• 締切済み

善と偽善の違いについて教えてください。

善と偽善の違いについて教えてください。

みんなの回答

  • a-sa
  • ベストアンサー率17% (29/169)
回答No.10

善ということばの定義にもよると思うんですが、行為が利己的であるかとか人に害をなすかといった外面的なところでは善と偽善を判断することはできないと思います。というか不可能です。 分りやすく説明するのは難しいですが、あえて語弊を恐れずに言うならば、善とは端的に言うと「天国にいくための行為」だと言えると思います。 なんかキリスト教徒みたいな言い方をしてしまいましたが、要は人が人として生きるために大事だと思うこと。その究極のところにあるのが「善」という概念だと思います。 そして、価値観が非常に多元的で相対化してしまった今の世の中では「普遍的な善」「絶対的な善」というものはあまり人に自信満々にいえるものではないでしょう。 善とはあくまで個々人の内面に存在するものです。 繰り返しになりますが、外から客観的に善を発見することは不可能です。 偽善とは表面上善行であると評価されそうでも実は内面の部分としてそのような「善」の方向を目的としていないような行為のことだと考えられます。 人の心を読めるようにでもならなければ、それが善であるか偽善であるかを判断することは100%は無理だと思います。 つまりある行為が善行であるか偽善であるかを評価するのは本人によらざるを得ず、他人が「君の行為は偽善だ」というためにはあくまでその人の内面が相当程度理解できているという前提が必要であると思います。 戦争や政治というのは個人の内面ではなく社会的な「現象」でありますから、そこには善も悪も存在しません。評価できるのは利益があるか無いかだけです。 そして利害が発生することと善悪がそこに込められているということはまったく無関係なことだと思います。 ちなみにgoo辞書によると ぜん 【善】 (1)よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない。 ⇔悪 (2)〔哲・倫〕 一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、人や物の性質(価値)がよいこと、望ましくすぐれていること。また、それらをよくあらしめる根拠。真・美とならぶ基本的価値の一。倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉とされる。 だそうです。

tamukikun
質問者

補足

>要は人が人として生きるために大事だと思うこと。 この部分を読むと外面的に判断できそうですけど。

  • 2necchi
  • ベストアンサー率33% (20/60)
回答No.9

No1です。 下記のご質問に答えます。 >一見善行為のように見えて迷惑がられる偽善の 違いは何なのかということです。 >>それは個々の判断によります。 自分がいいことだと主張すればいいことになるので しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか? これ、takumikunさんは偽善のことではなくて「独善」のことを悩んでらっしゃるように見受けられます。「独善」と「偽善」は違います。 独善というのは、「ひとりよがりに善いとしていること」もしくはそれを行うことを指します。人間というのは不思議なもので、「善い」と思ってしても他人には迷惑はことをたくさんします。新興宗教などで、「絶対にあたなのためになるのです!」と心から信じきってしつこく勧誘してくるとか、ナントカ研究所の真光丸で糖尿病が治ると思い込んでインシュリン投与をやめさせたら死んでしまったりとか、(もしそこに作為的な詐欺が無いなら)独善と言えるのではないでしょうか。 これは視野の問題で、自分の立ち位置から見ると、どう考えてもこれが正しい!と思えたとしても、相手の立場から見ると全然そんなことが無かったりする。 自分の立場からも、相手の立場からも、またその他の第三者から見たときに調和がとれるか、そういった多角的な視点で検証して「善い」と思えることをやれば、独善・偽善と言われることは無いでしょう。 で、「普遍的な善」というのはレトリック上で言うと時間軸的に判断される「善」のことですから、視点の問題ではなく、歴史認識の問題になります。 例えばキリストは西欧の認識では最たる「善」者ですが、ユダヤや十字軍遠征で殺された人々の視点から見ると歴史的悪になります。つまり「普遍的な善」というものはあまり問う意味がありません。 「絶対的な善」ということであれば、論理上は「いかなる視点から見ても善であること」になりますが、これも見つかりません。視点が違えば殺人ですら善になる。個人的には、人間が作用的に善を考察するならば、自分が影響する範囲・される範囲における最大限の善とは何か、を模索する以上のことは難しいと思います。

tamukikun
質問者

補足

>>それは個々の判断によります。 自分がいいことだと主張すればいいことになるので しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか? この部分をよく読んでください。私の意見ではなくて 回答者さんの意見を確認したのです。

