fishbowl66 の回答履歴

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  • 人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?

    人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?

  • 直感を磨くには?

    直感を磨くためには何が必要でしょうか? この場合いわゆる第六感などのような深層心理のようなものではなく、個人のオリジナルなものをお伺いしたく思います。 例えば経験から学んだスタンスや価値観などなど。 私個人としては、学習能力がないため(苦笑)「これってヤバイかも」とその直感?を感じることはしばしあるのですが、結局は予想通りになってしまい後悔することが多いので、危機感に対してブレない強い意志が欲しいのです。そのための参考にさせていただきたく思い、このようなトピを立てさせていただきました。 色々なご意見をお待ちしております。

  • 人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?

    人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?

  • 自然状態、自然権、自然法?

    今、学校で啓蒙主義について勉強しています。そこで三人の人物について読まないといけないんですけどこれがよくわかりません。ホブス、ルソー、ロックの言う、自然状態とはいかなる物なんでしょうか?一応wikipediaは見ましたけど....はっきりとは掴めなかったですね。 自然権、自然法についても詳しく教えていただけないでしょうか。 自分なりに社会契約についてある程度リサーチをしてみたんですけど自然状態、自然権、自然法の三つがよくわからないんですよね。

  • 地球は生物の密度が高すぎませんか

    今日、畑で雑草を抜いていました。雑草を抜くということは殺すということなんですが、できれば殺したくはありません。 雑草ももっと少なければ抜かずにほっとけるんですが、あまりに数が多すぎるために根絶やしにするつもりで対処しなければ作物に影響が出ます。作物を育てるということはその何百倍の数の生き物を殺すということでもあるのです。 そこで、 この地球は生物の密度が高すぎるのではないか。 なぜ殺さなければ生きていけないのか 生物学的、宗教的にはそれらしい答えもあるのでしょうが今ひとつ釈然としません。どなたか私を納得させていただけないでしょうか。 ちなみに、無除草栽培の方法を聞いているわけではありません。

  • 「名作」というものはいらない

    世のあらゆる芸術分野に「名作」があります。 音楽、美術、文学、映画ect. しかし、ちょっと考えてみますと、芸術とは「人間性の解放」といわれるとおり、内面の発露、そのエネルギーが昇華したものだとそれば、人間の多様性によって、その方向性は360度あらゆる方向に向かっています。そして、ひとつの方向性を強制された地域や時代(共産主義社会国歌やナチズム、戦時下の日本ect.)は、非常に貧しい芸術しかなかったものです。人間とは本来的(芸術的)には一まとめになれないものです。 そこで「名作」の問題です。これはなぜそんなレッテルを貼られるようになったのかわかりませんが、あるひとつの方向性に向かった作品をそのように命名することは、人間嗜好の多様性を肯定する考えと衝突します。実際多くの人は「フ~ン、これが『名作』なのか、あんまりいいとも思えないな」という体験頻繁にするので、自分の感性がだめなんだろうとか、芸術的センスがないのかなんていう自己否定にもつながる。作家は作家で、「これは『名作』にしよう、これは凡作でいい」と思って作っているわけではない。それを勝手に、こっちは名作こっちは凡作と振り分けられるし、実際のところ自分では失敗作が『名作』などともてはやされるのは、非常に迷惑です。 なぜ、鑑賞者、作家ともに不利益になるような『名作』概念が、はびこるようになってしまったのでしょうか。そして、徐々に、個人主義の漸進的進捗によって淘汰されるかもしれませんが、なお全盛を保っている「名作主義」は消えないのでしょうか。

  • 意識と思考の違い

    意識と思考の違いは何でしょうか。 意識のない思考、思考のない意識を想定できるでしょうか。 できるのであれば具体例を示していただけないでしょうか。 よろしくお願いします。

  • あなたの眼から観える日常や世界は現実といえますか?

    あなたの眼から観える日常や世界は現実といえますか?

  • 社会契約は、「国家と市民」?「市民相互」?

