fishbowl66 の回答履歴

全219件中21~40件表示
  • 余剰マネーとはどうやって生まれたのでしょう?

    余剰マネーとはどうやって生まれたのでしょう? 経済学の基本恒等式である、Y-C=I(貯蓄=投資)、から考えると、現在の世界でありあまっているとよく言われる余剰マネーというのは過去の貯蓄が毎年毎年つみあがったものと考えていいのでしょうか?現在の世界の金融資産残高(余剰マネー?)=過去の投資Iの蓄積、と考えられるなら、金融資産残高と同額の実物資産(生産設備とか研究所とかビルなど)が実体経済に存在していると考えていいのでしょうか?金融資産残高=実物資産残高=過去の投資の蓄積だとすると、ここからいくつかの疑問が出てきます。 まず、(1)銀行の信用創造についてです。 単純再生産をしている未発達な経済状態(貯蓄が全くされず、生産した財がすべて消費されるような経済)から拡大再生産へ向かい、経済全体として生産能力を増強していく過程(Iが増える=貯蓄が増える)で、このI=投資を増やしているのが銀行の信用創造であると考えていいのでしょうか? この単純再生産の状態から脱却する過程においては、はじめに誰かが所得のほんの一部を消費に回さずに貯蓄したものを、銀行が投資に回し、信用創造によって貯蓄と投資を無限大に拡大(支払い準備のためのお金を手元にほとんど残さずに貸出に回したと仮定)しているとするなら、銀行の信用創造機能こそ、経済成長の源泉であり、経済が拡大した分は全て銀行の信用創造(貯蓄=投資の増分)だと言えるのでしょうか? 余剰資産はすべて銀行が吸い上げる(預ける)という仮定の下では、投資=貯蓄=消費に回されなかった余剰所得=銀行預金、と考えれば、信用創造量=投資(銀行のバランスシートの増分=預金増分=その期の投資)が成立すると思うのですが、一方で、銀行の貸出は消費に回される部分もあるので、信用創造の総量(銀行バランスシートの増分)と投資は等しくないはずです。この矛盾はどこに問題があるのでしょう? 二番目の質問は、(2)現代のように、資本の蓄積(過去の貯蓄=投資が毎年積み重なって)が非常に大きい経済での、銀行の信用創造の仕組みについてです。 仮にどこかの企業が利益を銀行に預けたとすると、この新たに生まれた預金は信用創造によってかならず実物経済に影響する(消費か投資に回される)のでしょうか?高橋洋一さんの本の中で、デフレギャップは財政政策と金融政策で埋められると記述がありました。財政政策が実体経済に影響与えることは当たり前のことと理解できますが、金融政策は実体経済に影響を与えられるのでしょうか?金利をこれ以上下げられない、または、投資機会がないような経済状態でも、量的緩和(国債などの金融資産を日銀が銀行から買う)を行うことで、お金は回り回って必ず消費か投資が生まれると高橋さんは言っていますが、これは真理なのでしょうか?(過去の経済ではそうだったという経験則なのか、それとも、普遍的に必ず成り立つことなのか?) 銀行から金融資産を買ってお金を強制的に市場に投入しても、実体経済に投資機会がなければ、そのお金が、金融資産の流通市場(セカンダリマーケット)に投入されつづけ、お金が、金融機関や資産家の間で回っているだけで、まったく実体経済に影響がないことは理論的に想定できないのでしょうか? 最後の質問です。2番目の質問の延長ですが、マネーが「余っている」「じゃぶじゃぶ」とよく言われますが、それは、金融政策によって中央銀行が市場に供給したお金の総量が増えていることを指すという理解でいいのでしょうか? 中央銀行のお金が銀行の金融資産である国債等と交換されてマネーが供給されるなら、金融資産の等価交換が行われるだけですよね?銀行に現金がだぶついていることを「マネーが余っている」というのなら、その意味するところは「銀行に国債のかわりにお金を供給したけれども、実体経済に吸収されなくて、銀行にお金が余っている状態」と解釈できることになり、そうすると、金融政策によってお金を供給しても意味がないということになります。やはり、金融政策の実体経済への有効性はこのように不明確なものなのですか? ながながと申し訳ありません。ただ、経済のことを考えると毎回このようなところで思考が停止してしまい考えが進まない状態だったので質問させていただきました。どうぞよろしくお願いたします。

