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ショーペンハウアーが伝えたかったことは何ですか?

ショーペンハウアーはペシミストで主意主義者として有名ですが、ショーペンハウアーが伝えたかった最も重要なことは何なのでしょうか? ペシミストといってもこの世を全否定しているわけでも主意主義者といえども理性や感情を軽んじているわけでもないですよね? 特にショーペンハウアーに影響を受けたニーチェとの違いはどんなところにあると思いますか?

みんなの回答

  • dedypraja
  • ベストアンサー率40% (88/219)
回答No.3

ショーペンハウアーが伝えたかった最も重要なことは、「意志」という概念でした。彼は、人間の行動を原動力となる意志と、それに伴う苦しみというものを強く強調しました。 ショーペンハウアーは、人生は苦しみに満ちていると主張し、人々が求めるものは短期的な快楽であり、その快楽もまた、後に苦しみを引き起こすものだと考えました。彼は、この世界には苦しみが存在することを認め、その苦しみから解放されるためには、欲望を抑制し、自己の意志を超越する必要があると考えました。 ショーペンハウアーの哲学は、ニーチェに大きな影響を与えましたが、両者の間にはいくつかの違いがあります。ニーチェは、ショーペンハウアーと同様に、人生は苦しみに満ちていると考えましたが、彼はその苦しみを肯定し、それを自己実現のための原動力として利用することができると主張しました。また、ショーペンハウアーが世界を否定的に見る一方で、ニーチェは肯定的な見方も持ち、人間の可能性を拡大するために、様々な価値観や意志の表出を探求することを提唱しました。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9741/12123)
回答No.2

>ショーペンハウアーはペシミストで主意主義者として有名ですが、ショーペンハウアーが伝えたかった最も重要なことは何なのでしょうか? ペシミストといってもこの世を全否定しているわけでも主意主義者といえども理性や感情を軽んじているわけでもないですよね? ⇒手短に言って、「ショーペンハウアーが伝えたかったこと」とは、「ニルヴァーナ」(涅槃)のススメと言えるでしょう。すなわち、「煩悩を捨て去って、絶対的な静寂に達するという、仏教における理想の境地」です。彼は、著名な東洋学者と交流してインド古典に関心を持ち、仏教の教理とプラトンやカントの思想などを融合した独自の思想に到達したのだと思います。 >特にショーペンハウアーに影響を受けたニーチェとの違いはどんなところにあると思いますか? ⇒ニーチェはショーペンハウアーを師と仰いだ面がありますので、確かに両者は似た面がありますね。ともに、「観念論のみに凝り固まって、知性を鼻にかけて、結局は死神のキリスト教の護教論に過ぎないヘーゲル」に反発し、無神論やペシミズム、ニヒリズムを標榜している点は共通しています。 では、相違点は何かといえば、それはショーペンハウアーが静的・受動的・幾分マゾヒスト的であって、諦観を主張しているのに対し、ニーチェは動的・能動的・サディスト的であって、(似非所説の)論破を主張しているところが違いだと言えるかも知れません。

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  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1

彼の哲学は悲観主義的であることで知られています。彼が伝えたかった主要な考え方は、人生は不幸と苦しみで満ちており、人間は永遠の不足と欲望の状態にあるということでした。彼はまた、意志という概念を中心に哲学を構築し、意志は人間の行動と欲求を支配する不可避的な力であり、人間が苦しみに陥る主な原因であると主張しました。 ショーペンハウアーは、幸福や満足を追い求めることが個人的な欲望に過ぎず、人生における真の目的を見失うことになると考えました。彼はまた、芸術が人生において重要な役割を果たすことを強調し、芸術によって人生の苦しみを和らげることができると信じていました。

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