fishbowl66 の回答履歴

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  • name と名前 は同じ発想か?

     1. / n / という音素に注目します。しかもこれに《同定相》という意義素を想定してみます。  2. 《そのものを同定する》から 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は 《名》という語義を帯びる。  3. 《数量の同定》として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。  4. 同定相が 同時にみづからの対極の《否定相》の意義をも帯びるという見方を提出します。  或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を規定することにもなるとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相を帯びさせます。  これは非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。《留守》は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいて守る人( B )を言ったものですが そうではなく非合理的に意味が変化を受け 《外へ出かけた状態のこと(つまり≒非 B つまり元に戻って≒ A )》を言うように変化しました。かくして A を否定する意義をも持ちます。  すなわち 音素 / n / は 同定相のほかに《否定相》をも帯びた。  《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定(打ち消し)法。および 英語《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。  どうぞ自由なご見解をお寄せください。

  • 日本人で有名な言語哲学者とは?

    日本人で有名な言語哲学者とは? 日本の思想・哲学を勉強している外国人に、日本人で有名な言語哲学は誰か、ということを聞かれました。そもそも日本人の哲学研究者は西洋の学者の研究成果を焼き直ししているだけなので、外国人が研究するに値するような日本の言語哲学者がいるとは思えないのですが、ご存知の方がいましたら、教えてください。 現代の人でなくても構いません。彼は「仏教にも言語哲学的要素があるはずだ」と言っていました。その真偽は別にして、ともかく彼は日本の言語哲学に興味があるようです。

  • 日本人の財布を1つにしませんか?

    日本人の財布を1つにしませんか? 国民全員の財布を統合し、みんなの財布にして自由に使えるようにすれば、金に困ることはないと思うのです。そうすれば政府の指標である「幸福量」も上がるのでは?

  • 遊戯とは

    念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。  きみが自ら投げるものをとらえる限りは  すべては たくみと任された獲物  きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき  正確に可能にされた飛翔のなかで  神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・  そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----  そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば  いや もっと不思議なことに  勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・  あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を  若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----  そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者  投擲はきみに軽くもなく 重くもない  きみの両手から流星が輝きいでて  自らの空間を駆けめぐる・・・            (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

  • 《言語記号の恣意性》は 神話である。

     これは 構造主義の基礎に横たわる仮説である《歴史は 無主体の過程である》という見方をくつがえしたいという目的のもとに問うものです。  これについて結論づけるところまで行ければよいと考えます。  《恣意性》説は じんるいの歴史において《自然》と《人為(その意味で 文化)》とが切り離されたと見るものです。  この見方がくつがえれば 人為と自然とがつながっているということ。たとえ本能がほとんど壊れてしまっていてもなお 自然の痕跡は残っていて ひとは 生物としての存在性そのものである《自然人》でありうると見ることになります。  構造主義は この自然人であることから切り離された文化人(その意味での社会人)として〔のみ〕生きる生物種たる人間は もはや一人ひとりが互いに 社会的な行為関係とその構造の中であたかも無主体として生きるほかないと言おうとしていると考えます。  (あたかも 主体無き《縁起》の過程をあゆむと言っているとも見られます。そう言えば 通俗的にはブディズムも さとりを説いていてもけっきょく 《ひとり》としての人間は無力であり社会の縁起過程に従うのみだと言っているかにも聞こえます)。  すでにこの議論は 二度おこなっています。最初のはわたし(= noname#80116 )の質問で 次のには 或る質問に寄せたわたしの議論があります。  【Q:言語記号の恣意性は正しいか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2944701.html  【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html  議論の中身としてかなりの程度まですすんでいるかとも思います。結論を出したいという思いで改めて設問します。  きっかけ(たたき台)は 次のごとく最初の問いと同じものを用います。      *  / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。  (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・   心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・   これが消滅する というシニフィエとなっている)  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。人間は《自然人かつ社会人》であると言えると思われます。  《自然人》としてかたちづくる――つまり 感性にもとづく――《好き嫌い⇒ くせ⇒ 価値観 ∽ それにかかわった意志行為》が 人間をして経験有限相対的な存在であるかぎりでの《主体》たらしめる。《無主体の過程》というのは この個人としての自由な意志行為のあとの相互に作用して錯綜する構造つまり縁起の過程総体のことを言うと見られます。  どうでしょう?

