• 締切済み

広島と長崎 原爆投下時なぜ空襲警報が無かった?

広島と長崎に原爆が投下された際、確か空襲警報が無かったと…。 B29は1万m付近の高高度から来るとはいえ、なぜ都市上空にやすやすと侵入を許してしまったのか。なぜレーダー補足もできていなかったのか?なぜ空襲警報を出せなかったのか? 侵入を認識していて、迎撃に出ていれば撃墜こそできなくても、投下出来なかったかもしれないし、空襲警報が出ていれば、防空壕に避難する等して、多少は被害が抑えられたと思うのです。亡くなられた方のご冥福を祈りつつ、投稿させていただきます。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数0

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10470/32925)
回答No.3

日本は英米独仏ソの各国に比べると工業力、技術力という点で遅れていたのですが、特に電子機器に関しては英米独に比べると雲泥とか月とスッポンという言葉では足りないくらいに大きな差がありました。iPhoneと電卓くらい違ったかも。 まず「レーダー補足ができなかったのか」は、そもそも日本全土にいきわたるレーダー基地がありませんでした。日本軍には陸軍と海軍にそれぞれ航空部隊がありましたが、それゆえにレーダー基地も陸軍の基地があれば海軍の基地があり、要するに効率がとても悪かったのです。日本全土のレーダー基地を一元管理してそれぞれの基地で捉えた情報を集めて迎撃や空襲警報を出すというシステムそのものが存在しなかったのです。 おまけにレーダーの性能も低かった。レーダーというと我々は丸い画面を線が一周して捉えた映像が点滅するっていうアレがありますが、あれはアメリカが苦労して開発したやつでして、当時の日本軍のレーダーは波形を見て判断していたんですね。その波形を見るには熟練した経験が必要で、日本軍はその人材も不足していました。しかも質が悪くて波形も不正確だったのです。 今も昔も電子機器ってのは部品の精度の高さが求められます。当時の日本は今の中華製品やインド製品あたりのイメージと同じで「安くて質が悪い」ものしか作れなかったのです。ちょうどこの回答を書く昨日にNHKスペシャルでそんな話をしていましたが、当時の日本はネジ1本の質もバラバラだったのです。ネジ穴とネジが合わないなんてのはザラにありましてね。当時はネジの山の中から1本1本ネジを取り出して穴に合うやつを探さないといけなかったのです。 太平洋戦争中に鹵獲したアメリカ軍のトラックを日本軍の整備兵が整備したとき、同じサイズのネジならどこのネジを入れても綺麗に収まることに日本軍の整備兵は気づいて、この戦争は勝てないと思ったそうですよ。 で、電子精密機器ってのはレーダーもそうですが、無線機も同じ技術です。電波を使いますからね。レーダーも質が低かったので、無線機も推して知るべし。戦闘機に搭載されている無線機は役に立たないので、少しでも軽くするために外すパイロットも少なくありませんでした。 なので迎撃するにしても、離陸した迎撃機に無線で「爆撃機はどっちに向かっている」みたいなことを伝えることはできなかったのです。離陸前に「このへんにいるらしい。目標は多分あっち」と聞いて、あとは飛びながら気合と根性で敵機を見つけるしかなかったのです。 通常の大空襲は、それこそ何百機というB29が都市に向かっていくわけですから嫌でも目立ちます。けれど偵察のためにB29が1機だけ飛んでいくのもよくありました。この偵察機は毎日どこかに飛んでいるわけですから、軍も市民も「また偵察機が飛んでいる」くらいの慣れはありました。「北朝鮮がミサイルを飛ばした」というニュースにもう我々が驚きもしなくなったのと同じです。時々「近々北朝鮮がまたミサイルを飛ばすかもしれない」ってニュースが流れるじゃないですか。でもみんな「ふーん、またいつものことでしょ」程度にしか捉えません。 「B29は高度1万メートルから、ゆうゆうと爆撃したから日本軍はなす術もなかった」とはよくいわれることですが、これは半分当たりで半分ハズレです。 確かに米軍は、当初は高度1万メートルからの高高度爆撃を実施していました。しかしそんな高い高度から爆撃してもなかなか命中せず、効果は低かったのです。 で、あるときに米軍は「日本軍の夜間戦闘機の性能が低い」というのに気づいたのです。だから夜間爆撃ならほとんど被害を受けないだろうと判断して、東京大空襲では高度3000メートルくらいのかなり低い高度から焼夷弾をばら撒く戦術を行いました。これで一説には10万人を超えるとまでいわれる被害者が出ました。 ただ広島と長崎に関していえば、核兵器は放射能による被害も大きいので、仮に防空壕に避難できたとしても被曝することは避けられず、特に爆発後に起きたという放射線物質をたっぷり含んだ「黒い雨」にうたれて多くの人が原爆症に苦しむことになったのは避けられなかったと思います。 核兵器から身を守ろうと思ったら、爆発後から1週間くらいは核シェルターから出てはいけないんですよ。どんなに短くても数日は核シェルターから出るのは禁止です。これは覚えておいてください。爆発が終わったからといってドアを開けようとするやつがいたら即座にシバいて止めないと被曝します。

