• 締切済み

ショウペンハウアーやカントの「意志」

倫理学史上で有名なショウペンハウアーやカント、ニーチェなどが唱えた「意志」についての学説はいったい何に違いがあるのでしょうか? 授業で習って興味はでたのですがわかりません。 ショーペンハウアーの盲目的なせいへの意志とは主にどういうことなのかとか・・・。本に出てくる言葉では難しくて理解できないのです。誰かおしえてください。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数22

みんなの回答

回答No.1

ショーペンハウアーは、カントの認識論、プラトンのイデア論、インドの仏教哲学の影響を強く受けた思想家です。 その主著『意志と表象としての世界』の中で、「『世界はわたしの表象である。』 ― これは、生きて認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である」と言っています。さらに、表象は、物自体としての意志が現象したものである、とも。 ここに出てくる「物自体」というのは、そもそもがカントの用語なんですね。 だから、ショーペンハウアーの「意志」を見ていこうと思ったら、まず、カントの「物自体」とはどういうものか、理解しておく必要があるかと思います。 まず、カントは人間の認識能力をまず三つに分けています。 感性、悟性、理性です。 人間は感覚を通して、世界を認識しようとします。 けれども、あるがままの世界は無秩序で混乱したものにすぎません。 それを秩序ある整然としたものと認識できるのは、人間が、経験的にではなく、先験的に、時間と空間を直観できるからです。 この直観の能力をカントは「感性」と呼びます。 さらに、人間には直観のほかに、思考の形式も備わっています。 そうでなければものごとが単一か多数であるか、あるいは相互に因果関係があるかどうか、理解できないからです。こうした質、量、因果を理解する思考の形式を「悟性」と呼びます。 つまり「感性」が情報を集めてきて、「悟性」がそれをカテゴライズし、判断する、ということですね。 この感性と悟性が合わさることによって、人間の認識はできあがっています。 こうした「感性」と「悟性」が認識したものごとをカントは「現象」と呼びます。 さらに、それだけにとどまらず、人間には「理性」という能力が備わっている。 それは概念を統合し、類推し、推論する能力です。 この能力によって、人間は経験だけでは認識し得ない世界を推理しようとする。 認識し得ない世界とはなにか、というと、たとえば、神は存在するのかどうなのか、といったことや、この世界は必然性によって支配されているのか、それとも自由があるのか、といったこと、世界には空間的や、あるいは時間的な限界があるのかどうなのか、といったことです。 こうしたことは、理性をもとに考えていくと、そうであるともいえるし、ないともいえる。 だからこうした推論をどこまでも押し進めていってはいけない、とカントはいいます。 人間が認識できるのは、現象界にとどまったもので、わたしたちが決して認識できないもの(カントはこれを物自体と呼んでいます)の認識は不可能である、と。 認識できないがゆえに、理性は「物自体」を扱うことはできないのだ、と。 ショーペンハウアーはカントのいう「物自体」と「現象」の考え方を引き継ぎ、「物自体」を「意志」ととらえ、「現象」を「表象としての世界」と言い換えたんです。 わたしたちの経験的な認識は、世界の本質(カントのいう物自体)は決して把握できない。 どうしたら、把握できるのか。 それは、わたしたちの身体を通して把握できる、というんです。 わたしたちは身体を持っている。 もちろん、経験的認識にとってはひとつの表象にすぎません。 けれども、わたしたちの内側には意志がある。そのことは直接、把握することができます。 このときの意志をショーペンハウアーは「通常意志」と呼んで、「真の意志」と区別します。 たとえば手を挙げるとする。このとき、まず、手を挙げようと「意志」が働き、その意志にしたがって手が運動します。 このように考えられた意志は、理性の熟慮であって、「真の意志」ではない、というのです。 真の意志とは、手の運動と同時に働いている無意識的なものでなければならない、と。 たとえば、転びそうになった時に、さっと身体を支えようとする手のように。 あるいは、暴力をふるわれそうになったとき、とっさに庇おうと出す手のように。 意志の働きと身体の働きは、因果関係によって結びつけられたふたつの客観的な状態ではなく、意志の働き=身体の運動なのだ、と。 真の意志とは、身体の動きと密接・不可分な直接的・盲目的な生への意志である、というのは、こういうことです。 表象を超えたところに、「真の意志」がある。 こうやってわたしたちは、自分の身体を手掛かりにして、表象の世界を超えた物自体の世界を認識することができるのですが、このことから身体以外にも、意識が存在していることがわかる、というのです。 自分自身から類推して、動物、植物ばかりでなく、無機物においても、その中心に意志があると考えられる。 たとえばショーペンハウアーによると、空中の石を落下させるのも、意志が存在しているからなのです。 こうした普遍的に存在する意志が、宇宙の究極的な実在なのだ、と。 意志とは、このようにまったく盲目的、衝動的に働くものであって、一定の目的をもって働くものではないのです。となると、意志の働きは、まったく休むこともなく、満足することもない。このように、決して満足し得ない意志が世界の本質であるのだから、この世界は「苦」の世界、ということになります。 苦こそ世界の本質であって、幸福とは単に苦を免れる、という消極的なものでしかありません。 ならば、どうすればこの苦を脱することができるのか。 ショーペンハウアーは三つの処方箋を書いていきます。 第一に、芸術を鑑賞すること。 けれどもこれは一時的なものです。 第二に、道徳。 他人も自分と同じ本質を有するものであると同情することによって、利己主義を消失させることができる。 けれども、本質的に、生への意志を持っている限り、苦から完全な脱却はできません。 ただこうやって、もしわたしたちが真に他者の苦を自分の苦と感じ、苦しんでいる人間、苦しんでいる生き物、消えていこうとする世界を見出すことができたら、意志そのものを否定するようになる。 このような境地に至れば、何ものによっても意欲が引き出されることはない。 生への意志が完全に否定されたようなような状態を、ショーペンハウアーは禁欲と言います。 このような境地、意志を否定し、禁欲と静寂の境地に至れば、人間は生きる苦しみから脱却できる、と考えたのです。 (後半はかなり荒っぽい説明になっています。また、私の考え違い、読み間違いしている点などありましたら、どうかご指摘ください)