  • ジュディス・J・トムソンの論文「人工妊娠中絶の擁護」について質問します

    ジュディス・J・トムソンの論文「人工妊娠中絶の擁護」について質問します。 結局、この人は何が言いたいのか、よく理解できませんでした。 わたしの解釈では 1、レイプでない場合は中絶は不正である 2、レイプの場合で、負担が大きい場合、中絶は容認できる 3、レイプの場合でも、負担が小さければ、中絶するのは不謹慎である 4、妊娠初期の中絶は全て認められる と読めたのですが。 間違っていたら教えてください。お願いします。

  • 大体で、軽いノリで言ってしまえば「脱構築」って一体何のことでしょうか?

    大体で、軽いノリで言ってしまえば「脱構築」って一体何のことでしょうか? あと、名言風に言ってくれたらさらにうれしいです。

  • マネーと信用について根本的なことがわかっていません。

    マネーと信用について根本的なことがわかっていません。 よく、世界の株価が下がって、○○兆円が消えたとか、中央銀行が資金を供給して過剰流動性がどうとか、いう解説を目にします。 そもそも、お金はどのように生まれて、どの様に消えるのですしょうか? 金融危機の前後でマネーの総量は膨脹し、危機の後、急速に縮小したようなイメージを持っていますが、世界を駆けめぐる「マネー」とは、どの様に創り出され、どのようにきえてゆくのでしょうか? そもそも、お金ってなんでしょうか? 中央銀行が勝手にお金を作り出せるなら、ハイパーインフレにならない程度にどんどん刷ってただで配ればいいような。 きっと、経済学の基本なのだとは思うのですが、この本を読め、ここにちゃんと書いてある的なアドバイスがあれば、お願いします。

  • 純粋理性批判(Q7)

    純粋理性批判(Q7) 「空間と時間という直観の形式によって(よるのだから)、客体は物自体ではなく現象として認識される」として、あくまで例としてですが、 「我思うゆえに我あり」の、「我(思う)」が認識の主体で「我(あり)」が現象と言えると思われます。 この場合、デカルトは(よく知りませんが)どちらも同じ「我」と考えていたことになるのか、という気もしますが、それはさておき、 「認識主体としての我」と「現象としての我」についてカントは何か述べているでしょうか。 いるとすれば、その概略を教えていただけないでしょうか。 それとも「我」という概念には、物自体・現象という基準を適用させてはいないのでしょうか。 前提に間違いがございましたら、それもご指摘いただけるとありがたいと思います。     

  • マネーと信用について根本的なことがわかっていません。

    マネーと信用について根本的なことがわかっていません。 よく、世界の株価が下がって、○○兆円が消えたとか、中央銀行が資金を供給して過剰流動性がどうとか、いう解説を目にします。 そもそも、お金はどのように生まれて、どの様に消えるのですしょうか? 金融危機の前後でマネーの総量は膨脹し、危機の後、急速に縮小したようなイメージを持っていますが、世界を駆けめぐる「マネー」とは、どの様に創り出され、どのようにきえてゆくのでしょうか? そもそも、お金ってなんでしょうか? 中央銀行が勝手にお金を作り出せるなら、ハイパーインフレにならない程度にどんどん刷ってただで配ればいいような。 きっと、経済学の基本なのだとは思うのですが、この本を読め、ここにちゃんと書いてある的なアドバイスがあれば、お願いします。

  • ポール・コリアー著、最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になす

    ポール・コリアー著、最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?の日本語訳本を今読んでいます。しかしながら、内容のわりに大変読みづらい感じがしており、理解しながら読み進めているのですがだいぶ時間がかかっています。 日本語訳の問題という声も聞きますので、これからは原著も読もうかと思っているのですが、著者の意見の根本の理論や裏づけとなる知識が細かくですが、ところどころ理解出来ない事を考えれば私の下知識の無さも問題であるように感じます。 この本を理解するにあたり、先に読んでおいたほうがよい本や学ぶべき分野などアドバイスがありましたら、よろしくお願いします。