  • spock4
  • ベストアンサー率27% (280/1004)
回答No.2

経緯については、No.1のが詳しいので、その他について。 当時の日本軍のレーダーは貧弱で、最大有効距離が250Kほど、何かが接近しているのがわかるだけ、と言う性能だったようです。 なので、最大の情報は目視だったようですが、さすがに何かが接近していれば警報は発令されたようです。 ただ、B29の高度まで迎撃できる戦闘機がほとんど無く、あっても大半は首都・中京・京阪神に配備されており、九州地区の迎撃部隊では、(有効な打撃を与えられる機体がないので)撃墜するには体当たりしかない、と認識されていたようです。

  • humans
  • ベストアンサー率25% (17/67)
回答No.1

昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。 深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。 この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。 一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。  この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。  「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。 人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。  原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。 火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。  爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。  原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。  原爆被害の概要についてもっと詳しくお知りになりたい場合は、ヒロシマ・ピース・サイト(広島平和記念資料館ホームページ)をご覧ください。 長崎に原爆が投下される直前の午前10時53分、原爆搭載機の動向を察知した日本軍が空襲警報を発令したという記録もある。 防衛庁防衛研究所戦史室によってまとめられた『本土防空作戦』(朝雲新聞社)に、詳しい経緯が記されている。 《国東半島から北九州地区に向かうB-29二機が発見されたので、西部軍管区司令部は一〇五三(10時53分)空襲警報を発令した。 広島に対する原子爆弾投下の状況から、このB-29も原爆搭載機であろうと判断された。 敵機は八幡上空を旋回後、同地南西方に向かった。   第十六方面軍司令部においては、敵機の攻撃目標を長崎と判断し、ラジオその他各種通信機関を利用して「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」と繰り返し連絡した。 このとき、特殊爆弾投下の疑いがあるとは付け加えなかった》 だが、結果的に空襲警報も退避命令もどちらも長崎の人々には届かず、逃げる間もなく原爆が襲った。 行政側も、無策で待っていたわけではない。当時、長崎県知事だった永野若松氏は、広島原爆の話を聞き、無傷だった長崎にも原爆が投下される可能性が高いと判断し、会議を開いている。 それが8月9日の朝だった。 《皆を知事室に集め、「それでは」と言いかけたところに、佐世保市長の小浦君が来て、室に入れたら、「広島はエライことになりましたね」という。「今、ちょうど、そのための会議を始めようとしたところだ」と言った途端に、電灯が消えた。壕の外に出て見た。遥か向こうの浦上方面一面が、真黒な煙に包まれ、赤い火の手はまだ見えなかったが、濛々(もうもう)として大火事となっており、ずっと高いところまで雲のような煙が立ちこめていたのである》(『長崎県警察史下巻』)  県知事たちは爆心地から2.7kmほど離れた防空壕にいたため、電気が消える程度の被害ですんだ。救護や対応の指揮はこの防空壕で執られ、原爆による甚大な被害についても、中央に伝えられた。  実際に長崎で空襲警報が鳴ったのは、原爆投下から7分後のことだった。 なぜ警報が遅れたのか、その理由は定かではない。

