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世界はよりよくなっているのか?

先日、大学の先輩と議論になって、 どうしても腑に落ちないことがあります。 私は、「歴史的にみて世界は発展している」と思うのですが、 先輩はマルクス史観批判や構造主義の議論を持ち出し、 「人間なんてたいして進歩していない」と主張しました。 私のたてたロジックは、 私にとって、身近な人間の死は不幸である ↓ 身近な人間が、病気、事故、災害などにあい、その命を救う手立てがない社会は、私は嫌である。 ↓ 身近な人間が病気、事故、災害その他で急死することは、時代とともに激減した。 ↓ まだまだ克服できない病気その他はたくさんあるが、命を救う技術は確実に進歩してきた。 ↓ ゆえに、世界は人間にとってよりよくなっている 簡単にいうとこんなところです。 先輩の反論は、 「一つの価値感だけでその発展の度合いを時間軸で追っていくことは無意味」 「そもそも死んでいく人間の数は、歴史的に見て昔もいまもそれほど変わっていない。むしろ戦争や紛争、飢餓などで、その母数は増えている」 というものです。 確かに彼のいうことも理解できるのですが、 人類の歴史が発展を前提にしないならば、 人間が今生きて社会生活を営んでいることに、 どれほどの意味があるのだ、 なぜ子供を生むのだ、 と思ってしまいます。 皆さんはどのようにお考えでしょうか。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • torauma
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回答No.14

レスありがとう。 案の定勉強家ですね。 がんばって下さい。 それはともかく 例えば、アメリカの黒人などは肉体的には随分進化していて、それは奴隷時代に過酷な生存競争さらされた、ために肉体的に優れた者しか子孫を残すことができない時代があった事が原因である。 と学んだ事があります。 人間といえども生物であって過酷な環境にさらされて尚、克服しえた者だけが生き残れます。 生理学的苦痛の大小は元々もって生まれた品種としての不足分もあります。 最も不足は運命であって、きっと人類は進化の目的物では無いのでしょう。 地球は現在の人類種全員数を”豊かに生活”させる能力は無いはずですし、中国へ経済投資が行われるようになった最近10数年来、それだけで日本人の経済的原因による自殺死が激増しました。 根本的には人口問題があるので科学技術が進歩しても”人類種全体からみて何も良くはならない”と感じています。 知識を幾ら学んでも人類世界は総合的に”良く”はならないと感じます。 「じゃあなんで勉強するんだ? 意味ないじゃん」と言われたら答えられませんけど。 まあ自分の人生なので、知識が増した分だけ楽しみは増えますよ、きっと。 ただし、 人間といえども、単なる生き物ですから他の固体を押しのけて自分が生き残ろうとし、戦争でもやります(最近ではイラク戦争など)。 戦争の大儀からすれば私個人などは虫けら以下ですが、なぜか家族・親類がハチャメチャな状態で”自分だけはしっかりしないと”と思う気持ちで生かされている様に思う事もあります。 ところで最近は役人・教師・警察まで、自分達だけの利益ために、悪事を働く事に無感覚な人達が増えたような・・・・、公職連中は学んだ知識を何に使っているのでしょうかね。 口実(建前)は立派でも悪事を働いて人を困らせては喜んでいる「国家予算の関係者」を裁判所が庇う国なんですよね。 極東アジア圏には中国・朝鮮・日本共に共通した問題があって「良く有る事」の割りに、一般には知られていない事もあるんですよね。 学校の勉強成績だけでは知識不足になります。 イヤ、まさか愚痴やたわごとを書くつもりはありませんでした。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「知識を幾ら学んでも人類世界は総合的に”良く”はならないと感じます。『じゃあなんで勉強するんだ?意味ないじゃん』といわれたら答えられませんけど」 非常に本質的な指摘だと思います。 つまるところ私が感じている問題意識とは、このようなものだと思います。 すなわち、 「人類の歴史なんて進歩していない」 「科学は結局のところ地球を救えない」 いずれもいっぺんの真理を含んでいるものだと思います。 しかし、現実にそのような諦念が何を生み出すのでしょう。 「悟り」だとか「人生観」といった個人的な処世訓程度にしかならない気がします。 それでも世界を動かすのは 「よりよくあろうとする意思」であると私は強く感じます。 ポストモダンが近代を否定したところで、 世界をなんら変えることはできなかったように、 そのような「諦念」が世界を動かすことは決してないのではないでしょうか。

その他の回答 (15)

