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大名

若年寄は実際にはどの様な職務だったのでしょうか? 老中というと、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代を経て就任するイメージで、若年寄は三万石以下の譜代の小大名が就く職というイメージがあります。 若年寄は、五万石以上の譜代大名にとってはいわゆる出世コースのポストではなかったのでしょうか?

noname#30350
noname#30350
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  • 6dou_rinne
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回答No.1

若年寄は譜代10万石以下の大名で多くは1~2石級のものが任じられました。願い譜代になって任命されることもありましたが、この場合は情趣ではなく領主(無城)から選ばれました。 この職にははじめから任命されることもありましたが、多くは奏者番⇒寺社奉行を経たのち、あるいは御側衆、大番頭などになっているものから選ばれました。 その職掌としては旗本を統括管理するものであり、徳川家の家政を管理する諸役は多くは若年寄の支配下にありました。 定員は4~5名で月番がありました。 若年寄から老中に昇進した例も多く、そういう場合はたいてい万石以上の加増をうけました。 5万石以上の譜代であれば若年寄ではなく老中を狙ったのではないでしょうか。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 若年寄から加増を受けて老中に抜擢された例も結構あったのですね。

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