関連するQ&A

  • 広島・長崎への原爆投下について、

    広島・長崎への原爆投下について、 米運は原爆投下に先立って実験を繰り返したと思われますが、核実験はあったでしょうが、 実物の原爆投下実験はあったのでしょうか。 歴史的な爆弾です。ある意味では国家のメンツもかかっています。 また、不発に終わると、日本側に原爆が渡ってしまいます。 また、少数の編隊では撃墜される危険もあったはずです。 それで、質問です。 質問1. 米軍は、原爆投下に先立って、実物の投下・爆発実験をしましたか。 質問2. 通常は、大編隊で爆撃するのですが、何故、原爆の時だけ少数機で飛来したのでしょうか。 質問3. 米軍は、不発の場合の危険性を考慮しなかったのでしょうか。 質問4. 米軍は、撃墜された場合の対応を考えていたのでしょうか。状況から、全く考慮されていない無謀な爆撃としか考えられません。これは、兵士の安全について無謀というのではなく、国家のメンツにかけて無謀だと考えるのです。 よろしくお願いします。

  • 「神戸大空襲」 「東京大空襲」 「広島・長崎原爆」

    「神戸大空襲」 「東京大空襲」 「広島・長崎原爆」 1.それぞれの実施された日を教えてください。 2.広島と長崎って言いますが、同じ日に投下されたのですか? 広島がメインな印象ですが・・・(原爆ドームとか) 3.他に第二次大戦中の「大空襲」ってありますか? 私の祖母が「神奈川県横浜市鶴見区でも空襲があった」と言ってましたが・・・(鶴見の総持寺というお寺に逃げたらしい)

  • 長崎に原爆を投下したB29の飛行ルートについて

     私の祖父から聞いた話です。  終戦直前、祖父の部隊は敵の本土上陸を想定して、熊本の海岸で塹壕を掘っていたそうです。  8月9日の昼前にふと空を見上げたら一機のB29が悠々と飛び去るところだったそうです。そのときは何とも思わなかったようですが、もしかするとあれは長崎に原爆を落とした飛行機だったのかもしれない、と思っているとのこと。  これについてふたつ質問させていただきます。 1.長崎に原爆を投下した後、B29は熊本上空を飛んでいったのでしょうか。 2.熊本の海岸に塹壕の跡のようなものは残っているのでしょうか。  どうぞよろしくお願いいたします。

  • 政府は北朝鮮ミサイルに備えて防空壕をなぜ掘らない

    迎撃ミサイルと違って防空壕は失敗がありません 迎撃は精鋭部隊の人がパソコンの前で数千人がかりで色々しないといけないですが 防空壕なら自衛隊が休みの日曜祝日などで仮に隊員さんが全員よっぱらって寝ていて基地からの呼び出し電話が聞こえなくても避難民は郷に入るだけで助かります 防空壕の建設が公共事業にもなります 除染と言ってフクシマで水を撒くより一億光年倍の意義です 電話持ってない人も逃げれるよう空襲警報のサイレンも人の住んでそうな場所は一定間隔で設置してほしいです なぜ日本政府は国民を守るために防空壕とサイレンを用意しないのでしょう?

  • 東京大空襲や原爆は戦争犯罪ですよね?

    東京大空襲は勿論広島・長崎の原爆投下で多数の子どもや女性、高齢者が多数惨殺されました。 これが明白な戦争犯罪でなくて何なんですか! 私は別に隣国のように請求権を放棄したものを新たに要求するようなみっともないことは主張しません。しかし米国人にそういう認識を強く持ってほしいと思います。 ドナルド・トランプおじさんにせめてドナルド・ダック並にガーガー言うだけになってほしいと思います。

  • 空襲警報が発令されると飛行機は退避?(太平洋戦争)

    「幻の本土決戦第5巻」という本に、 「(昭和20年4月ごろ)敵小型機の来襲に対して、全く手も足も出せなかったころだ。(略)空襲警報が発令されると、茂原の飛行場に残っていた飛行機は、いち早く飛び立って行く。しかし、これは敵を迎撃するためではない。安全な地帯に退避するためだ。敵機がいなくなり、安全になれば帰って来る」 とありました。 普通に考えれば、いち早く飛び立って上空で待機して、奇襲攻撃をかけると思うのですが、どうして退避行動をするのでしょうか。 本によればある日ゼロ戦が敵六機に対して、たった一機で立ち向かい、すぐに撃墜されたそうです。

  • 広島原爆:エノラゲイの侵入ルート

    原爆を投下したエノラゲイの当日の侵入ルートは 広島上空に侵入→東に変針し神戸へ向かう→南に変針し四国へ向かう→西へ変針し広島へ向かう→原爆投下 なのでしょうか。 これは米側の公式文書などで確認する事が出来るでしょうか。 これが事実とした場合、なぜこのような回りくどいルートをとったのでしょうか。 天候不良の場合は小倉ではなかったでしょうか。 やはり若木重敏氏の主張とおり「反転爆撃」が目的だったのでしょうか。

  • 四日市は原爆投下予定地だった?