    哲学について特に学んでおらず、どなたか混乱を収めていただければと思い投稿いたします。 社会契約とは「ある国家内でその国家とその市民の権利と責任に対する仮定・空想上の契約をいう。」という説明をWikipediaなどで見かけるのですが、ルソーの社会契約論を読むと「個々人がそれぞれ全個人と結合することにより政体が成立する」というように読めます。 そういう意味では、「政体は市民間の契約の結果であり、結果の産物である政体と市民は契約していない」ように思うのですが、どう捉えればいいのでしょうか。 1. 単純にルソーの契約論が読めていない 2. 政体の起源である市民間契約と、さらに運用のための政体と市民の契約は別 3. 政体=全市民なので、全市民との契約は即ち政体との契約 4. 現在はロック等を基とし、ルソーの「社会契約」とは別に定義されている 5. その他 どうぞよろしくお願いいたします。

  •  言葉で実際にあると言えるのか?

     いい感じを感じると言うのを感じたとき、そのいい感じをそのとき実際には感じられないので、実際にはいい感じというのは存在しないのでしょうか?  また、「いい感じがあるというのは、ただそれをいいと感じて実際にあると信じるからだ。」と言ったときでも、「いい感じがある。」と言ったときの感じがない気がするのです。  言葉で、実際の感じがあるというのは言えないのでしょうか?

  • 社会契約は、「国家と市民」?「市民相互」?

    哲学について特に学んでおらず、どなたか混乱を収めていただければと思い投稿いたします。 社会契約とは「ある国家内でその国家とその市民の権利と責任に対する仮定・空想上の契約をいう。」という説明をWikipediaなどで見かけるのですが、ルソーの社会契約論を読むと「個々人がそれぞれ全個人と結合することにより政体が成立する」というように読めます。 そういう意味では、「政体は市民間の契約の結果であり、結果の産物である政体と市民は契約していない」ように思うのですが、どう捉えればいいのでしょうか。 1. 単純にルソーの契約論が読めていない 2. 政体の起源である市民間契約と、さらに運用のための政体と市民の契約は別 3. 政体=全市民なので、全市民との契約は即ち政体との契約 4. 現在はロック等を基とし、ルソーの「社会契約」とは別に定義されている 5. その他 どうぞよろしくお願いいたします。

  • 月が存在しない場合、地球が球形であることは説明可能か

    もしも月が存在しなかったら、地球が球体であることを説明できるでしょうか?という疑問です。 アリストテレスの『天体論』だったと思いますが、 (1)月食の影の形 (2)水平線の向こうへ遠ざかるものの見え方(下から見えなくなる) (3)南北での天体の見える角度の違い を地球が球体であることの証拠として挙げていたかと思います。 (1)については質問2798727で地球が球体であることの論拠となりえることは納得しましたが、月が存在しない場合は使えません。 (2)はそもそも水平線の彼方にあるような遠くのものを見えるのかという疑念があるんですが、そこを大目に見ても球である必然性はないように思います。放物面でもいいですし。 (3)についても、やはり南北方向での断面が円あることが言えても東西方向については言えません。 したがって、元々(2)(3)は証拠として不十分であるため、月が存在しなければ、地球が球体であることがわからないと思うのですが、どうでしょうか? 他の証拠でもいいのですが、なんとか地球が球体であることを説明する方法はありますか?

  • 論証の妥当性とトートロジーの関係(命題論理)

    A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当である、というのは、妥当という言葉の定義からして、 A1、A2・・・という前提がすべて真であるとき、必ず結論Cも真である。(結論がCで無くなるような場合、すなわち反例は存在しない)という事だ。 ここで、 (A1∧A2・・・)⇒C という論理式を見てみる。この論理式がトートロジーになる場合というのは、真理値分析してみて、 (A1∧A2・・・)が真の時、Cがすべて真 になっていればよい。 そして(A1∧A2・・・)が真の時、というのは、 A1、A2、・・・がすべて真であるとき、 である。つまり、 A1、A2、・・・がすべて真であるとき、Cがすべて真 という条件がそろえば、論理式(A1∧A2・・・)⇒Cはトートロジーである。 ここで、先ほどの、論証が妥当であるための条件、を見てみると、 A1、A2・・・という前提がすべて真であるとき、必ず結論Cも真である、 という風になっている。これはまさに、(A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーであるための条件である。 成り立つ条件が同じであるから、 A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当であれば、(A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーであり、 (A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーであれば、A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当である。 といえる。 また、成り立つ条件が同じならば、論理的には同じ意味といってよいので、 A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当である、という事と、 (A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーである、という事は、同じ事を意味している。 といえる。 かくして、論証の妥当性とトートロジーという概念がつながった。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 論証の妥当性とトートロジーの関係は、以上のようなもので、問題ないのでしょうか。 下から4行目、成り立つ条件が同じならば論理的には同じ意味になる、というところが、 なんとなく引っかかるのですが、そういうものなんでしょうか。