  • torauma
  • ベストアンサー率20% (38/183)
回答No.16

>「諦念」が世界を動かすことは決してないのではないでしょうか。 私はどちらかというと、ガロア(フランスの数学者)の様に一介のチンピラとして生涯を若くして終えた人の価値を讃えたいんですよね。 もちろん、「世界を動かす」理念が単独一人の天才から発したと考えておりません。 本当にそうであるならば、単なる自慰行為で終わってますよね。 大半は国家的エリート というべき人達が評価発展させて、歴史的人物として後世に残ります。 元々の本人の実在性は関係なしで一握りの行動か理念だけが評価されて後世に伝わります。 一方で、例えば石原東京都知事の様に「日の当る所」で働く人にはそれなりの運がありますし、決して表に出る事が無く、日影で一生働く人達は相応の「自分が良く生きるため」の処世訓に埋れていると感じます。 でも歴史の真実は日陰の人達が「ガロア的功績」を創ってきたと思いますよ。 少なくとも今の私は、特定の理念にこだわる事があまり無い様に感じます。 でも良く知って深く追求し理解しておくべき事はありますよね。 特定の分野で徹底的に追求した経験は他の分野でも共通する姿勢が必要になったり、似たような経験教訓があったりしていて、やはり同じ人間のする事なんだなあと思う事あります。 個人的観点からの発展の話でした。 人類の知恵と知識も発展していれば良いですね。

  • hanpty
  • ベストアンサー率13% (12/88)
回答No.15

#10です。  さて、歴史を計ると言った場合それがどういう意味かは分からなくて当然だと思いますが、この場合、文脈上計りうる対象は「良くなったか」だけだと思います。良くなったがプラスで悪くなったがマイナス。過去と現在を計り比べてプラスに傾けば良くなったといった具合です。  え~っと、何気なく使ったのでなぜ分からないのかが今ひとつ分かっていません。ピントがずれていたらごめんなさい。  客観的立場を前提としないのであれば、質問の意図は客観的に事態を整理する事ではなくアンケート的な他者の考えに対する興味にあるのでしょうか? 発展を前提にしていないとしても、適応を前提としていると考える事はできるのではないでしょうか。 つまり金や権力のあるものが、病気に対して無力である事に我慢ならずに今の社会を作った。しかし、社会を作るのに(不可抗力にせよ)参加しなかった力の無い者は、身近な人間に分け与えるパンも持たずに飢餓で死ぬようになった(?) 楽な姿勢ってありますよね。人間として骨の形を変えたわけじゃないけど、体にとっては楽な姿勢。楽な姿勢に移った事は良くなったとは言えない事でしょうか・・・見方の違いですけどね、所詮。なんたって主観ですから。

Adadadada
質問者

お礼

たびたび回答ありがとうございます。 歴史を計る場合、なんらかの基準は必ず必要です。 そのような基準なしに、「みんな違ってみんないい」 などという曖昧な認識でとどめておくことは、 言葉としてはキレイですが、 どうもすっきりしませんよね。 質問の意図ですが、 そうですね、アンケート的な意味合いはたぶんにあります。 どちらかといえば、 観念的な議論よりも、現実的で生活レベルの理解に落としこめるようなディスカッションをしたいと思っています。 発展を前提にしているのではなく、適応を前提にしている、非常に面白い指摘ですね。

  • bigskull
  • ベストアンサー率23% (112/479)
回答No.13

どうも再び登場の#15です 先輩の反論の要旨は、他にも様々な要素があるから「医療技術の発展」だけでは「世界より良くなったという」根拠としては不十分で、仮にあなたの仮説に基づいて死者の数だけ見ても、「世界はより良くなった」とは言えないということだと思います。 つまり、先輩の反論に反論するためには、死者の数以外にあなたの「世界はよりよくなっている」という仮説を肯定する根拠をあげる必要があるし、医療技術の進歩以外の観点でも「世界はより良くなっている」事を示すか、医療技術の進歩を使うにしても単純な死者数に代わる指標を用いる必要があると思います。例えば、単純に死者の絶対数は減っていないとしても、生存率は確実に上がっているいるとか。 あなたの論理の盲点は、 ・命を救う技術は進歩しても、新たな命に対しての危機が次々に出現するというところ。 ・人口自体がその母数を爆発的に増やしているし、人間を殺したり、苦しめたりするのは病気、事故、災害ばかりではなので、単純に死者の数だけを指標にすれば、たとえ医療技術は右肩上がりでも、死者の数は時間と共に右肩下がりになるとは限らないこと(仮に病気と事故、災害のみが原因であったとしてもそれらは偶発的な要因によって左右されるので、右肩下がりになるとは限らないでしょう・・・) だと思います。 ちなみにさっきの回答で、「意味をなさない」みたいなことを言いましたが、それはそれだけでは論理の飛躍になってしまうという意味です。なんかはさまないと。 それともう一つ個人的に言っておきたいのは、問題があるのは何も視聴率重視の商業番組でよくお目にかかるような北朝鮮やソマリア、スーダン、バングラデシュみたいな特殊な国ばかりではないということ。 世界が百人の村だったらの受け売りではありませんが、全体から見れば日本人のように恵まれている方がよっぽど少数派です。 経済や医療技術が全体的に見て進歩しているとしても、その恩恵の享受のされ方は世界的に見るととても平等なものとは言えないのです。

