• ベストアンサー

戦国時代の知行について

見てくださった方、ありがとうございます。 知行についてよく分からないことがあるのですが…武士は主君の為に働く見返りに土地という給料をもらうわけですよね? 柳川13万石ならば13万石ほどの米を生産できる土地をもらい、治めるわけですが、例えば300石などの低い知行しかもらっていない武士でも300石の土地を与えられたのでしょうか? そんな細かく土地を分けているのかなぁと疑問に思ったので聞いてみました…。 また、部隊を率いるようになるにはどの程度の知行をもらっている武士だったのでしょうか? どなたかご回答よろしくお願い致します!

  • 歴史
  • 回答数9
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.6

あまり聞いたことのない言葉や内容が出てきますので、参考資料をつけることとしたいと思います。書籍のコピーは著作権の問題があるので、ウィキペディアが中心となりますがご容赦ください。 江戸時代と戦国時代は同じようでまるで違うということです。まず、最初に戦国時代の知行ですが、石高制ではなく、貫高(かんだか)制がほとんどであったことです。1貫を2石(他の考え方もあります)に換算する方法もあるので、それに従うと300石は150貫になります。 石高制について。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6 貫高制および石高制の移行(貫高制の終焉の項目を参照してください)について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E9%AB%98%E5%88%B6 次に武士の居住について、江戸時代は島津藩などの例外を除き、城下町などの藩主居館・藩庁のある場所であったのに対して、戦国時代の武士の多くは農村に住み、農業経営者でもあったことです(後期になるに従い戦国大名の力が高まると城下に集住するようになります)。 戦国時代の下層武士であった地侍について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%BE%8D 地侍より上層の土豪について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%B1%AA より上層の国人について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA 関連項目として寄親・寄子について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E8%A6%AA%E3%83%BB%E5%AF%84%E5%AD%90 三番目に武士と主人の関係について御恩と奉公と言われますが、この内の御恩については新恩給与と本領安堵の二つがあり、本領安堵も多かったのです。地侍クラスであれば自分が耕作している土地や、支配していた土地を含めて本領安堵を受けることが多くありました。戦国大名などの主人にすれば、本領安堵することにより武士を家臣化しようとするわけです。また主人は、本領安堵によって支配の公認と、もしもの時にその土地を守っていくことになり、これが御恩になります。武士は、この見返りに軍役奉仕することになります。ですから、武士は主君の為に働く見返りに土地という給料をもらうだけではないのです。当然軍役奉仕に伴って手柄を立て、新恩給与として新規に土地を与えられることも多くありますが、この場合は占領地であることが多く、本拠地からは離れていることになります。 なお、残っている資料からは新恩給与・本領安堵ともに10貫未満のものも多くみられ、中には1貫に満たない場合もあります(一か所ではなくあちこちに知行地を持つものが多いので、一か所とは限らないのですが)。当時、1町(約1ヘクタール)当たり10石の米収があったとされ、これを貫高に換算すると5貫となります。広さとしては約100m×100m=10000m2です。現在の田圃でも1町の田はそれほど多くありません。数反(1町=10反)程度の田も多く存在します。戦国時代ではこの傾向はもっと高く、田一枚ごとの知行宛行(あてがい)もあったと考えられます。さらに、土佐に一領具足という制度があります。半農半兵の存在ですが、このような階層は多くの地域にあり、また農業経営の規模も、武士としての格(兵か士か、徒歩か騎乗か、単身か従者ありかなど)や規模についても各自バラバラですが、手作地の年貢免除だけで軍役奉仕の層はかなり存在しています。ですから、300石=150貫程度でも少ないとは言えません。また、100石程度から騎乗身分とみなされますので、騎乗の武士(ひとかどの武士)で、従者が数人付きます。300石となると在地領主としての土豪くらいになります。 後世の資料になりますが、旧高旧領取調帳(明治初年の近世末から明治の郷村調査表)を見ると、村(現在の大字―おおあざ―程度の広さ)の持高(年貢高)が1000石を超える村は少なく、だいたい数百石規模です。 一領具足 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%A0%98%E5%85%B7%E8%B6%B3 騎乗身分(士分) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%88%86 旧高旧領取調帳データベース(調べられます) http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 長くなりますが次に続きます。