回答No.8

No.2、No.3です。 たびたびで申し訳ありません。 「善悪」というのは相対的なものであるといえます。 受け止め手本人の主観であるとか、その環境などによっても異なったりします。 過去において戦争が正当化されたときも、その時代、その地域の環境では「戦争が善」である理由付けがあったからだといえます。 (日本においても第二次大戦時は「天皇陛下のために戦うのが善」と教育されてきたわけだし、イスラム系過激派のテロ集団についても「アメリカを、あるいはイスラムを傷つけるものを殺すのが善」とうんと小さいうちからしみこませたりするわけですから) つまり、善意を行おうとする側が「善」と思っているものと、受け取り手が「善」と思えるもの…その関係が一致したときでなければ「善」は成立しないのだと思います。 「偽善」という言葉自体その定義が曖昧なものですが、もしかするとそこに「胡散臭さ」が発生すると偽善、ということになるのかもしれません。 全ての人間において「善」である、という、いわゆる「絶対的な善」というのは、もしかすると定義できないのかもしれませんね。

noname#21883
noname#21883
回答No.7

「偽善」とは一般的に見て「善」と思われるような行為を“利用”して、 自分に有益なものを得ようとする行為ではないでしょうか。 感謝の言葉が欲しい。 善行を施している自分を第三者に見て欲しい。 などが代表的ですが、 要するに「善」そのものの行為よりも、その行為を行ったことによって生じる 「オマケ」が優先されるワケです。 お菓子を食べたいんじゃなくて、お菓子についてるオマケが欲しくて お菓子を買うのと似たようなものではないかと。 しかし偽善であろうと善意であろうと、結果が宜しければそれはそれで いいという考えもありますし、その逆もあります。 又「善」そのものの定義自体が曖昧ですので、その辺の判断でも 個人個人によって違ってきます。 ちなみに「おせっかい」などは「偽善」とはまた微妙に違うような気が 私はします。

tamukikun
質問者

補足

自分に有益なものを得るとなぜ偽善になるのでしょうか?

  • YSW
  • ベストアンサー率23% (33/141)
回答No.6

#4です。 ニュースを見てて、いい例を思いついたので、実例をあげます。 自衛隊がイラク復興支援に行っています。 自衛隊員の皆さんにとっては、善行のつもりです。実際、それによって助かっている人から見ても善行でしょう。 しかし、中国や韓国などの日本に否定的な人からすれば偽善と見えるでしょう。 さらにイラクの過激派の人にとっては、悪と見る人もいると思います。 つまり、1つの行為をとっても、見方によってぜんぜん変わってしまうということですね。

tamukikun
質問者

補足

回答ありがとうございます。 自衛隊の皆さんの行為で助かっている人からみれば 善行ですね。中国、韓国、過激派からみれば偽善、 悪でしょうが、割合からいったら少ないと思います。

  • YSW
  • ベストアンサー率23% (33/141)
回答No.5

偽善とは、「善行が目的ではなく、なにか別の目的のための手段としての善行」じゃないかと思います。(つまり、他の人の意見と同じですね) その「別の目的」が、良いか悪いかは、別次元の話で、行為自体を考えると「偽善も善の内」と言えると思います。 また、ほとんどの善行は、実は偽善なのかもしれません。 それを、あえて偽善と指差すなら、指差す方に何らかの意図があると見たほうがいいと思います。 > 普遍的な善の定義はないのでしょうか? 善と偽善の話とは、ずれてきますが、 普遍的な善は、ほとんど存在しないと思います。 良かれと思ってしたことが、余計なお世話だったりすることは、よくあります。 戦争だって善と善(正義と正義、または偽善と偽善?)が戦っているのであって、善対悪の戦争なんて、歴史上あまりないんじゃないでしょうか。