Adadadada
質問者

お礼

するどいご指摘ありがとうございます。 下の回答でも述べさせていただきましたが、 論点を「医療の発展」にしぼったことは意図的なものです。 あらゆる観点から鑑みて、人間の歴史に発展があったのか判断することは現実不可能なのではないでしょうか? ますます多様化し複雑化する世界の全ての事象を把握することは不可能ですし、 そもそもそのような姿勢自体、現実に意味がないように感じます。

  • bigskull
  • ベストアンサー率23% (112/479)
回答No.12

なぜ、今までは発展していない=これからも発展しないということになるのかいまいちよく読めません。 「今まで」世界はよりよくなっているのかという議論とは違うのですか? 今までの人間の歴史がどうであったかという議論ならなば、 >人類の歴史が発展を前提にしないならば、 >人間が今生きて社会生活を営んでいることに、 >どれほどの意味があるのだ、 >なぜ子供を生むのだ、 という反論は意味をなしません。

Adadadada
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご指摘の点ですが、 私たちが生きる現在は過去からのなんらかの連続性のうえに存在していると思います。 それを歴史の必然というのか、 偶然の積み重ねというのか、議論は分かれるところだと思いますが。 そのような意味で、 私はやはり歴史を学ぶ意味はあるのではと思うのですが。

  • Gungnir
  • ベストアンサー率17% (110/612)
回答No.11

まるでアムロとシャアの考えを引用したような議論ですね。 あなたがアムロで先輩がシャアです。 このまま行くと先輩がニュータイプになれない(進歩のない)人類に失望してコロニーを落として地球上に残った人類を粛正して全人類を宇宙に住むニュータイプにしようとするのでしょうね。 で、あなたが 「貴様ほど人類に絶望しちゃいない!人間の知恵はそんなものだって乗り越えられる!」 となるわけですな。 でも#13=イエすきりスト=泣く噛み様 のような人見ると、進歩ないよね。 と思うんですが。 まあ暇だったら、元ネタの 「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」 でも見てください。 似てるから参考になるかもよ。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そのあたりには疎いので、今度機会があれば さがしてみますね。

  • torauma
  • ベストアンサー率20% (38/183)
回答No.10

>人間が今生きて社会生活を営んでいることに、 >どれほどの意味があるのだ、 >なぜ子供を生むのだ、 >と思ってしまいます。 この質問に個別の主観的良(善)悪を入れるとマズイ事になります。 おわかりですね。 「発展」という言葉についても同様です。 直感的に言わせていただくと、歴史カテとしては不都合なのかもしれませんよ。 マルクス・レーニン主義の性格は人類種については悲観的・厭世的なものでした。 そのため権力の性格自体が人類に対して凶悪なものとなったのです。 それは大衆という名の多数の貧しい、無知な人々によって正当化されました。 ところであなたは、他人の人生とその意義について、どのようにお考えなのでしょうか。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私の言いたかったことはようするに、 「人間がよりよい世界を目指して生きていないとするなら、 絶望に満ちた将来を描いているのなら、 そこに生きる意味はあるのだろうか、 苦痛しかまっていないのに、なぜ生命を生むのか」 という問題意識から派生するものです。 もっと本質的なところに言及すると、 人類が進歩していないのは事実としてわかった、 では、人類が進歩を志向することは無意味なのか、 ということです。 他人の人生とその意義について、ですが、 ちょっと質問の意味がうまくとれません。 申し訳ありませんが、 もう少し詳しく説明していただけますでしょうか。