  • 人の幸せのためのみに社会が動いていたら

    教えてgooやっていて、自己満足のために回答しているひとが結構いるもんだなと思いました。質問をちゃんと読まないで答えたい事を答える。 社会も体勢はそうで、いらないものを売りつけたり、とにかく自分の利益のために人の満足感とか求めるものとか幸せをないがしろにするパターンの多い事には、絶望感も麻痺してしまうほどです。 もし、ユートピアかも知れませんませんが、 「人も企業も人のためのみに行動する」 という社会が実現したらどうなってしまうのでしょうか。

  • 牛乳

    思ったんですが牛乳にはどれぐらいの栄養があるのでしょう

  • 『自由意思』は存在するのでしょうか

    『自由意思』は存在するのでしょうか。 最近の哲学の学者はこのことに対してどのような見解をもっているのでしょうか。最近の通説の傾向は、どうなのでしょうか... 。 暇なときに自分なりに考えてみましたが... 。 「人間の視点から見れば、『自由意思』が、あたかも存在するように感じるが、『神のごとく』最も高い視点から見れば、すべての現象は、原因によって生ずる結果(原因により生じた現象)なのかな」 という結論になりました。 最近の通説的な学説は、どうなっているのでしょうか。

  • 論証の妥当性とトートロジーの関係(命題論理)

    A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当である、というのは、妥当という言葉の定義からして、 A1、A2・・・という前提がすべて真であるとき、必ず結論Cも真である。(結論がCで無くなるような場合、すなわち反例は存在しない)という事だ。 ここで、 (A1∧A2・・・)⇒C という論理式を見てみる。この論理式がトートロジーになる場合というのは、真理値分析してみて、 (A1∧A2・・・)が真の時、Cがすべて真 になっていればよい。 そして(A1∧A2・・・)が真の時、というのは、 A1、A2、・・・がすべて真であるとき、 である。つまり、 A1、A2、・・・がすべて真であるとき、Cがすべて真 という条件がそろえば、論理式(A1∧A2・・・)⇒Cはトートロジーである。 ここで、先ほどの、論証が妥当であるための条件、を見てみると、 A1、A2・・・という前提がすべて真であるとき、必ず結論Cも真である、 という風になっている。これはまさに、(A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーであるための条件である。 成り立つ条件が同じであるから、 A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当であれば、(A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーであり、 (A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーであれば、A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当である。 といえる。 また、成り立つ条件が同じならば、論理的には同じ意味といってよいので、 A1、A2・・・という前提からCという結論を導く論証が妥当である、という事と、 (A1∧A2・・・)⇒Cがトートロジーである、という事は、同じ事を意味している。 といえる。 かくして、論証の妥当性とトートロジーという概念がつながった。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 論証の妥当性とトートロジーの関係は、以上のようなもので、問題ないのでしょうか。 下から4行目、成り立つ条件が同じならば論理的には同じ意味になる、というところが、 なんとなく引っかかるのですが、そういうものなんでしょうか。

  • 物質は実在するのでしょうか?

    「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。 そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか?  それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか? ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか? このように考えると、以下のような結論になると思います。 この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。 すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

  • 物質は実在するのでしょうか?

    「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。 そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか?  それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか? ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか? このように考えると、以下のような結論になると思います。 この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。 すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?

  • 物質は実在するのでしょうか?

    「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。 そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか?  それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか? ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか? このように考えると、以下のような結論になると思います。 この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。 すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?