  • 《言語記号の恣意性》は 神話である。

     これは 構造主義の基礎に横たわる仮説である《歴史は 無主体の過程である》という見方をくつがえしたいという目的のもとに問うものです。  これについて結論づけるところまで行ければよいと考えます。  《恣意性》説は じんるいの歴史において《自然》と《人為(その意味で 文化)》とが切り離されたと見るものです。  この見方がくつがえれば 人為と自然とがつながっているということ。たとえ本能がほとんど壊れてしまっていてもなお 自然の痕跡は残っていて ひとは 生物としての存在性そのものである《自然人》でありうると見ることになります。  構造主義は この自然人であることから切り離された文化人(その意味での社会人)として〔のみ〕生きる生物種たる人間は もはや一人ひとりが互いに 社会的な行為関係とその構造の中であたかも無主体として生きるほかないと言おうとしていると考えます。  (あたかも 主体無き《縁起》の過程をあゆむと言っているとも見られます。そう言えば 通俗的にはブディズムも さとりを説いていてもけっきょく 《ひとり》としての人間は無力であり社会の縁起過程に従うのみだと言っているかにも聞こえます)。  すでにこの議論は 二度おこなっています。最初のはわたし(= noname#80116 )の質問で 次のには 或る質問に寄せたわたしの議論があります。  【Q:言語記号の恣意性は正しいか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2944701.html  【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html  議論の中身としてかなりの程度まですすんでいるかとも思います。結論を出したいという思いで改めて設問します。  きっかけ(たたき台)は 次のごとく最初の問いと同じものを用います。      *  / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。  (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・   心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・   これが消滅する というシニフィエとなっている)  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。人間は《自然人かつ社会人》であると言えると思われます。  《自然人》としてかたちづくる――つまり 感性にもとづく――《好き嫌い⇒ くせ⇒ 価値観 ∽ それにかかわった意志行為》が 人間をして経験有限相対的な存在であるかぎりでの《主体》たらしめる。《無主体の過程》というのは この個人としての自由な意志行為のあとの相互に作用して錯綜する構造つまり縁起の過程総体のことを言うと見られます。  どうでしょう?

  • 《言語記号の恣意性》は 神話である。

     これは 構造主義の基礎に横たわる仮説である《歴史は 無主体の過程である》という見方をくつがえしたいという目的のもとに問うものです。  これについて結論づけるところまで行ければよいと考えます。  《恣意性》説は じんるいの歴史において《自然》と《人為(その意味で 文化)》とが切り離されたと見るものです。  この見方がくつがえれば 人為と自然とがつながっているということ。たとえ本能がほとんど壊れてしまっていてもなお 自然の痕跡は残っていて ひとは 生物としての存在性そのものである《自然人》でありうると見ることになります。  構造主義は この自然人であることから切り離された文化人(その意味での社会人)として〔のみ〕生きる生物種たる人間は もはや一人ひとりが互いに 社会的な行為関係とその構造の中であたかも無主体として生きるほかないと言おうとしていると考えます。  (あたかも 主体無き《縁起》の過程をあゆむと言っているとも見られます。そう言えば 通俗的にはブディズムも さとりを説いていてもけっきょく 《ひとり》としての人間は無力であり社会の縁起過程に従うのみだと言っているかにも聞こえます)。  すでにこの議論は 二度おこなっています。最初のはわたし(= noname#80116 )の質問で 次のには 或る質問に寄せたわたしの議論があります。  【Q:言語記号の恣意性は正しいか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2944701.html  【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html  議論の中身としてかなりの程度まですすんでいるかとも思います。結論を出したいという思いで改めて設問します。  きっかけ(たたき台)は 次のごとく最初の問いと同じものを用います。      *  / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。  (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・   心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・   これが消滅する というシニフィエとなっている)  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。人間は《自然人かつ社会人》であると言えると思われます。  《自然人》としてかたちづくる――つまり 感性にもとづく――《好き嫌い⇒ くせ⇒ 価値観 ∽ それにかかわった意志行為》が 人間をして経験有限相対的な存在であるかぎりでの《主体》たらしめる。《無主体の過程》というのは この個人としての自由な意志行為のあとの相互に作用して錯綜する構造つまり縁起の過程総体のことを言うと見られます。  どうでしょう?