  • rabbit_cat
  • ベストアンサー率40% (829/2062)
回答No.9

#5ですが、ついでに書いておくと、私自身は神の存在を否定しているわけでは全くないです。 私は、いわゆる理系の研究者と呼ばれる職についていますが、なぜ世界の物理法則がこのように決まっているのかは非常に不思議です。 物理学者の究極の夢は、「すべての現象を説明できるただ1つの法則」を発見すること、なわけですが、もしそれができたとして、「では、その法則はなぜあるのか?」という疑問が当然生れてくるはずです。 これは、「神が創った」と言うしかないですね。 ただし、#5でも書いたように、「正しい理想の世界」っていうのものが始めにあって、そうなるように世界が動いてきた(あるいは、神が偶然を操作した)とは思えないですね。)神の役割は、あくまで世界のルール(唯一つの究極の法則)を決めることであって、そのルールのもとで世界がどう動くかは制御しているとは思えません。 下で述べたように、そもそも「正しい理想の世界」というものを定義すること自体が不可能なんで。あえて定義すれば、やっぱり「今、たまたま実現した世界のことを『理想の世界』と呼ぶことにしよう」しかありえないと思います。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 非常に面白い議論ですね。 「科学も宗教も根は一緒」といったところでしょうか。 そのあたりの議論は、私も結構好きですね。

  • hanpty
  • ベストアンサー率13% (12/88)
回答No.8

>「一つの価値感だけでその発展の度合いを時間軸で追っていくことは無意味」 これに対しては何を以って発展したか進歩していないかを計るのか、両者の合意によって結論を出すべきかと思います。 >死んでいく人間の数は、歴史的に見て昔もいまもそれほど変わっていない。 >むしろ戦争や紛争、飢餓などで、その母数は増えている」 救われる人間の数以上に死に直面する人間の数が増えているとおっしゃるのであれば、増加した人口をも考慮に入れるべきですよね。  その上で申し上げるのですが、あなたのロジックは根本があなたの主観であり、他者と見解を合わせるための客観性に欠けております。つまり、あなたにとって良い世界である事を以って(先輩に)良い世界となった事を主張するには、いささか無理があるという事です。  先輩は先輩であなたに基準を明確には示していないようですし、まずは人類の歴史の計り方を検討なさってはどうでしょうか。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ご指摘の通り、私は私の主観をそのまま当てはめています。 実はこれには多少意図的なところもあって、 そもそも、すべての人からみて客観的だと納得できる 立場が果たして存在するのだろうかという問題意識があります。 それから、 「人類の歴史の計り方」の意味がちょっトよくわかりません。 よろしければ説明をおねがいいたします。

noname#25553
noname#25553
回答No.7

興味深い議論ですね。私も参加させてください。 確かにある面では著しい発展はあると思います。 質問者様の言う通り、医療や科学水準の向上により、病気や不慮の事故で亡くなる人はずいぶんと減ったでしょうね。また人権思想や平和主義が広がり、かつてほどは戦争が起こりにくい世の中になったように思います。 ただ、死の数が減った分、その重みが増したような気がします。昔のように乳幼児や少し虚弱な人が次々と死んでいた世の中では、一人一人の死を現在ほどは悲しんではいなかったのではないでしょうか。 また、確かに克服した病気は多いけれど、現代では例えば心の病、生活習慣病といった、昔は少なかったであろう病で苦しむ人も増えています。 寿命が伸びた上に医療が発展したため、簡単な病気で命を落とすことはなくなったけれど、色んな病気を患うようになった、というのもあると思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 文明の発達によって、人類は確かに便利で快適な生活ができるようになりました。 しかし、その分地球へ与えるダメージも増大し、あまり好き勝手なことをやっているとどうも未来は暗そうです。 文明は発達しても、一生物種としてのヒトの生存力は、恐らく急激に衰退していると思われます。 極端な話ですが、人類がずっと狩猟採集生活を続けていれば、あるいは恐竜と同じくらい長く生き残ることができたかもしれません。生態系に与えるダメージが少ないですからね。しかし、現代人のような生活では人類は到底そこまで長持ちできないでしょう。まあ、どれだけ環境と文明を両立させるかというのが今後の科学の目標なのでしょうが・・・。 現代の世代の便利さ、快適さ、安心といった短いスパンで見た場合は、確かに人類は進歩しているようだけど、人類全般の未来という長いスパンで見た場合は必ずしも進歩しておらず、逆に衰退しているものもある・・・といった感じでまとめましょうか。 長々と失礼しました。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 きわめて20世紀的な発想ですね。 短いスパンで見た場合、人類は進歩しているが、 人類の全歴史的な長いスパンでみると実はたいして進歩していない。 手塚治虫なんかが火の鳥で描いているようなテーマにつながっている気がします。 死の数が減った分、ひとつひとつの死の重みが増したことは確かだと思います。 ただ、それはある意味で本来のあるべき姿であると思います。 だからこそ、生きることの意味が見えてくるだろうし、 悲しむ余裕がないほどの多くの死に囲まれて生きるなんて、 考えただけでぞっとしますね。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.6

