江戸開城談判絵画の疑問とは?

このQ&Aのポイント
  • 江戸開城談判絵画についての疑問があります。
  • 絵画に描かれた両者が正座していることについて疑問があります。
  • この絵画は勝海舟と西郷隆盛の姿を描いており、昭和10年に制作されました。
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「江戸開城談判」絵画の疑問(その1)。

教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 両者は正座していますが、当時、正座は、罪人がお白洲でするものではなかったのでしょうか。武士は、通常、胡座や合蹠座だと思っていました。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問で、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))

  • 歴史
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回答No.1

 江戸時代中期以降では正座は武士にとって一般的な礼法となっています。  正座は次の動作に移りにくいことから、防衛には適さない座り方なのですが、当時は平和な世で斬られる心配が少なく、また、防衛に適さない座りというのがかえって相手を信頼あるいは信用しているとして礼儀の面でも合理的でした  正座が罪人に強制されていた理由の一つとして、硬い板床での正座が痛みを伴わせるからというものがありますが、畳は十分柔らかいので畳での正座は痛みを伴いません。ですから、当時の武士が礼法として取り入れるには問題なかったのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですか! まったく知りませんでした。 知らないから質問したわけですが・・。 巨漢の西郷にとっては難儀だったと思いますが、挨拶が済めば楽な姿勢で話し合ったことでしょう。

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