  • 優生学思想

    優生学思想の歴史やその変遷、その議論となっている点などなるべく最近のことまで含めて著されている成書を教えてください。 書かれている言語は、日本語・英語・フランス語ならば構いません。 よろしくお願い致します。

  • ベルグソンの芸術論

    哲学者のベルグソン(Henri Bergson)が音楽について書いた本(論文?)があると聞いたのですが、何というタイトルのものか、ご存じでしたら教えて下さい。よろしくお願いします。

  • アダム=スミスの正義論と法、経済、政治への見方の関係について教えてください。

    アダム=スミスの正義論と法、経済、政治への見方の関係について教えてください。

  • お金に「価値」があるのか?

    私の両親は「お金のために働くのだ」と私を指導してきました。だから「貯金しなさい」とかよく言います。「価値があるもの」を扱うように大事にしてしまいます。また労働の対価として「価値あるもの」とも言われます。 しかし、お金を払う(使う)ときに、物理的に価値ある行動をしているのは、お金を受け取る相手であって、お金を払う私じゃない。そう考えると「そもそも、お金に「価値」があるのか?」という疑問がでます。 皆様は正直なところどう思うでしょうか?様々なご回答を聞いてみたく思います。

  • お金は超越論的仮象か?

    お金は超越論的仮象か?

  • 「社会」の定義って?

    「社会」とは何でしょうか? アリやハチのような中央集権型で遺伝子コントロールされる社会もありますし、人間のように(完全でないにしろ)自発的に行動する社会もあります。また、多細胞生物は細胞群の社会だとも思われます。 そう考えると、どのような定義が最もふさわしいのか解りません。 「社会」の定義ってなんなんでしょうか?皆さんで統一できないものなんでしょうか?

  • 「時間」は、一様に流れているか?

    . 僕は、時間は一様に、同じ速さで流れていると思っていました。 しかし、あるきっかけから、時間は、速く流れたり、遅く流れたり、時には止まってしまったりする事もあるが、それを、識別できないから、一様に流れていると思っているのではないかと、疑問が生じました。 例えば、時間が止まったとしましょう。 その場合、時間が止まった認識出来るでしょうか? 飛んでいる鳥はどうでしょう。 落ちる気がしますが、落ちるためには、落ちる時間が必要です。 太陽の炎は消えるでしょうか? 消えるためには、消える時間が必要です。 人間は死ぬでしょうか? 死ぬためにも、やはり、時間が必要です。 世界は、闇に包まれるのでしょうか? 人が見ている像は、そのまま保たれます。 人間の意識はどうでしょう? 意識が成立するには、時間が必要です。 つまり、時間が止まっている事を識別するものは何も存在しないと思えるのです。 時間が、ゆっくり流れるとしましょう。 しかし、心臓の脈もゆっくり打ち、意識もゆっくり活動します。 地球が、太陽に引き寄せられる重力も、G=9.8m/s^2 で、変化がないため今までと同じように、太陽の周りを回ります。 時計の針も、ゆっくりと進みます。 原子時計の波長も時間単位の周波数なので、時間が伸びれば、それに応じて波の間隔も伸びます。 こうして考えると、時間が速く流れても、遅く流れても、止まっても、これを識別する手段がないと思えます。 つまり、時間の流れが不規則でも、私たちは、一様に流れているとしか認識できないと思えるのです。 時間が、不規則でなく一様に流れているという、「証明」は出来るのでしょうか? .

  • 価値って実在するの?

    価値って実在するの?

  • 価値って実在するの?

    価値って実在するの?

  • 価値って実在するの?

    価値って実在するの?

  • 価値って実在するの?

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  • 価値って実在するの?

    価値って実在するの?

  • 天を見て

    あなたには天がみえていますか? 抽象的な質問で済みませんが、それは幾つくらいから、どういうきっかけで見えるようになりましたか?