その他の回答 (8)

  • damerimen
  • ベストアンサー率38% (8/21)
回答No.9

武士が主君のために働く見返りに土地を給料として貰うのは 石高制ができたときは崩壊していました。 給与制になったんです。 主家が一気に換金して給与を臣下に支払う。このシステムになりました。 幕末まで土地を給与としてもらってたのは尾張名古屋と仙台伊達の2家だけです(地方持高制といふ) 田と言うのは今でも残ってる考えですが反収=一反(300坪)当りの収量が大体決まっているものです。 普通1反辺り3石、9俵が見込めます。 軍役中は1食=2合と決められており 日に6合 月に180合 0.8升 年に4320合 4.3升 4斗 となります。 4斗=一俵ですから 一人当たりの食費がはじけます。 じゃぁ300人だ!と計算しちゃいけません 兵糧用でもあるし武器整備や修築などにも使わねばなりません 通常は3人程度の軍役が課せられたようです。地方によってことなります。

  • isaa535
  • ベストアンサー率56% (31/55)
回答No.8

5です。 戦国と規定すると該当年数が長くなります。 貫高制は秀吉太閤検地により石高制に移行しました。 柳川13万石は太閤検地の後の石高制の時ですので私の回答はそのころ の事になります。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.7

続きです。 次に部隊の指揮官に関してですが、部隊といっても規模の差があり、また、地域、家により差や呼び方が違い一概には言えないのですが、各種兵科を持つ独立戦闘単位の備(そなえ)はおおよそ300~1000人規模で、指揮官は士(侍)大将と呼ばれ、江戸時代の小大名クラス、戦国時代においては先述した寄親・寄子の寄親クラス、おおよそ戦国大名家の家老等と呼ばれる重臣=多くは旧国人領主クラスです。 備の中の各種兵科には、弓足軽組・鉄砲足軽組・長柄(長槍)足軽組などの各50人前後の足軽隊が存在します。この指揮官が足軽大将と呼ばれ、だいたい騎乗身分から選ばれています。ウィキーには近世の柳川藩の例が出ていますが、それには200~300石クラスとされています。戦国期では100貫程度以上になっているようです。さらに騎乗身分の者を中心に編成された騎馬隊があり、指揮官は番頭、物頭と呼ばれ、500貫より上の層、多くは数千貫の知行を持つ者が任命されているようです。 足軽大将 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD%E5%A4%A7%E5%B0%86http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99 長くなってしまいました。参考程度に。

  • isaa535
  • ベストアンサー率56% (31/55)
回答No.5

知行であれば戦国、江戸を問わず300石の武士であれば米が300石 取れる土地の支配権を(税取立て)主君から与えられていると言う事になります。 支配権のみですので土地及び民を私有財産に出来たわけではありません。 300石の内、税率分の米を得る事が出来ました。 当時の一般的な課税は五公五民(50%)でしたので150石が300石 取りの武士の給与となります。 土地が細かく分けられていたかと言うお話ですが、税を税率分取る為に当然 細かい住所までは決めていませんが地主単位で何石取れるかの記録はあったはずです。 地主は更に小作人単位で把握していたでしょう。 その事から考えると武士に対しての知行は大きな振り分けは村単位で その下の単位は地主単位だったと思います。 尚、知行の他に蔵米知行(戦国)、蔵米支給(江戸)と言って主君の直轄地で取れた米を支給 される武士もいました。 蔵米は織田信長が兵農分離した際に傭兵の足軽大将などの支給で始めた記録があります。 江戸時代になると蔵米支給が主流となる藩が多くなります。 知行ですとあまりにも狭い知行で運が悪いと飢饉、台風で米が取れない場合 大変な事になります。 部隊を率いた最も低い足軽の上の足軽組頭で数十石だと思います。 木下藤吉朗がねねと結婚した時の長屋暮らしのあれです。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