tamukikun
質問者

補足

回答ありがとうございます。 完全な善行はなかなかないかもしれませんね。 戦争自体は悪だと思うので当人たちがどう思おうと 悪と悪の戦いではないかと思います。

回答No.4

No.2です。 >私の聞きたいのはなぜ善と評価されるのか、また、 >一見善行為のように見えて迷惑がられる偽善の >違いは何なのかということです。 本文中にちょこっとだけ触れましたが、ポイントは受け取り手が「害」を感じるかどうかではないか、と感じています。 つまり「最後まで嬉しい」というのが「善」を成立させる基本なのではないか、ということです。 何か「ありがたい」と思うようなことをしてもらった後、しばらくして何か見返りを要求されるとか。 実はだまされてた、とか。 笹川氏の例ではありませんが、元が「(社会的に)悪人」であったが故に、すべての「善」を否定する人もいる…これもある意味「だまされた」に該当するかもしれません。 あくまで心理的に(笑) ただし「(俗に言う)悪人が行う善はすべて偽善なのか?」という疑問にぶつからざるを得ません。 「善」としてその行為を行った場合、世間の目はともかく善を行った当人とその受け止め手は「善」であると認識するはずですから。 「評価」は、人の主観によります。そこには大多数の意見(野次?(笑))が介在します。 だから、当事者間同士が「善」と感じ、そのことが完結すればそれで善…というのが一番シンプルなのでは?

tamukikun
質問者

補足

回答ありがとうございます。 人の評価はいろいろですよね。ですのである面は 善、ある面は悪という風に考えてみたらいいのかな と思っています。80%ぐらい善とか、20%は悪とか。

回答No.3

横ヤリ申し訳ありません。 >自分がいいことだと主張すればいいことになるので >しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか? No.1さんへの補足にこうかかれていますが、「善」は受け止め手が「善」と感じて初めて成立するのでは? たとえ、(善なり偽善を行った当事者)本人にとってそれが偽善であろうと売名行為であろうと、受け止め手が「善」と感じ、それによって不快感を得る人が(利害関係者の中に)いないのであれば、それは「善」であるのではないかと思います。 No.1さんの言うとおり、善と偽善の境目は非常に曖昧です。 受け止め手によってぜんぜん違うはずです。 故笹川良一氏(日本船舶振興会(現日本財団)主宰)は、戦前からの右翼活動家で、しかも日本に光栄ギャンブルとしてのモーターボート競走を定着させたという意味で、「偽善者」の筆頭に挙げられたりします。 しかし、そのモーターボートの収益金で寄付した福祉車両の台数は、いったい何台になるでしょう? 歴代の台数を数え上げれば、きりがなかったりします。 (現在の日本財団でも同じように活動をしています。日本財団寄付の福祉車両はよく見かけるはずです) 世間からは「偽善」と取られるかもしれないけど、少なくともそれで寄付を受けた福祉団体は、それを素直に「善」として受け止めているはず。 例え本人にとっては「偽善」であって、あくまで「偽善のつもり」で行った行為でも、それを死ぬまで貫き通したら、残された「偽善による善を受けた人々」は、「偽善」とは思わないはずですよね?少なくともだまされた実害が出ていない範囲では(笑) 中には「俺は偽善者だから」と照れ隠しのように言い続けて善意を積み続ける人だっているのですから、言葉のうわべでそれを判断するのはかなり難しいことです。 どうも話が難しくなってしまいますが(^^ゞ、少なくとも「善」だ、「偽善」だというのは、あくまで人の評価による…ボクはそんな気がしています。

tamukikun
質問者

補足

私の考えでは笹川良一さんの行為は読む限り 偽善ではなくて善だと思いますけど。要するに行為と その結果によって決まるということですよねえ。 私の聞きたいのはなぜ善と評価されるのか、また、 一見善行為のように見えて迷惑がられる偽善の 違いは何なのかということです。

  • 2necchi
  • ベストアンサー率33% (20/60)
回答No.2

goo辞書では、偽善のことを >本心からではない、うわべだけの善行。 と説明しています。 おそらく質問の主旨としては、本心だろうがうわべだろうが、良いことをするのならばそれは「善行」でいいんじゃないの?ということじゃないかと推察しますが、どうでしょうか。 だとすると、それは個々の判断によります。 偽善は、例えば善に見える行いをしているのだけれども、最終的には自分だけが得するように計算されていたりする場合によく用いますが、かといって誰にも損を与えずに自分が幸せになることが「偽善」とは言いがたいですよね。そうだとすると「情けは人のためならず」は偽善だということになってしまいます。 誰かを貶めるために、一見善にみえることをするのならば、それは偽善でしょうが。あまりそういうケースは多くはありませんよね。 また、元来「善行ができない」「考え方が善的でない」ために、他人のやることなすことを全て「偽善だ」という人もいます。それはその人が「善行」を理解できないために「裏があるはずだ」と邪推しているだけなのでこれも当たりません。 そういう意味では、「偽善」という言葉はあまり使わないほうがいいかもしれませんね。

