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早良親王は移葬されたそうですが遺体は?

785年、早良親王は藤原種継暗殺事件に連座したとして乙訓寺に幽閉されました。 早良親王は無実を主張してハンガーストライキを行い 淡路へ配流となる途中、船の上で憤死したということでしたね。 遺体はそのまま淡路島へ運ばれたそうで、淡路島に崇道天皇陵がありますね。 800年、早良親王は崇道天皇と追称され、大和国に移葬されました。 奈良市八嶋町に崇道天皇陵があります。 移葬されたということは、淡路島の崇道天皇陵には遺体はないのでしょうか? 天皇陵は発掘調査できないと思いますが、何か伝説とか、言い伝えなどはないのでしょうか。 奈良市八嶋町の崇道天皇稜には、次のような伝説があるそうです。 早良親王は死にのぞんで9つの石を投げ、石の落ちた所に葬るようにと遺言した。 9つのうち8つの石が八嶋の地で見つかったので、800年に崇道天皇八嶋稜に葬った。 8つの石が見つかったとあるのは、八嶋という地名にかけたものかもしれません。 9つの石とは何かを比喩的に表現したものなのでしょうか。 9月9日は重陽の節句で不老長寿を願う日であったようですが、それと関係あるでしょうか? また、9つあった石のうち、ひとつはどこに行ってしまったのでしょうか? お考えをお聞かせくださると嬉しいです。

noname#190665
noname#190665
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noname#187945
noname#187945
回答No.1

石の話はあくまで伝説だと思います… 早良親王のお墓はご存知のとおり淡路島にあり遺体もその墓に埋葬されていると言われています 桓武天皇が都を長岡京から平安京へ遷都させたのも早良親王の怨霊から逃れるためです 確かに後年 名誉を回復し崇道天皇として奉られた早良親王の遺体をわざわざ大和に戻すでしょうか? 怨霊から逃れるために遷都→死後名誉を回復したので遺体を大和に埋葬→平安遷都の口実が無くなる と言う事になります 逆に桓武天皇の威信が失墜すると思うのです 移送はされているようですが 御霊であって遺体自体は淡路島にあります。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >石の話はあくまで伝説だと思います… ええ、私も本当にあったことであるなどとは思っていません。 ただこういう伝説がなぜできたのか、と思います。 伝説を創作した人が想像力のある人で それで石を投げるというエピソードを思いついたのでしょうか? もしかしたらそういうこともあるかもしれませんが 伝説は何かを比喩的に表現したものであることが多いです。 例えば鵺は、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした妖怪とされますが、 志賀理斎という人によれば、 頭が猿=未申(南西)、尾が蛇=辰巳(南東)、手足が虎=丑寅(北東)であるとし 鵺を退治した猪早太=戌亥(北西)を意味しているのではないかとされました。 単なる伝説で片づけてしまわずに、なぜこういう伝説ができたのか、と考えてみるのは無駄なことではないと思いますがいかがですか。 また、単なる伝説である、と結論づけられたのであれば その理由はどのようなものでしょうか。 >移送はされているようですが 御霊であって遺体自体は淡路島にあります。 これは何かの史料に記されているのでしょうか? 記されているのであれば、その史料の名前を教えていただけますか? また、御霊のみ移葬された人物がほかにもいるのでしょうか? >桓武天皇が都を長岡京から平安京へ遷都させたのも早良親王の怨霊から逃れるためです 確かに後年 名誉を回復し崇道天皇として奉られた早良親王の遺体をわざわざ大和に戻すでしょうか? たしかに平安京遷都は早良親王の怨霊から逃れるためだと言われていますが、御霊というのは怨霊を神として祀ることで、怨霊とは正反対の守護神とする信仰のことではないでしょうか。 そう考えると、怨霊として恐れられた早良親王の遺体を守護神として大和に戻すということはありえそうに思えます。 それに、早良親王を移葬したとき、都はすでに大和にはありませんでした。 御霊を移すだけならば、なにも空っぽの陵をつくらずとも、神社をつくればそれでいいのではないか、と思ってしまいます。 >怨霊から逃れるために遷都→死後名誉を回復したので遺体を大和に埋葬→平安遷都の口実が無くなる と言う事になります  平安京遷都の理由は怨霊から逃れるためだけではなかったでしょうし 平安京そのものに怨霊よけの効果があったとすれば 早良親王を大和に移送しても問題ないように思えますが いかがでしょうか。

noname#190665
質問者

補足

再度回答いただけなくて残念です。 >移送はされているようですが 御霊であって遺体自体は淡路島にあります。 断定されているので、これはあなたの考えではなく、事実を述べているのだと考えられます。 事実であるのならばソースを示すべきでしょう。 ソースが示されていないものは、人を納得させることができません。

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