そんな細かく土地を分けているのかなぁと疑問に思ったので聞いてみました…。 ↓ 分けています。しかも田一まいづつをカウントしますので、もっと細かい数字となります。 ざっくり江戸時代中期で 3000万人の国民がいて 3000万石のコメを生産していた。 農民人口が8割程度。 つまり、8人の農民で10人分のコメを作っていた。 10人家族の農家で考えれば、10人で12.5人分のコメを作る田を保有して生産していた。つまり農家単位で言えば、12.5石のコメを生産していた。農家一軒ごとに税金をとっていたわけですから、12.5石単位で把握しています。 実際には村請となりますが http://www.teu.ac.jp/aqua/GS/2009/Paper/Metoki_2009.pdf ここのシミュレーションの元になっているのが 平均集落 500人 600石程度の生産力。 ちなみにこれでも江戸時代は大雑把というか一元的な統治がされております。 その前の段階では、1畝づつ所有者が違うというのが室町時代の常識だったようだ。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.3

ご質問の趣旨とずれるかもしれませんが、 戦国時代をはじめ主従関係は基本的に双務的契約関係ですので、知行を安堵(保証)してもらう見返りに、定められた軍役に従う、と理解した方がよいと思います。 知行が給料化したのは江戸期に入ってからです。 柳川13万石の例で言うならば、秀吉は立花宗茂の軍忠を評価して、13万石相当の土地として柳川を中心とする土地を与えました。 宗茂はその見返りとして、13万石に応じた軍役を務めることになります。 100石あたり1人の軍役であれば1300人を動員し、100石あたり3人の軍役であれば3900人を動員します。 石高はあくまでも軍役の目安であり、実際の収穫量とは異なります。 江戸期には、石高が家格となり、土地は増えていないのに石高増加を望むことがしばしばありました。 土佐9万8000石だった山一豊は、後に20万2600石への増石を上申しています。 http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 国立歴史民俗博物館の旧高旧領取調帳データベース で江戸期のものですが、全国の村の石高がわかります。 数十石の村もまれではありません。 最後のご質問については、部隊を何人規模とするかによりますので、お答えできません。

noname#138477
noname#138477
回答No.2

筑後にあるかどうかまでは知りませんが、全国的には村高300石程度の村はあるでしょう。 細かく分けているとは思いませんが。 部隊の程度が不明ですが、村一つでも戦うときは戦ったと思います。

回答No.1

柳川13万石は、柳川藩の総収入です。柳川藩で働く侍はここから給与をもらいます。 旗本は幕府からです。 尚、土地はもらえません。土地は百姓など地主の物です。石高は徴税権に過ぎません。 300石は上士に分類されます。上士は100石以上です。これは全武士の1割程度と言われてます。小藩の300石取りは家老か中老です。 100石で3人ほどの部隊を率います。100石未満は大名の兵隊です。

関連するQ&A

  • 江戸時代の知行とお金の流れについて

    例えば江戸時代に武士が1000石の知行地を貰った時、四公六民により400石が残り、その半分が家人の給料になるとネットで見つけました。 そこで疑問に思ったのですが、知行地を与えた将軍や藩主に対して、上納金のようにして米を収めることはしなかったのでしょうか? 将軍や藩主は贅沢な暮らしをしていたので莫大な収入があったと思うですが、お金の流れがいまいち分かりません。

  • 江戸時代のお米のゆくえ?

    江戸時代の後半は人口3000万人で85%が農民、残り15%が武士・町人・坊主・神主=非生産者であり年貢納税をしていない人々?だったと思いますが。 当時農民は年貢取立てが厳しくて、ヒエやアワを食していたと聞きますが、人口の15%の人々が85%の農民が生産するお米を全て食していたとは想像できないのですが?この年貢のお米はどうしていたのでしょうか?お米が酒になったりはするのでしょうが大半は食事で消化されていたはずなので疑問なのですが? 生産量が少なかったのでしょうか?

