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桓武天皇について
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天武天皇系の男系皇族が政変などにより途絶えた為に即位した「光仁天皇(白壁王・桓武天皇の父)」は、后である井上内親王(聖武天皇皇女)を通して、女系ながら天武系の血を引く嫡出子の他戸親王を皇太子として据えるという条件付きの天皇位継承でした。 光仁天皇即位時の桓武天皇=山部王は光仁天皇の庶長子で年齢は35歳。その翌年に井上内親王と他戸親王は大逆事件で廃されて、山部王の立太子が行われます。翌々年には井上内親王と他戸親王は変死します。これは山部王立太子に動いていた藤原良継と藤原百川の兄弟による陰謀でした。 桓武天皇の即位は781年4月ですが、この時光仁天皇は存命で同母弟の早良親王の立太子は光仁天皇の意向だったようです(同年12月に崩御)。 天武系の諸豪族や平城京の諸寺の影響を断ち切りたい桓武天皇は784年に長岡京へ遷都、785年の藤原種継暗殺事件で「大伴継人の証言」により、早良親王を連座させ廃太子とし淡路へ配流します(大伴家持も死後にも拘わらず官位を剥奪されています)。そして、早良親王はその途次で絶食により憤死します。 この時点では、桓武天皇には冤罪であるという意識は無かったでしょう(証言があったという報告を受けていますから)。まさか弟が冤罪を叫んで絶食して憤死するとも思わっていなかったと思います。皇位継承を自分の血筋に公然と継がせることが出来ると言う点でホッとした程度ではないでしょうか? ただ、早良親王は元々僧籍にあった人で東大寺や大安寺東院に住んでいました。平城京の諸寺と強いパイプを持っていたと思われ、それを桓武天皇が懸念していたことは想像できます。 また、桓武天皇は天武系の男系皇族が断絶したのを目の当たりにしたためか、やたらめったら子作りに励み、自らの血統を濃くするために自分の息子と娘たちの異母兄妹婚を積極的に行わせています。 こうした面からは、弟を殺すつもりはなかったにせよ、出来る限り皇位を自分の血統で継承していきたかった心情が浮かんできます。 その後、早良親王は平安京に上御霊神社の祭神として桓武天皇の勅願で祀られ(794年?)、「崇道天皇」の追尊を受けています(800年)。また、大伴家持をはじめとする種継暗殺に連座した人々は桓武天皇の遺詔で806年に罪を免ぜられています。 こうした対応は、怨霊の力が絶大だった為にそれを鎮める、と言うこともあったでしょうが、桓武天皇が実弟への自責の念に死ぬ直前まで苛まれていた現れで、彼の心の中では「冤罪」であったと思っていたのかも知れません。
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- pyon1956
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#1さんのおっしゃる奈良勢力との縁切り、というのもあるとおもいますが、桓武というひとの自分の血筋重視、というか父を太祖とする新王朝のはじまり、という考え方もまた一つの原因ではないかと思います。つまり、早良立太子と桓武登極は同時の事ですから、光仁在世中のことです。 光仁にすれば自分の息子が後を継げば良かったわけですが、桓武にしてみれば、封禅のようなことをしてみたり、また自分の娘と息子を結婚させる(一応異母ではあるにせよ)とか、かなり新しい王朝であることを自分の血統(天智天皇の子孫である事も含め)と結びつけて考えていたといっていいでしょう。 そういう事も含め、旧勢力の代表である早良をも粛清した、ということでしょうね。無論主犯ではありませんが、そんなことはどうでもよかったはずです。実際には祟ってしまったので祟道天皇なる諡をしたりしますが、大筋は「事件を奇貨として」葬った、ということです。
- les-min
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こんばんは。。 あまり詳しくはないので、回答らしい回答にはならないと思いますが・・・ 少なくとも、本気で早良親王が犯人だと思っていたとは考えにくいのではないかなーと思いました。 早良親王は、もともと東大寺に入った僧侶で、平城京に基盤を持つ勢力と親密だったと考えられるので、遷都に意欲を燃やす桓武天皇とは、実の兄弟でありながら、立場はかなり異なっていたと考えられます。 平城京の旧勢力と縁を切りたい桓武天皇は、次の代が早良親王に相続されることがどうしても容認できず、暗殺事件を格好の材料として早良親王を強制排除した、というところではないかと解釈しています。(←まったく個人的な解釈ですが・・・) 桓武天皇としては、事件の真相はどうでもよかったのだと思いますし、実際に早良親王が関与していたとは、本気には考えていなかったと思います。 一方で本件で最も利益を得たのは桓武天皇であることは確かだと思います。 桓武天皇の心中には自分の子供に位を譲りたいという親バカ的感情もおそらくは多少含まれるのでしょうが、桓武天皇の最も強い想いとしては、次の代が平城京勢力に近い早良親王であることは断固阻止しなければならないという点にあったのではないかと思います。 本来ならば、とても天皇になれないような立場だった光仁天皇・桓武天皇が即位することによって、奈良時代の終わりと平安時代の当初は少々ゴタゴタした印象があります。この事件もその一環と言えるでしょう。 また、桓武天皇と早良親王は実の兄弟とは言え、現代的な感覚で言う兄弟関係とは、かなり異なる関係だったと考えられます。 この頃の歴史に面白味を感じておりますもので、個人的な解釈を述べてしまいました。ご容赦ください。では。
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