったみたいだから今日は帰る。じゃ~ね。合掌」「あ、それはおやめください」「え、何で?」「あまり軽々しく合掌をするものではありませんので…」「君の中にある仏性を拝むのでも文句言われなきゃなんないのか。…ふ~ん。君みたいに人の発言の行間すらロクに読めない、人を咎めるだけの人間が宗教家、仏教徒か…。こりゃ、君の言うとおりだ。ホントに末法の世だな…」「何かお気に障ることでも?」「いいや、全然。君、35歳とか言ってたが、も一度修行をやり直した方がいいかもしれんな。人間観察の基礎ができてない。絵に描いた観念論や小難しげな屁理屈ばかり捏ね回していたって人の心は見えてこないよ…」とまあ、こんな具合で話が終わりました。こういう坊主が仏教徒を名乗っているのがどうにも納得いかない。質問文には字数制限がありますのでピンぼけの質問になってしまいましたが、皆様のご感想をお聞かせ願えたら幸いです。
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考えてみれば世にも不思議な事でございます。 あの世も、成仏も、戒名も、お経も全て坊主が考え出したものなのです。 果たしてこれらのものは本当に人のためになるものなのでしょうか。 あの世こととか、成仏するとかしないとか、戒名があるとかないとか、これらのものはむしろ無いほうが人はよほど晴れ晴れとして平穏で清らかな人生を送れるのではないでしょうか。 何故に人はこのようなものに縛られねばならないのでしょうか。 またこのようなものに縛られて一体何の得になるのでしょうか。 あの世のことなどどーでもよい、成仏するとかしないとかどーでもよい、戒名など欲しいとも思わない、お経なんぞ挙げてもらわなくても結構、このように考えるほーが人間はよほど晴れ晴れとして平穏で清らかな人生を送れるのではないでしょうか。
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