  • 戦国時代の大名の石高 徳川家

    大名の石高はコメの生産高(米何俵?)でしょうか。  疑問に思ったのですが、徳川家康が戦いで勝つと、勝った相手の領土が自分のものになって自動的に米俵が入ってきたのでしょうか。農民たちは何の抵抗もなく、勝利した戦国武将に米を差し出していたのでしょうか(人が好過ぎる)。負ける側の武将はやけくそになって米俵を焼却したりしなかったのかな。農民は自分の田んぼで取れた米のどの程度の割合を差し出していたのでしょうか。  時代劇は美しく演出されていますが、ひどいことをしていたのでしょうね。

  • 江戸時代の石高制とその内訳

    石高は、米以外の農作物や海産物の生産量も米の生産量に換算して表されています。 では、石高に占める米そのものの生産高はどれくらいなのですか。 年代はいつでもよいのですが、またどの藩でもよいのですが、かなり正確だと推定できる記録があれば教えて下さい。 日本全国の場合は、年代はいつでもよいですが、おおよそどの程度になりますか。 よろしくお願いします。 なお、wikipediaによれば、元禄11年(1698年)の酒造米高 909,337石だそうです。 これが、米の生産高に占める割合が知りたくて質問しました。

  • 江戸時代の農民は本当に貧しかったの?

    江戸時代の農民の年貢は、よく言われるので五公五民。また、農民の割合は人口全体の約9割といわれています。お米で考えると、国に収めたお米の8割は、何らかの手段で、農民が回収していたと考えています。 生活するためには、米だけでは生きていけないので、何らかの現金収入か、交換できるだけの物を生産していたことになると思います。    そこで思うんですが、普通にお米を作るより副職の方が割が良かったら、割の良い副職が中心になりそうなんですが、そうでもない。  すると、米の生産量をごまかすなり、相応のうまみがあったように思えます。もしかすると収入が決まっている下級武士よりよほど裕福だったのでは?疑問に思っています。  詳しい方、誰か教えてください。前提条件がおかしければ指摘ください。

  • 江戸時代の村高

    小生が生まれた村のことです。 ここは純然たる農村で、幕末には 村高250石、人口500人、年貢200石(年貢率は実に80%!!!)という形容しがたいほどの過酷な村でした。当時食糧は一人あたり年1石必要といわれていましたので、これでは年貢を納めてしまうと一人あたり1斗しか残らずとても暮らせません。しかし実際の生産量は夏作が1000石、冬作も250石程度あったようです。(やや凶作気味の時の推定値) 村高と5倍ほど差があったわけですが、村高と実生産量とは一般的にこれほどの差があったのでしょうか? (5倍の内容は、石盛が他村のほぼ半分だったこと、公畝が実面積のほぼ半分だったことによります)

  • 江戸時代の領地支配

    小学生の子供の社会科のテスト問題を何気に見て、疑問に思いました 問題の元となる資料は、武士・士・農・工・商・僧・公家等の人口比率 それと、領地支配者の割合 その領地支配者割合は、大名が77% 幕府が23% というもの つまりは、大名と幕府 すなわち武士が領地の100%を支配していたということが、読み取れました 江戸時代といっても、二百年以上ありますが、どの時点なのかは言及されていません 私の質問は、 ・江戸時代は、武士が領地のほとんど全てを支配していたのでしょうか? ・天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? ・領地=田=米の生産量=経済の根本 が江戸時代だと思いますが、天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか?

