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江戸時代の知行とお金の流れについて

例えば江戸時代に武士が1000石の知行地を貰った時、四公六民により400石が残り、その半分が家人の給料になるとネットで見つけました。 そこで疑問に思ったのですが、知行地を与えた将軍や藩主に対して、上納金のようにして米を収めることはしなかったのでしょうか? 将軍や藩主は贅沢な暮らしをしていたので莫大な収入があったと思うですが、お金の流れがいまいち分かりません。

  • 歴史
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  • oska2
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回答No.3

>知行地を与えた将軍や藩主に対して、上納金のようにして米を収めることはしなかったのでしょうか? 余程「藩財政が破綻」した場合は、家臣に「上納」を命じました。 が、一般的には上納を要求する事はありません。 将軍家から与えられた領地を、家臣に給与として与えている訳ですからね。 >将軍や藩主は贅沢な暮らしをしていたので莫大な収入があったと思うです まぁ、将軍家は幕府直轄領からの収入がありますからね。 江戸城大奥の年間予算は、20万両ですしね。優雅! ただ、各藩の藩主は案外質素な生活をしています。 石高と家臣数は「比例」しますから、百万石大名でも1万石大名でも同じ。 ※石高が増えると、それだけ支出が増える。 伊予の国小松藩1万石では、農家の次男坊三男坊を「現在の契約社員」として採用していました。 陣屋ですから、建物の維持管理費用は城持ちに比べて少ないですよね。 年某は3両でした。 どの藩も、財政難だったのです。 年貢を増やすと、一揆が起きて改易処分が待っていますからね。 加賀藩や親藩などは、「見栄の費用が多い」ので大変だった様です。 参勤交代でも、城を出る時は人数が多くても「宿場から宿場は、人足を現地で少し採用」して経費節減をしていました。 もちろん、江戸に入る時には人足を増やして「石高に応じた行列」にしています。 嘘か真か、江戸時代に一番裕福だったのは数千石の旗本でした。

  • fujic-1990
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回答No.2

> 1000石の知行地を貰った時、四公六民により400石が残り、その半分が家人の給料になる  理屈上は400石ですが、それで例えば道路・橋を修復したり、川を整備したりするわけですから、わずかな生活費を除くとほとんど残らなかったと思います。  特に江戸は諸色高で、江戸と国元との二重生活なので苦しかったと思われます。  なので、大名は「札差」などから借り入れて、クビが回らなくなったわけです。 > 知行地を与えた将軍や藩主に対して、上納金のようにして米を収めることはしなかったの  しましたよ。  殿様による「半知借り上げ」(家臣の知行地から上がる米の半分を殿様が借りる:実際は没収)の藩はさほど珍しくなかったようですし、学校の歴史授業でも習ったと思いますが、徳川吉宗は幕府の財政を建て直すために「上米の制」を実施しました。  10年ほどですが、大名に「1万石について毎年100石ずつ」幕府に差し出すよう、公式に命令したわけです。「幕府には戦うためのカネがない」ということを諸藩(特に外様)に知らしめても、なんとかする必要があったわけです。  代わりに参勤交代の在府期間を半年に短縮しました。多数の藩士を引き連れて物価高の江戸を早く離れられるので、さほど大きな苦情はなかったようです。

  • f272
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回答No.1

> 知行地を与えた将軍や藩主に対して、上納金のようにして米を収めることはしなかったのでしょうか? 通常はそんなことはありません。まあ財政窮乏を理由にして家臣に命じたこともありましたが,1%とか2%くらいの米です。 > 将軍や藩主は贅沢な暮らしをしていたので莫大な収入があったと思うですが 年貢として取り立てた米を売って現金化します。大名の石高が2万石だとすると,1万石は家臣団に分割して与えます。つまり藩主の取り分は1万石です。どの家臣よりも多いですね。

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