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佐賀鍋島家について

佐賀藩は三支藩・親類・親類同格の領地・知行だけで二十五万石を越えますが、残りの十万石余りで三十五万石の国主として家格を維持出来たのでしょうか?

noname#30350
noname#30350
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  • subaru360
  • ベストアンサー率37% (63/167)
回答No.3

鍋島藩は、もともと竜造寺を追い出したかたちで肥前の国主になりましたから、藩主の直轄領そのものはあまり多くありません。有明海を干拓して石高は倍近く増えていたという話ですが、それでも長崎警護の役目を幕府より受けており、このため、慢性的な財政危機に悩まされていました。 幕末の藩主鍋島直正公は、旧来の借金を棒引きにちかいかたちで整理して、藩の財政を立て直しましたが、特産品である焼き物等の振興はもちろん、唯一の貿易港である長崎港を抱える地の利を生かして、いわゆる密貿易に活路を見出したといわれています。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 長崎御番はやはり相当な負担だったのでしょうね。 長崎奉行や唐津藩はかなり役得が多かったそうですが、外様の大藩の黒田や鍋島は甘い汁は吸えなかったのでしょうね…

その他の回答 (2)

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

補足です。 一般の大名家の場合はむ無役でも家禄が減らされることはありませんでしたが(半知借上げなど一律削減はありましたが)、鍋島家の場合は家老の家柄であろうと役につけなければ最低限の生活ができるかどうかの扶持しか与えられず、しかも能力主義が徹底していたので家柄に安住しているわけには行かず、明治維新で多くの人材が輩出できたといわれます。

noname#30350
質問者

お礼

佐賀にしても、薩州・長州・土州にしても、良くも悪くも多くの人材を輩出する土壌があったのでしょうね。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

ほんとうの収穫高はもっとすくないのに家格をあげるために表高を挙げてもらったという例はたくさんあります。(水戸徳川なんかもその例です。) ほかのことは削っても家格に見合う体面をを維持するだけの費用はなんとか捻出していたようです。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 江戸定府の水戸家の財政は慢性的に逼迫していたようですね。 毛利長門の様に実際よりかなり少なく申告させられた家もありますけど、何故だかこちらも財政状況が悪かったようです…。

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