関連するQ&A

  • 「ショーペンハウアーは自分が正統なカント哲学の後継者であることを自負し

    「ショーペンハウアーは自分が正統なカント哲学の後継者であることを自負していた」 このことが本や論文では当然のこととして書かれています。しかし、どれも出典が示されていないことに違和感を覚えました。これは本当にショーペンハウアー自身の言葉なのでしょうか。あればの話ですが、どなたか出典を教えていただけますか。

  • カント好きの皆さまへ

    カント好きの皆さんは スピノザとニーチェについて どういった感想をお持ちですか? 私はスピノザ、ニーチェ好きですが カントについて入門書程度の知識を持っています。 そして、私はカント倫理学が好きではありません。 極めて厳格に人間を拘束しているように思います。 しかし スピノザ、ニーチェ好きの私は たまに他人の心を理解できなくなった時に カントに惹かれたりもします。 このジレンマが どうにも解消できない故に 未だにカントに対して未練がある部分もあります。 皆さまの率直なご意見をお聞かせください。 ちなみに キルケゴール、ハイデガーは嫌いです。 実存の三段階説並びに 本来的、非本来的な実存の在り方といった序列が 気に食わないからです。

  • カント哲学の本

    カント哲学、というかカントの思想(=カント哲学ですかね?)に興味があって本を読もうと思っています。 哲学書は昔にソフィーの世界?という子供向けのものを読んだ経験のみです。 できれば入門書のように他人が解説したものでなく、なるべく本人、カント自身の言葉を読みたいです。 翻訳の問題もあるでしょうから、あまり難しい日本語で書かれていないカントの本でお勧めを教えていただきたいです。 あとお時間あれば、回答者様のお好きな哲学者、哲学書も教えてください。よろしくお願いします。