  • 2necchi
  • ベストアンサー率33% (20/60)
回答No.1

goo辞書では、偽善のことを >本心からではない、うわべだけの善行。 と説明しています。 おそらく質問の主旨としては、本心だろうがうわべだろうが、良いことをするのならばそれは「善行」でいいんじゃないの?ということじゃないかと推察しますが、どうでしょうか。 だとすると、それは個々の判断によります。 偽善は、例えば善に見える行いをしているのだけれども、最終的には自分だけが得するように計算されていたりする場合によく用いますが、かといって誰にも損を与えずに自分が幸せになることが「偽善」とは言いがたいですよね。そうだとすると「情けは人のためならず」は偽善だということになってしまいます。 誰かを貶めるために、一見善にみえることをするのならば、それは偽善でしょうが。あまりそういうケースは多くはありませんよね。 また、元来「善行ができない」「考え方が善的でない」ために、他人のやることなすことを全て「偽善だ」という人もいます。それはその人が「善行」を理解できないために「裏があるはずだ」と邪推しているだけなのでこれも当たりません。 そういう意味では、「偽善」という言葉はあまり使わないほうがいいかもしれませんね。

tamukikun
質問者

補足

回答ありがとうございました。ですが聞き返さないと いけません。 >本心だろうがうわべだろうが、良いことをするのなら >ばそれは「善行」でいいんじゃないの? では、良いことはなんなのでしょうか。 >それは個々の判断によります。 自分がいいことだと主張すればいいことになるので しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか?

関連するQ&A

  • 偽善と善の違いって?

    前に http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2117763 という質問をしましたが範囲を絞って再び質問させて頂きます。(あちらは補足への回答がまだなのでまだ締め切りません) タイトルの通り、偽善と善の違いが分からなくなっています。 おそらく私は偽善者です。皆さんも上記質問のNo.2への補足を読めば、そう感じるでしょう。 私はかつて自分で本心からの善事だと思ってしたことを「偽善」と言われ、またそう言われた人を知っています。 そこで「なぜ善事をしたのか」と深く考え「私は偽善者だ」という結論に至りました。 しかし、どこまでが偽善といえるのでしょうか。 ボランティアの参加動機が「内申書のため」だったら偽善でしょうか。 「親にほめられるから」では? 「皆の喜ぶ顔がみれるから」では? 「いい事をしている自分が好きだから」では? 私は自ら老人看護職に就いた人と話したことがありますが「家族の方にお礼を言って貰えると嬉しい。報われた感じがする」と言っていました。 これは「お礼を言ってもらえる」ということを期待しているから偽善と言えるのでしょうか? 今、私の中では「理由なき善はない。だから偽善でない善などない」という結論があります。 だからマザーテレサも「みんなが喜ぶ顔を見れる」という代償を求めたということで偽善者になります。 「それはおかしくないか」と考える自分もいるのですが、先の結論に明確な反論ができないでいます。 募金に協力している人を見て面白がるように笑う人も、席を譲るのを「偽善者と思われるのが嫌」と思う人もいるのです。 哲学カテに質問してますが私にはその手の知識は一切ないので、回答に専門用語を用いる際はお手数ですがド素人にも分かり易い補足を付けて頂けないでしょうか。 長文の上に稚拙な文章ですが、言わんとすることを汲み取ってくれれば幸いです。

  • やらない善より、やる偽善 例えば?

    「やらない善より、やる偽善」と言う言葉がありますが、どういうことを指してるのでしょうか? 「助けるつもりはないけどお金が余ったから、募金しよう」 とかでしょうか?

  • 偽善者と善者って・・・

    偽善と善の違いを教えてください。 利己主義の何が悪いんですか? どう考えたって マザーテレサもオードリヘップバーンも 笑顔や相手の幸せを感じる事によって得られる 自分の幸せのためにやってた行動だと思うんです。 この人は本当の善者という人を見た事がありますか? いたら教えてください。 有名人でも隣人の話しでも良いです。 私は利己主義で 自己中心的な生き方を誇りをもってしてると思います。 私が邪魔なら人を殺しても良いし  社会のためなんて生きようとも思いません

  • やらない善よりやる偽善はもう古い?

