江戸開城談判絵画の疑問:座る位置の解釈は?

このQ&Aのポイント
  • 「江戸開城談判」絵画についての疑問を解決します。座る位置の解釈は、勝が床の間を背にして座ることで、その家の主人とされる可能性があります。
  • この絵画は昭和10年に制作されたものであり、勝も西郷も亡くなっていますが、ある程度の考証がなされています。
  • 質問は些細なものかもしれませんが、様々な見方があることも覚えておいてください。
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「江戸開城談判」絵画の疑問(その3)。

教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 勝は、床の間を背にして座っていますが、床の間を背にして座るのは、その家の主人とする考え方もあります。そうであれば、両者の座っている位置をどのように解釈すればよいのでしょうか。 この会談の前日にも両者は、同じ屋敷で会談しています。このときの場面の絵では、西郷が床の間を背にして座っています。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))

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  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (674/1409)
回答No.1

 この絵は、聖徳記念絵画館の絵画の一枚で明治維新の際の事績を辿る事で、明治天皇の御事績を顕彰する事を目的としています。  (国史編纂事業と密接かかわり、政治的要素が強い。)  また、この絵を奉納したのは、西郷吉之助と勝精という、描かれた二人の子孫になります。  (さらに描いた「結城素明」の名づけ親は、勝海舟だったりします。)  つまり、この絵は史実の江戸開城会談を正確に描写するのではなく、描かれた二人の業績を顕彰するのが目的だといえます。  (本来は、この場には徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁や新政府側の村田新八・桐野利秋がいたのに…。)  絵の意味として私の浅学な理解では、間違いが有るかもしれませんが、連携させていただくと。  勝の後ろに床の間が有るのは、将軍徳川慶喜や無辜の江戸の民の命を背負って会談に参加している。  畳の縁の上に座っているのは、追い詰められており、会談が成立しなければ、左側に有る刀を抜いて切りかかるも已む無しという、前のめりな体制であった事を示しているかと思います。  (なお勝の回答は、事前に山岡に提示された条件を骨抜した、事実上の拒否回答)  逆に西郷は、絵の広い場面にいる印象を受ける様に描かれ、勝の発言に対して悠然たる態度で、受け入れた事。  (西郷の左側に刀が描かれない事から、平和的解決を考慮している。)  なお、背後が障子である事から西郷の判断が、この後の輝かしい日本の将来に繋がったのを示しているのだと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >勝の後ろに床の間が有るのは、将軍徳川慶喜や無辜の江戸の民の命を背負って会談に参加している。  畳の縁の上に座っているのは、追い詰められており、会談が成立しなければ、左側に有る刀を抜いて切りかかるも已む無しという、前のめりな体制であった事を示しているかと思います。 なるほど、そういう解釈もできますね。 いろんな解釈ができそうなので、回答してくださるのを楽しみに待っています。 これは、画家本人も、奉納した二人(西郷吉之助と勝精)もこの構図で納得しているはずですから、どのように解釈しようと自由で、正解のない質問だと思います。

その他の回答 (1)

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (952/1524)
回答No.2

明らかに相手の身分が下なら別でしょうが、客人を上座に通すのは普通のことでは?

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そう言われると、そうかもしれません。 30代のころ、人生経験豊富なある人から、時と場合によっては、床の間の掛け軸や飾り物がよく見える位置に客人に座ってもらうのだよと、教えていただいたものですから、ずっとそうかなと思っていました。

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