    三重は鈴鹿の四日市との市境近くに住んでます。すぐ隣りの四日市とも地元として馴染みがあります。 さて、この間、四日市の友達が話してました。 「四日市は戦時中、港があった為に、原爆は、元は四日市に落とされる予定だったんだよ。その前に空襲の被害が大きくて壊滅したとみなして、話が広島に移ったんだけどね。」 へー、そうなんだ。と思いましたが、 そのことを姉に話すと、それはおかしい!と、言われました。「原爆投下予定地が東京だったのは聞いたけど。」 「当時は、もう名古屋の埋めたてもけっこう進んでいて、結構な都市になっていたはずだ。名古屋を差し置いて、四日市が選ばれる訳がない!」とのご意見でした。 そう、四日市が戦時中、空襲で壊滅したとも聞いたことが無いし、私の家の近所には今だ、防空壕が残っているが、 使ったと聞かなかった。 どちらかと言うと、疎開される側で、鈴鹿・四日市は 田舎的なイメージが強いのです。 姉の意見に、心では友達の言っていたことが 本当であろうと思いながらも、反論できませんでした。 それから後、思い出した事が。 地域テレビで四日市のおじいさんが、戦時中元海兵で 戦争から帰ってきたら、家も家族も焼かれていて・・・ みたいな話しをしたい気がするのです。 戦時中の被害は、私達が知らないだけでは? では、海兵がいるのなら、近くに海軍が? そうインターネットで見てみたら、やはり 四日市に海軍があった。軍事的なものがあれば 原爆投下予定地としても選ばれるのでは? いやでも、海軍基地くらい名古屋にもありそう・・・。 広島が選ばれたのは、たしか戦艦を造っていたからだったっけ? 四日市は、名古屋を差し置いてそれに匹敵することを していたのか?軍事的重要な意味が? なぜ名古屋を差し置いて四日市なの? いやそもそもその話しが嘘なの? 教えてください。

  • 米軍の空爆予告ビラについて

    米軍の空爆予告ビラが1945年、8月1日に広島、長崎その33都市に投下された。とありますが原爆投下予告も含まれていたわけですよね。何故、避難しなかったのでしようか?また戦争はお互い「いついつどこを攻めます、あるいは空襲を行います」と宣言してから攻め込む約束があるのでしょうか?

  • 原爆の「市街地」投下は戦争犯罪であり追及すべきでは

    広島・長崎の原爆投下について、アメリカでは「戦争を終わらせ兵士の命を救った」という考えがかなり強いようで驚いています。日本でも類似の考え方があるようです。(さすがに「侵略戦争の罰だ」などという見解は匿名掲示板のいたずら書きのみと思いますが。) 単に原爆反対を訴えても効きません。原爆を「市街地」に投下したことにより着目して追及をすべきと思います。非戦闘員を標的にした無差別大量殺傷攻撃であり、戦争犯罪ではないでしょうか。終戦に向けて威嚇の必要があるのなら近海や少なくとも山間部で十分です。そして2発も必要ありません。東京大空襲等の無差別爆撃も同様です。 日本はアメリカにこの攻撃の過ちをもっと主張すべきではないでしょうか。あるいは国連の人権委員会などへ訴え出るべきではないかと思いますが、皆さんいかが思いますか。(なお旧日本軍が戦犯だからアメリカも良いということにはなりません。旧日本軍の戦犯は東京裁判で既に裁かれています。アメリカによる戦犯も認めさせるべきではないかという疑問です。)  もう70年も前のことではありますが、広島・長崎の原爆、無差別空爆の過ちを認めさせなければ、今後も一定の条件がそろえば核兵器で市街地を攻撃することや、市民を標的にした無差別大量攻撃が許されるということを意味します。そうした攻撃はしないということであれば、原爆を肯定する冒頭の考えと矛盾します。 なお、ウィキペディアによると、広島・長崎はウラン型とプルトニウム型を一つずつ使用しており、投下前は対象地域への空爆を軍に禁止し街をあえて残して原爆の効果を測定しやすくしたなど、実験目的があったことは確実なのように思えます。さらに言えば原爆を使用せずとも日本が降伏したのは種々の状況(日本が旧ソ連に仲裁依頼をしていたことをトルーマン大統領は知っていた等)から明らかです。