    やらない善よりやる偽善ってもう古い? 反社会勢力のクソゴミから金を貰ったということで謹慎してる宮迫氏ですが 去年、千葉の豪雨の被災地にボランティアに行きました。 停電になって電気が通ってないところに物資を届けたりなど、ちゃんとしたボランティアです。 この行為に対して 「はいはい、反省してますアピールいりません。そんな気持ちでボランティアやるな。」「ボランティアは犯罪行為を許してもらう為にやるものではない。」 って感じの声がネットでたくさん出たようです。 同じように反社会的勢力のゴミから金貰ってた田村亮氏は相方の淳氏の 「ボランティアは反省の為に利用すべきではない。」という意見を聞いて、ボランティアに行くのをやめましたが、それが評価されてるくらいです。 東日本大震災の時はしょーもない芸能人が知名度アップの為にボランティアをしても 「やらない善よりやる偽善!」って感じで、もてはやされたりしてましたが、もう10年も経つとそれは終わったようですね 東日本大震災の時は江頭さんも似たようなことしてましたが、宮迫のボランティアもこれと同じです。 芸能人が物資を運んでその結果、好感度が上がったんですから過程はどうあれ結果は宮迫と同じでしょう。宮迫のがダメなら江頭もダメです。 行方不明の子供を誠意だけで探し出したスーパーボランティアの人のような方がやる行為のみしかボランティアとして認めない人が増えてるみたいです。 「あの人こそがボランティアだ!」みたいにかなり褒め称えられてましたし。 質問ですが あなたは A「やらない善よりやる偽善」動機はなんであれボランティアすることは素晴らしい、宮迫サイコーだ!という考えですか? B ボランティアは真から誠意を持っている人のみがやる尊い行為、不純な動機でボランティアやるな、宮迫消えろ!という考えですか? AかBの二者択一でお答えください。 「どちらでもない」とか「気持ちはAだけど宮迫のやつは認めない」とかは無しです。 私は極論しか興味ないので、ゼロから100かでお答えください。 あなたは下心満載のボランティアはありと思いますか?なしですか?

  • 「やらない善よりやる偽善」の元ネタ

    「やらない善よりやる偽善」 最近ネット上でよく見かけるようになったこの言葉の元ネタを探しています。 ご存じの方がいれば教えていただけますでしょうか。 漫画 鋼の錬金術師 第15巻 第58話 破滅の足音 29ページあたりに、 ユーリ・ロックベルという名の医者が患者を治療するシーンで、 怪我をした男「人助けして点数稼ぎか!? 偽善者め!!」 ユーリ医師「偽善で結構! やらない善よりやる偽善だ!」 というやりとりが描かれているため、このマンガが初出だと思っていたのですが、 そうではない、という方の意見をちらほらと見かけます。 しかしその中に、ではどういった経緯でこの言葉がネット上に広がることになったのか を明記されている方はいませんでした。 加えて、この言葉の真意を理解されている方は非常に少ないようにも感じられました。 この医者は、自らが軍事大国の出身者でありながら、反抗勢力の村で治療を続けています。 そのためにユーリは戦地で患者に受け入れてもらえず、 患者から敵意をむきだしにされ、罵られることになり、 それに反論する形でこのセリフを言っています。 つまり本来のこのセリフは、今まさに生命の危険にある患者たちに対し、 いくら罵ってくれてもいいから医者として治療をさせてくれ、という意味です。 少なくともこの作品内ではそうです。 しかしネット上では、こういったキャラクターの思想などはあまり理解されず、 「やらない善よりやる偽善」というわかりやすい言葉だけがひとり歩きしているような状態のため、 被災地に折り鶴を送ったりといった行動が、 ゴミになるだけで無意味、かわりに募金しろ、ただの自己満足だ、と批判され、 それに対して一部の方々がこのセリフを引用して反論しているために、 いつの間にか、非常に悪い意味で使用されるようになってきているように感じます。 とくに、東北関東大震災が起きた3月11日からはさらにひどくなってきているように感じられます。 被災地に折り鶴を送るなどといった、ある意味で独善的な行為と(そういったことが必ずしも悪いとは思いませんが)、 見返りを求めることもなく医者が危険をかえりみずに患者の命を救うことがどちらも偽善であり、 たいした差異はないと言いきるのであれば、僕はその方を軽蔑しますね。 ちなみに、この単行本は2006年12月に発売されています。 ぜひご意見をお聞かせください。

  • 偽善「」

    「善」と「偽善」の境目って、どのあたりなんでしょう?「偽善者」って、どういうことなんでしょう?