  • カントの言う認識と判断について

    カントの言う認識と判断について  以前カントの認識と判断における純粋とアプリオリの違いについて説明したのですが2つ回答をした時点で分からなくなったことが一つありそれは認識と判断の違いです。この部分のなんとなくの違いは説明できるのですが回答として成り立つような説明が出来ませんでしたそこで妙に引っかかってしまい試行錯誤した結果次のような回答になりました。 ----- 認識と判断は不可分であり以下のような経緯により成り立つ 認識⇒判断⇒認識(不可分)、この経緯により認識と判断を不可分に行っている。 詳しく言うと判断し認識した、認識して判断した、などは判断した瞬間に認識しており認識した瞬間に判断しているというものである。この不可分な次元で認識はカテゴリーそのものを基準とした考えなので純粋である場合と非純粋である場合がありこれもまた不可分である。判断はその組み立てや妥当性における形成なのでその部分のみで言えば純粋である。しかし組み立ての材料そのものなどは認識により引き出されるのでそれを組み合わせればアプリオリな判断と言える、しかしここで逆を考えてみると奇妙なことに気がつくそれは認識するという行為は判断しているが故に派生させられる現象だからである。つまり色を認識するにも色を判断して同時に認識しているからである。つまり認識するにも判断が必要であるということで自明である。 --- と認識したのですがどうでしょうか?

  • カントの言う認識と判断について

    カントの言う認識と判断について  以前カントの認識と判断における純粋とアプリオリの違いについて説明したのですが2つ回答をした時点で分からなくなったことが一つありそれは認識と判断の違いです。この部分のなんとなくの違いは説明できるのですが回答として成り立つような説明が出来ませんでしたそこで妙に引っかかってしまい試行錯誤した結果次のような回答になりました。 ----- 認識と判断は不可分であり以下のような経緯により成り立つ 認識⇒判断⇒認識(不可分)、この経緯により認識と判断を不可分に行っている。 詳しく言うと判断し認識した、認識して判断した、などは判断した瞬間に認識しており認識した瞬間に判断しているというものである。この不可分な次元で認識はカテゴリーそのものを基準とした考えなので純粋である場合と非純粋である場合がありこれもまた不可分である。判断はその組み立てや妥当性における形成なのでその部分のみで言えば純粋である。しかし組み立ての材料そのものなどは認識により引き出されるのでそれを組み合わせればアプリオリな判断と言える、しかしここで逆を考えてみると奇妙なことに気がつくそれは認識するという行為は判断しているが故に派生させられる現象だからである。つまり色を認識するにも色を判断して同時に認識しているからである。つまり認識するにも判断が必要であるということで自明である。 --- と認識したのですがどうでしょうか?

  • カントの言う認識と判断について

    カントの言う認識と判断について  以前カントの認識と判断における純粋とアプリオリの違いについて説明したのですが2つ回答をした時点で分からなくなったことが一つありそれは認識と判断の違いです。この部分のなんとなくの違いは説明できるのですが回答として成り立つような説明が出来ませんでしたそこで妙に引っかかってしまい試行錯誤した結果次のような回答になりました。 ----- 認識と判断は不可分であり以下のような経緯により成り立つ 認識⇒判断⇒認識(不可分)、この経緯により認識と判断を不可分に行っている。 詳しく言うと判断し認識した、認識して判断した、などは判断した瞬間に認識しており認識した瞬間に判断しているというものである。この不可分な次元で認識はカテゴリーそのものを基準とした考えなので純粋である場合と非純粋である場合がありこれもまた不可分である。判断はその組み立てや妥当性における形成なのでその部分のみで言えば純粋である。しかし組み立ての材料そのものなどは認識により引き出されるのでそれを組み合わせればアプリオリな判断と言える、しかしここで逆を考えてみると奇妙なことに気がつくそれは認識するという行為は判断しているが故に派生させられる現象だからである。つまり色を認識するにも色を判断して同時に認識しているからである。つまり認識するにも判断が必要であるということで自明である。 --- と認識したのですがどうでしょうか?