  • 家禄、職禄

    今、武家もの小説を読んでいます。 武士の給料は年俸を「石」で表し、玄米の現物給与だったと思うのですが、給料日はあったのか、受取に行った?配達された?(今ならば振込み)などの支払方法が分れば一層興味深く楽しめると思うのですが。又、生活物資は現金で買い物しなくてはならないでしょうが、貰った「米」をどう現金化したのでしょうか?歩留まりのいいところでやるため、選ぶことが出来たのでしょうか?。交換所は公営?民間?など教えてください。 それとも、「石」を国、藩が勝手に現金への換算率を設定し、現金で払っていたのでしょうか?。

  • 戦国時代 : 戦いの最中の兵士の毎日

    例えば戦国時代などで多くの戦いが日本全国で行なわれたと思いますが、その多くは決着がつくまで数週間とか数ヶ月とか時間がかかっていますよね? 特に相手が籠城した時などは長期間にわたる戦いになったように思います。 今と違って結構ノンビリした戦いだったと思います。 その時の兵士の毎日について質問です。 1. まず寝る時はどうやっていたのでしょうか? 今のようにテントも寝袋も無い時代です。 やはり鎧・甲冑をつけたままで地面に横たわっていたのでしょうか? その場合、夏はいいとしても冬は? 2. その寝る時なんですが、総大将や上層部の武士はどうなんでしょうか? やはり下級武士と同じように寝ていたのでしょうか? あるいは何らかの形で布団に入れるようにしていた? 3. 例えば今川義元は何万の大軍を率いて都に上る途中で織田信長軍により倒れましたね。 その今川軍なのですが、何万の兵士に毎日食べさせられるだけの米を一緒に持っていったのでしょうか? となると、膨大な量になると思うのですが ・・・ 何万人 x 3食(2食?) x 総日数という事になりますよね。 もし基本的に毎日毎日、現地で買付けする事が念頭にあるのなら、もし敵方ばかりで誰も協力しなかったら、どうなるのでしょうか? その場合は力づくで? 4. 風呂は? 着替えは? 風呂については、おそらく濡れた手拭いで体を拭く程度だったかなと思うのですが、長期間になると髪に虫がわいたり衛生上の問題が出るように思います。 また着替えについても戦闘が無い時に自分で川で洗濯したのかなと思いますが、実際はどうだったのでしょうか? 5. もし病気になったら? 風邪をひいたり、お腹の調子が悪くなって、薬を飲ませたり医師に診せる必要が出た場合はどうしていたのでしょうか? 今のように前線から本国に連れ帰る事は出来なかったはず。 もしかして医師を戦場連れて行ったり、大量の薬品を持参していたのでしょうか? それに病気になった時、上層部と下級武士で扱いは違っていたのでしょうか? 6. 戦いの終了後、傷ついた兵士にはどう対処したのでしょうか? 例えば自分で歩けない人は誰か数人で故郷まで担いでいったとか? と、素朴に疑問に感じています。 時代考証をしっかり研究した時代劇を見てもそのような描写はほとんどありません。 宜しくお願いします。

  • 最も「石高」の高い都道府県は?

    「石高」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6 江戸時代においては、米の生産量は「石」という単位で表され、 1石=10斗=100升=1000合 です。 「加賀百万石」という言葉の通り、江戸時代における加賀は日本で最も豊かな 土地だったと言えます。 1位:加賀藩前田家 - 103万石 2位:薩摩藩島津家 - 77万石 3位:仙台藩伊達家 - 63万石 4位:尾張藩尾張家 - 62万石 5位:紀州藩紀州家 - 56万石 6位:熊本藩細川家 - 54万石 ちなみに、現在の米の生産量を都道府県別に見ると、以下の通りになります。 http://www.komenet.jp/komedata/seisan/2004/data4.html 1位:新潟県- 65万t 2位:北海道- 60万t 3位:秋田県- 55万t 4位:福島県- 45万t 5位:山形県- 42万t 6位:宮城県- 41万t さて、この「石高」ですが、現在の米の生産量に換算するとどうなりますか? 北海道は「蝦夷何万石」になるんでしょうか?