  • ボランティアは善か偽善か?みなさんのご意見をお待ちしております。

    づばりあなたの中で ボランティアとは「善」ですか「偽善」ですか? ボランティアと言っても幅が広すぎるので 発展途上国への支援と限らせて頂きます。

  • ボランティアについて。偽善か善か

    んと、タイトルで分かってもらえたかとおもいます。 砕いていくと、ボランティア活動について、ボランティアってこと自体が、本当の善であるのか?偽善なのか?とおもったので、きいてみました。 偽善と善が対義語なのかはわかりませんが、大体意味はつかんでいただけたかと。 できるだけ沢山の人の意見がもらえるとうれしいです。 まず始めに、俺自身はどちらかというと、偽善的な行為だとおもいます。 ボランティア活動について、確かに最近だと四川省だとか宮城の栗原・岩手の奥州での自身で、多分ボランティアとして復旧への活動?みたいなのをして、現場のひとたちはすくなからず、助かっていると思います。それに、その現場でボランティアをしている人たちも、自分からすすんで被災者の方々のためになにかできないか、ということで活動しているのだとおもいます。それ自体では善なのか偽善なのか、俺はわかりません。 しかし、普段のボランティア、町でのチャリティーとかそういった募金活動などのイベント的な活動を考えると、疑問に思います。 批判するわけではないですが、そういったイベントのなかで本当に活動している人たち全員が困っている人をたすけよう。という気持ちなのか、思います。 最近東京にいったのですが、駅をでたらすぐにホームレスがいました。 俺は目をそらしました。自分の意志でそらしました。 俺がボランティアを善と考え、困っている人をたすけようとおもうなら目をそらさなかったはずだし、何かしてあげることができたはずです。でも俺はしませんでした。結局ボランティアという集団の中でしか、活動できないんだなと思いました。 それに逆に海外でいうアフリカの子供たちだとか、南米のストリートチルドレンだとか、知識が浅いのでうまくいえませんが、そういった人たちからの視点からみれば、ボランティアとはどういう風にみえるのでしょうか?俺は、考え方によっていろいろだとはおもいますが、助けにきてくれたという感じの『喜び』などの感情と、裕福な家庭が自分たちを見下しにきた、という『憎悪』の感情があるとおもいます。 前者は見たとおりわかるとおもうのですが、後者は例えばそのアフリカだとか南米の話をきいて、企業なり芸能人なり、富がある物が莫大な募金などをしていろんな援助をすることについてです。俺は100人が100人同じ考え方をするとは思っていないので、そういった憎しみの感情をもつひともいるとおもいます。 そういったことを考えると、俺にとってボランティアという活動自体はいいことというか、社会的にはいいとおもうが、そこには純粋な天然水というより雨水みたいな、不純なものであるだろうとおもいます。 最後に、これといった知識もないのにでしゃばってみました。ネットの悪い使い方ですよね。犯罪的なことさえしなければ個人を特定できないですから、ほとんど言いたいほうだいなわけですし・・・。 以上、流さずに自分の意見をうってくれたらなとおもいます。 まだ人生経験も浅く、文もところどころ変なとこがあるかもしれません。それに一方的にボランティアを否定してる言い方かもしれません。 ただ、ボランティアに関心があるだけです。良いのか、悪いのかということではなく、他の人たちはどう思うのかが気になるだけです。 それに文章は見直してません。文章的におかしくなってるところあるかもしてません。そこは流してください。 なにとぞ、『運営スタッフに連絡する』は押さないようにしてください((笑

  • 偽善とは

    偽善とは読んで字のごとく、善を偽るですね? 具体的にどういったことでしょうか?

  • 偽善の意味が分かりません

    障害を持った人、あるいは高齢の方などが困った事に遭遇しているとき、私がたまたまそれを助けられる立場にいるなら助けます。 しかし、それを「偽善」と言う人が時々います。 偽善とは「偽者の善」という意味ですが、そもそも私は善をしたとも思いません。仮に善だとしても、当たり前と思ってする行為が偽者と言われる意味も分かりません。 私は、善のイメージのある福祉や親切心という気持ちはよく分かりません。 他者が困る→助けを求められる→実行可能か否か自己分析→可能と判断される→助ける というような思考で半自動的に動きます。損得も思いませんし、いい事をしたと言われるのも違うように感じます。 偽善と言われる事が不愉快で聞いているわけではありません。 私にとっては、良いことをしたと言われるのも、偽善と言われるのも同じように違和感を感じます。 しかし、「いい事をした」と言われる場合は、その人には「善」を行ったように見えてるんだなと発言の意味が理解できるのですが、 「偽善」と言われる場合は、どういった思考で「偽善」に見えている可能性が考えられるでしょうか?