  • 旅についての哲学書

    旅についての哲学書 ただいま、大学のレポート制作で「旅」という行為について調べようと思っているのですが、自分の探し方の問題なのか、なかなか参考文献として利用できるものが見つからず困っております。 そこで、皆さんにお聞きしたいのですが「旅」について記してある哲学書などご存知ないでしょうか? また、エッセイなどは対象外なのですが、心理学等の見地からの文献があるのでしたら教えていただきたいです。 文献のテーマが「旅」でなくとも、一部で触れている程度でも良いのでご存知でしたら返答よろしくお願いします。

  • 純粋理性批判(Q5)

    純粋理性批判(Q5) 「下の( )内に適切な言葉を入れよ」という問題があったとして、 「命題」「認識」「判断」どれも入れても間違いにはならないでしょうか。 『「すべての変化にはその原因がある」という(  )』

  • 純粋理性批判(Q5)

    純粋理性批判(Q5) 「下の( )内に適切な言葉を入れよ」という問題があったとして、 「命題」「認識」「判断」どれも入れても間違いにはならないでしょうか。 『「すべての変化にはその原因がある」という(  )』

  • 純粋理性批判(Q4)

    純粋理性批判(Q4) 度々お世話になりますが、よろしくお願いいたします。 1.「物体は広がり(延長)を持つ」は、分析的な判断によるアプリオリな認識。 2.1のような「分析的な判断によるアプリオリな認識」のみを純粋認識と呼ぶ。 3.「物体には重さがある」は、総合的判断によるアプリオリな認識。 4.「バラは赤い」は、総合的判断によるアポステリオリな認識。 5.アポステリオリな認識が分析的判断によってなされることは一切ない。 【質問1】 上の5つの解釈のうち、間違いがありましたら(いくつでも)その理由を添えてご指摘いただけないでしょうか。 【質問2】 「すべての変化には原因がある」という命題の解釈は上のどれに該当するでしょうか。 または、どれにも該当しないでしょうか。   

  • 純粋理性批判(Q1)

    純粋理性批判(Q1) 『純粋理性批判』入門(講談社選書メチエ)という黒崎政男氏の本を読み出したところです。 「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」というカントの記述に対して、黒崎氏は以下のように解説しています。 〇--------------------------- ~経験が可能となるためにはいくつかの条件がある。 例えば、空間・時間はものが存在するたの形式ではなく、私たちの直観の形式であること。「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している、などなど。 これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、<認識>が成り立つことと、その<認識の対象>、つまりものが成立してくることとは同時的事態である、とカントは主張しているのである。 --------------------------〇 ここで、 (1)空間・時間が、私たちの直観の形式である。 (2)「原因と結果」などの因果律が、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している。 とは、どのような条件を指しているのでしょうか。 カントの思想(に関係はしてくるのでしょうが)というより、黒崎氏の意図していることを、まず知りたいと思っています。 素人にもわかりやすくご説明いただけると有難いと思います。   

  • 米国の政治学者ジョン・ロールズが「普遍的リベラリズム」から「政治的リベ

    米国の政治学者ジョン・ロールズが「普遍的リベラリズム」から「政治的リベラリズム」にシフトしたことが、 世界の政治思想のトレンドの大きな変更点だったようなことが本に書かれていたのですが、もう少し具体的に言うとどういう思想の変化だったのでしょうか? 「理念も大切だが、それ以上に事実性が大切だ」という思考に大きく傾斜していった・・・ とも書いてありました。どういう意味なんでしょう?詳しい方、教えていただけると助かります。

  • 換金の技法

    換金の技法 技法をテクネーとギリシャ語にすれば哲学っぽくなるでしょうか。 最近、質屋が増えました。リサイクルショップや中古買取の店を含めると街中ほとんどが質屋と言ってよい状況です。 不動産も中古。 なかにはもはやゴミとしか扱えないものに値段をつけて売るようなCD店もあり、ひどい有り様ですが、なぜこんなに中古屋がはびこるんでしょうか。店員はゴミを売ってなんとも思わないんでしょうか。いつから人はゴミを中古などと説得させられているのでしょう。

  • 倫理学で「道徳的な善は何によって決まるのか?」というテーマは解決してる

    倫理学で「道徳的な善は何によって決まるのか?」というテーマは解決してるのですか??? 今の日本では何によって決まってるのですか??????

  • 捨て去るべきもの

    捨て去るべきもの この世には、捨て去るべきものがあると思います。 人は何を捨て去って、彼岸に赴くのでしょうか。

  • シニフィアン・シニフィエとノエシス・ノエマの違いについて教えてください。

    シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係における両者の根本的な違いについて教えてください。 前者が記号における構造を問題にし、後者が対象意識を問題にしていることはわかったのですが、シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係はそれぞれが固定化されていないという点では構造上大差が無いように感じられてしまいます。 もし両者における構造上の決定的な差異があれば教えてください。宜しくお願いします。