支藩と大名行列について

このQ&Aのポイント
  • 支藩の形態や朱印状についての調査結果をまとめました。
  • 大名行列における支藩の役割や動きについて考察しています。
  • 各種朱印状の形式や支藩の大名行列に関する疑問を解決するための調査結果をまとめています。
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支藩、大名行列について。

支藩の形態についてふと気になって調べました。 以下wikipedia 本藩と支藩それぞれに対し、別々に朱印状が発給される場合(宇和島藩や讃岐高松藩の例) 本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高と支藩分の石高が別建てで記載されている場合(「本藩○○石、支藩○○石」…この場合、本藩知行(朱印高)は本来領知を認められて朱印状に記載された分(拝領高)から支藩分(内分高)だけ減少する) 本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高に含まれる形で支藩分の石高が記載されている場合(「本藩○○石そのうち支藩○○石」…この場合、本藩知行は実質では支藩分だけ減少するものの、朱印高は維持された) 本藩宛ての朱印状に支藩が併記されず、支藩宛ての朱印状も発給されない場合(○○新田藩に多い…新田開発分は幕府が検地などで公認したものでないため拝領高とは看做されなかったため) おそらく1番上のやつは支藩というより別家で、一番したやつは支藩というより陪臣でしょうか。 これら大名行列はどうなってるのでしょうか。一番上のやつは当然それぞれ独立に行うのでしょうが。 2番目のやつは主君と一緒に大名行列でしょうか?交互にでしょうか? NO1とNO2が同時に国元離れるのは違和感あります。 3番目のやつは主家だけ総石高分の大名行列でしょうか??? 4番目のやつは???

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回答No.2

具体的な事例を探しました。 ◆どの分類に入るのか分かりませんが、加賀藩と支藩の大聖寺藩、富山藩の場合はどうでしょうか。 富山藩は、参勤交代では加賀藩と入れ違いで江戸・国元を行き来したそうです。 大聖寺藩は、初代藩主・利治から 14 代藩主利鬯までの約 220 年強の間に合計 181 回(参勤 89 回、交代 92 回)で、平均270人規模の大名行列だったそうです。 富山藩参勤交代 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/edo-toyamahan/sankinkoutai/sankinkoutai.htm 大聖寺藩参勤交代 http://sankinkoutai.sakura.ne.jp/sankinkoutai2019hp/daisyoujihan.pdf#search='%E6%94%AF%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3' ◆佐賀藩(宗藩)と鹿島、小城、蓮池の三支藩の場合は、分類3に該当すると思います。 三支藩の参勤交代は、寛永17年(1640)に認められ、三家交替(一家は江戸詰、二家は国元)制をとり、幕府は三支藩を部屋住格の大名としたそうです。 佐賀藩 https://saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2492    佐賀藩 http://www3.saga-s.co.jp/pub/hodo/kaikaku/kaikaku8.html  ◆仙台藩の支藩・宇和島藩には、伊予吉田藩という支藩があったそうです。 宇和島藩と伊予吉田藩とは交互に参勤交代しています。 よく分かる資料を見つけました。 武鑑全集「寛政武鑑(1789)の大名家一覧」 http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/ #29、30をご覧ください。 ◆小倉新田藩は豊前小倉藩の支藩ですが、参勤交代したそうです。 #88、89をご覧ください。 初代藩主・小笠原真方は、帰路、海難事故で亡くなったそうです。 産経新聞 2018.8.11 10:25 https://www.sankei.com/west/news/180811/wst1808110029-n1.html 以上、ご参考までに。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり主藩と支藩は交互なんですね。 加賀と宇和島は分類2で、分類4の小倉新田藩さえ参勤交代があったんですね。 拝領高ではない新田藩でさえ参勤交代があるとなると、いたずらに全体での出費が増えるのでいささか以外なものがあります。 一般的には大名は参勤交代の負担にあえいでるものとして扱われますが、負担をものともせず新田藩を立藩したのは興味深いものがあります、しかも多くが外様の遠国。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • pri_tama
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回答No.1

 支藩の藩主の大部分は、江戸定府だった様です。  将軍の直臣[諸侯]として仕える事が出来る様にする為に、所領を分割し支藩として立藩させている訳ですから…。  (大大名だと万石以上の所領を持った一族筋・家臣がいるのは珍しくないのですから、将軍の直臣化させる必要がなければ支藩として立藩させなくても良い。)  肥前佐賀藩の支藩である、蓮池藩は参勤交代の免除を幕府に申請したのに本家の佐賀藩が却下した事例も有りますし…。  本家と分家の関係次第だったりします。 (立藩の経緯から佐賀藩的には実質別家扱いなうえ、仲も悪かったみたいですから負担軽減を邪魔した可能性も…。)

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 佐賀藩の石高が上下した形跡はありませんし、御例示の支藩は「佐賀藩35万石そのうち蓮池藩5万石」といった形式でしょうか? これは独立して大名行列を行っていたんですね、佐賀藩本藩とは交互のタイミングで出府していたと思ってよろしいのでしょうか?

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