  • 倫理学という学問分野について

     倫理学という学問分野があります。ウィキで調べたら別名”道徳哲学”ともあり、哲学の1分野を構成しているように見えますが、道徳と哲学は相いれないようなことはないでしょうか。ニーチェが"道徳とは..."と語ったら批判的な言葉が出てきそうです。  一方で倫理という言葉は日常語的に解釈すると、医療従事者の倫理とか技術者倫理などのように”専門家は誠実でなければならない”とか割と当たり前のようなものにもなりそうです。”正しいことをしよう”、というような印象になって”でも人間は私利私欲にまみれて必ずしも正しいことをしない。しかし、社会のために誠実に正しいことをしなくてはならない”というような既に認知されているので眠くなるようなことになり、逆にカント哲学のような面まで掘り起こしてそこから到達した結論なのかと思うと眩暈がしそうなぐらい難しいことなのか、など捉えどころが分かりません。ときどきネットで”人として許しがたい”とかいう言説も見られますが、人としてどうあるべきかということなのでしょうか。倫理学は総じてどういう学問なのか知りたいのですが。 ※ニーチェ、カントなど書きましたが、内容は全然知りません。そんな風らしいという程度のことです。

  • イマヌエル・カントについて

    この度、カントについての課題が出ました 現在海外大学にて哲学の授業を取っているのですが、日本でも全く触れてこなかった哲学を英語で学んでいるためさっぱりです 課題内容としては「Explain the reasoning between Kant's efforts to make morality a matter of motives, not consequences. Describe Kant's moral theory, taking care to discuss good will, according to Kant, and the basis of the intrinsic worth, according to Kant. Do you agree with Kant's moral theory?」となっています まず、カントのmoral theoryとは日本語に直すと何にあたるのでしょうか? カントのmoral theory曰く、道徳性(倫理性)は結果ではなく動機や目的の一種らしいのですが、moral theoryにあたる日本語は存在しますか? また、good will(良い意志)、intrinsic worth(本質的な価値)(直訳で申し訳ないです)についても哲学の学問上相当する日本語訳を教えていただきたいです ご存知の方、教えて下さい よろしくお願い致します

  • 哲学の入門書

    私は哲学書(…といっても入門書レベル)が好きでよく読むのですが、入門書レベルで理解に苦しむことが多々あり理解不十分で終わらせてしまうことが何度あったことか・・・。本を読んで最も学べることは自分の知識の浅はかさです。そしてこの堂々巡りに毎度のことながら嫌気がさしています。。好きな哲学者はカントやニーチェなどですが、こんな私でもわかるように噛み砕いて書かれた哲学書はありますでしょうか??

  • 入門書を探しています。

    私は哲学書(…といっても入門書レベル)が好きでよく読むのですが、入門書レベルで理解に苦しむことが多々あり理解不十分で終わらせてしまうことが今まで何度あったことか・・・。本を読んで最も学べることは自分の知識の浅はかさという現状です。そしてこの堂々巡りに毎度のことながら嫌気がさしています。。好きな哲学者はカントやニーチェなどですが、こんな私でもわかるように噛み砕いて書かれた入門書の哲学書はありますでしょうか??

  • 哲学の基礎知識が学べるお薦めの本を教えてください。

    西洋哲学についてほとんど何も知らないので、基礎知識が学べる本を探しています。 カントやデカルトの、名前は知っているのに何をした人か知らないというレベルです。 知らなくても困らないと思って今まで何も勉強しなかったのですが、最近人と話していて自分の無知が恥ずかしくなり、常識程度の知識を身に着けたいと思いました。 高校の倫理の授業は取っていません。 なので、まずは、高校の倫理レベルの本で、薄くて読みやすいのだと嬉しいです。 よろしくお願いします。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

  • 思い出せない・・・名言・格言

    高校のときの授業で 「己の特殊性を理解して、その上でその能力を有効に使う~」 というような言葉を聴いた気がするのですがよくおぼえていません。 知ってる人がいたら教えてもらえないでしょうか? おそらく倫理の授業だったとおもうのですが・・・