地球上の生命にとって、死は悲劇ではありません。 むしろ進化の過程で勝ち取った多様化の決定的なシステムと言えます。 遺伝子をまるっきり同じコピーをつくることは種の脆弱さとなります。 似ている遺伝子をつくるために、男女が生まれ、死/生が生まれたのです。 ライオンがウサギを食べたり、象が草を食べることに構造的な問題は何もありません。 人間の問題としては、同じ種である人間を殺すこと。であると言えると思います。 ライオンはライオンを殺しません。少なくとも人間ほどには。 これについては、昔と今を比較しても仕方がないと思います。殺す手法も違いますし、一度に殺すことができる数も違います。 昔も今も、人間は人間を殺している。という点には違いはありません。 病気は、相手がビールスやウイルスで、向こうも進化しているので、いたちごっこですね。 ビールスやウイルスが遺伝子の異変を誘導することによって生命を進化させるという説もありますので、いちがいに否定するのもどうかと思います。 事故や災害は、しかたがないでしょう。 どこかの惑星に彗星がぶつかったりしていますから、ハプニングは人間や他の生命がいてもいなくてもおこります。 人間という種の特徴は、さきほどの同種を殺すという点以外に多々ありますが、大きなものとしては、人間の進化そのものの特徴だと思います。 人間の肉体そのものは、それほど進化していません。 しかし道具は極めて速いスピードで進化しています。 つまり人間は道具を進化させることで人間という種を進化させている訳なのです。 人間は大きなエネルギーを取得しました。遠方に行く手段も獲得しました。コミュニケーション手段も、様々なアートや文学の表現手段も・・・ ですから、人間は速いスピードで進化している最中であると言えます。 それを好むか好まないかは個人差があります。 良いか悪いかの判断もそれぞれ個人がすべきでしょう。 例えば、地球が太陽の周りを回っている。良いのか悪いのか?という質問をしているように感じます。

Adadadada
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 非常に面白い議論ですね。 しかし、抽象的に過ぎる気がします。 私は「世界はよりよくなっているのか」という抽象的な話を、 現実レベル、個々の生活レベルで考えてみたいと思っています。 ですので、 「地球上の生命にとって死は悲劇ではない」 というのには賛成できません。 観念としては理解できますが、 死はやはりとてつもなく悲しいです。

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    中学二年生の社会の歴史の問題です。 私も考えたのですが、うまくまとまらなくて・・・。 どうぞ皆様、よろしくお願いします! §6 次の問題に答えよ。 《世界恐慌から第二次世界大戦へどのように発展し、終結したんだろうか?政治面、経済面、外交面から考えなさい。》 全部で352文字で、 プラスマイナス10文字まではOK。 「第二次世界大戦」「世界恐慌」「ファシズム」「ブロック経済」「太平洋戦争」「日中戦争」の 6つの語句を使用して、「論文」として書くこと。 だそうです>< あ、なにかの入試問題とかではないので ご安心下さい^^ それではご回答を待っております。

  • 世界はわれわれが どこへ行こうとしているのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:世界への寄り。                  アニミスム&シャーマニスム                  世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                  時間的存在の自覚。 《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:二階から世界を寄せる。                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが生活共同にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。  その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  [スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)]  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. なおわが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・

  • (日清)日露戦争について

    以前日露戦争について議論したことがあるのですが 私は角田順氏の本や黒羽茂氏の本などを読んでいたので、私は 「日露戦争は本土防衛のための戦争であり、日本は安全保障上の理由から開戦にふみきった」と主張しました。 すると相手の方に「それは右翼的で歴史修正主義に通じるものだ」と言われました。 そこで大江志乃夫氏や稲葉千晴氏などの著作を薦められ、大体は読みつくしました。 確かにこの学者様の論調は冷静で「なるほど。確かにそうだ」と納得のできるものでした。 しかしながら自分の有する考えを否定することもできず、前者の立場を肯定するような本も読んでいます。 色々読んでいるのですが読めば読むほど分けが分からなくなってしまうのです。最近では両派の主張は全くベクトルの違うことを論じあっているのではないか?とも思うようになりました。 いったいどちらが正しいのでしょうか? (私個人には帝政ロシアは信用できない等の先入観はあると思います) もうひとつお聞きしたいのですが、自国の立場から歴史を考えるというのは間違っているのでしょうか? やはり歴史は多様性を持たせるべきなのでしょうか? そして前者が自由主義史観(自慰史観)につながり、後者が進歩史観(自虐史観)に通ずるのでしょうか? 日清日露戦争はセットで考えるべきだと思います(両方とも朝鮮半島問題が起因している)ので()付けにしました。 分かりにくい文章ですみません・・・ ご回答いただけたらと思います。