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似非坊主?

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.3

 「合掌礼」は、禅宗では仏性に対してされているとされています。  武道でも、合掌はしなくても、相手を尊敬しているということで、礼をしているわけですが、そもそも「合掌」とは、尊敬・信頼しきっている姿、拝する意味で、命を帰命することであります。  軽はずみにも、人間等に対しては合掌しないようにされるべきでしょう。自分の命を差し上げるといっている事にもなります。  それから、「印契」ということですが、真言宗ではこの十本の指が法界だというのです。そして、指を伸ばしたり折ったりして、色々な印を作る仕方があります。しかし、そのようなことは全部、仏となる直道ではありません。  大事なのはただ一つ、合掌印であります。合掌印に全部の宇宙法界の大真理はこもっているのです。  ここまでは、誰もが知っているような一般常識程度の合掌のことですが、  合掌は荘厳な仏前で、もっとも尊い御本尊に向って清浄な心で行なうものであり、その十指は十界互具を意味し、胸にあてるところは、我が胸中の心性の白蓮華を生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作三身・事行の一念三千の当体であるという深い意義を備えているのです。  このことを日蓮大聖人は、  「合掌とは法華経の異名なり向仏とは法華経に値い奉ると云うなり」 と仰せられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。

masatoshi-m
質問者

お礼

 ウ~ン、段々難しいことになってきたぞ、こりゃ(笑)。  簡単に言うと「人間ごときを相手に合掌するな」ということですね。「神社仏閣でなら構わないが」と…。今の仏教界が堕落しているとするならこの辺りに原因があるのではないでしょうか。何故そう四角四面に物事を考えなければならないのか。何故そうまで形にこだわって(形にこだわることを悪いとは言っていないのです。こだわりすぎることを問題にしているのです)人の心を素直に汲むことができないのか。私にはこれが不思議なのです。「合掌」に「自分の命を差し上げるといっている事」という意味があることは迂闊にも知りませんでしたが、在家の何%の人がそうした事実を知っているのでしょうか。「いや、それは常識だ」とおっしゃるのであれば、それはそのまま仏教界と一般人の世界(俗界?)との乖離を表しているのだと思います。我々一般人は感謝の思いを表現したい時に素直に相手に合掌するのです。また、少し宗教に関心がある人なら相手の中にある持って生まれた「仏性」を拝するときに合掌をするのです。それを「軽はずみにも」とおっしゃるのであれば「人間に対して感謝の思いを表現するのは程々にしておけ。無闇矢鱈に感謝をするな」ということになりますが、如何でしょうか。それとも「合掌」はやめて言葉だけで表現せよということでしょうか?  >そもそも「合掌」とは、尊敬・信頼しきっている姿、拝する意味で、命を帰命することであります。    ともodd-artさんは書いていらっしゃいますが、そうであるならば尚のこと「合掌」する姿は美しいと思うのですが…。合掌は同時に祈りにも通じます。食事をする前と後に我々は合掌をして、食事として供されたあらゆる命に感謝と祈りを捧げます。と同時に食事を作ってくれた人にも同じ思いを捧げます。その思いが「合掌」と「いただきます」「おご馳走様でした」の言動だと理解しているのですが、これではまずいのでしょうか? >大事なのはただ一つ、合掌印であります。合掌印に全部の宇宙法界の大真理はこもっているのです。    「宇宙法界の大真理」とやらがどんなものかは存じ上げませんが、人の心ひとつ愉悦を与えることのできない、それどころか不愉快にさせてしまう坊主には「宇宙崩壊の大真理」しか待っていないと思うのです。何が大切なのか。勿論「法」も大切でしょう。しかし「法」を守ろうとするあまり、或いは教義に誠実であろうとするあまり、「生きた人間の心を蹂躙する」ような言動を取るのであれば仏教界に未来はありませんね。私は神社仏閣でも手を合わせますが、日常生活の至る所においても感謝に満ちた、或いは荘厳な気持ちを抱いた時にはそれがモノであれ人間であれ合掌します(勿論「偶像崇拝主義者」ではありませんよ)。これを軽々しい行為だとは思いません。これが軽々しい行為なら私の抱く「感謝の念」が軽々しいものだということになってしまいます。 >真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。  かもしれませんが、私の定義によれば《「真実の合掌」とは森羅万象を貫く大いなる生命(「生命」と書きましたがこれは「死」も含んでいます。「死」も「生命」のひとつの表れだと思っておりますので)への深い尊崇の念、畏敬と感謝の念が形となって表れたもの》です。  そういう思いがあるからこそ件の坊主に対して「修行し直して来い」と申しました。俗界に住む、私などのような一般人の気持ちを汲み取れないというのなら(と言うより批判さえするというのなら)仏教で人は救済できませんよ、と言いたかったのでした。経典に書かれてあるような小難しいことはよく分かりません。しかしどんなに素晴らしいことが経典に書かれていようとも、人の心ひとつ掴めないようでは坊主として失格ではないかと、まぁ高校時代の先輩として、かわいい後輩に教えたかったのですが、如何でしょうか?

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